第32話 はなれたくない、ちかくにいたい④
過去の玲が、女の子とのお付き合いを経験しているだろうとは、薄々考えていた。この容姿の持ち主を、周囲が放っておくはずがない。現在進行形で特定の相手がいない現状が、奇跡なのに。
さくらは自分の耳を塞いでいた。
「最後まで聞けよ。お前が聞きたいって、言ったんだ」
玲はさくらの両手を耳から離し、ソファに押さえつけた。
「長い休みのたびに、京都へ通って糸染め職人になりたいのか、祥子と遊びたいだけなのか、自問自答を繰り返していた。そんな俺の気持ちを変えたのはお前だ、さくら」
「わ、たし?」
「高校二年の春、隣のクラスになったお前を知った。目立たないけど、いい表情をしているやつだな、と思って眺めていた。そのときは恋愛感情とかではなくて、好感っていうのかな、さくらを見るたびに和んでいた。京都行きは続いていたけれど、祥子とのかかわりは断った。親や世間に隠れ、こそこそしている自分が穢れているようで、いやになった」
「玲のほうは、関係を断ったけれど、祥子さんは納得していないかもしれない」
「京都での課題は、残っている。でも、さくらなら、一緒に乗り越えてくれると信じている。俺も、さくらと類とのことは一瞬の迷いだったと目をつぶる。だから」
「な、にそれ。私が類くんと京都のホテルに泊まったこと、やっぱり根に持っているんだ。しかも、そういう仲になったと、思っている?」
「前にもあっただろ、お前と類が帰って来なかった夜。あのときは未遂だったが、類は獲物を逃がさない。でも許す、と言っているんだ。だからさくらも、過去の俺を許してくれ」
交換条件だった。しかも、誤解の上に成り立っている。
「類くんとは、最後までしていない。そりゃ、かなり際どかったし、制裁も受けたけど、類くんは分かってくれたよ?」
「欲望に忠実なあいつが、女の説得を受け入れるはずがない。ましてや、うぶなさくらのことばなんて。あいつは過去に三人、孕ませたんだからな。しかも最初は、十五のときだ」
「う、嘘! いやだ、三人も? 十五……?」
玲も玲だが、類はさらに上を進んでいる。さくらは呆気に取られた。
「なあ、類はお前にどんなことしたんだ。想像しただけで、毎晩眠れないんだ。さくらに、どんな乱暴をしてきたんだ。制裁って、なんだ?」
「ら、乱暴なんかされていない。私が悪かっただけ。玲のことが忘れられないのに、類くんに甘えて縋ろうとしたから」
「さくらのやわらかい部分を、ちょっと甘噛みしただけだよ、玲」
いつの間にか、ふたりの背後には類が立っていた。
「類!」
上下揃いのジャージでくつろいだ姿の類だが、ひどく愛らしい。
「うるさいなあ、もう。起きちゃったじゃん。静かにしてよ。あっちの酔い潰れどもは起きないかもだけど、ぼくは神経質で繊細なんだからね」
「噛んだって、どうしたんだ」
「ことばの通り。さくらねえさんは、この売れっ子モデルのぼくと、合意の上でホテルに泊まったのに、一般人でしかない玲のことがどうのこうのとか、ぐずぐず言い出すから。お仕置きしたの。舐めて吸ってあげた」
「お前、さくらに傷をつけたのか?」
「うん。しばらく、玲には見せられないように。さくらねえさんが玲と結ばれるなんて、ぼくは絶対にいやだからね。さくらねえさんの身体が喜ぶところは、ぼくだけの秘密」
「なんだと?」
類の挑発に、玲は乗ってしまった。
真顔で、玲は荒っぽくさくらの胸ぐらをつかんだ。
「見せてみろ」
「いやだ。類くんの言っていること、ほんとうだもの。私の首筋や胸もと、類くんの残した痕だらけ。そんなの、玲には絶対見せられない。玲だけには」
「だから、昨日はさっさと部屋に籠ったのか。いいから、見せてみろ。悪いようにはしない。手当は? 病院は?」
「だめったら、だめ!」
強引にさくらの身体を開こうとする玲を、類が間に入って制した。
「女の子が、こんなに必死の形相で抵抗しているんだ。これ以上の尋問は無粋だよ」
「お前は、引き下がるような性格じゃないだろ」
「はっはっは。ぼくはね。でも、玲は引き下がるような性格でしょ?」
「……勝手にしろ!」
リビングのローテーブルを、がたんと音が出るほど派手に蹴り上げた玲は、その勢いのままで外に出て行った。
「玲!」
すぐに、さくらは追いかけようとしたけれど、類がさくらの腕をつかんで止めた。
「さくらねえさんが追いかけて行ったら、火に水を注ぐようなものだって。逆上して、それこそなにをされるか分からないし、危険。玲の帰る家は、ここしかない。絶対に帰って来るから、じっと待つんだよ」
「でも、玲が」
「今は、無理。ぼくにつけられた魂の刻印を、玲の目に晒したいの? あの日のバラの花びら、きちんと持ち帰ってドライポプリにするなんて、ほんと慈悲深いさくらねえさんらしいよ。やさしいを通り越して、悪趣味。あの続き、してあげようか?」
「は、花には、罪がないから。あのまま枯らしてしまうのが、かわいそうで」
怯えながら、さくらはおとなしく首を振った。相変わらず、類は他人の部屋に侵入する癖が直っていない。
「でしょ、ほら。さくらねえさんも、早くおやすみ。玲がいなかったら、ぼくはさくらねえさんのことを攫ってでも、奪いたいよ。玲みたいなヘタレに、この売れっ子モデルのぼくが負けるとか、あり得ないのにさ」
***
朝になっても、とうとう玲は帰って来なかった。
さくらは粛々と荷造りを進めた。今できることをやるしかない。
あたらしくできた家族が離れることについて、さくらは寂しく感じているけれど、涼一だって聡子だって類だって同じ気持ちなのだ。
もちろん、玲もきっと。
衣類。生活用品。参考書。粛々と、段ボールが積み上げられてゆく。すぐに帰る予定だから、最低限ものしか入れない。最悪、服などは現地調達でもいい。軽井沢で、おしゃれにアウトレットでショッピングなんて、受験勉強の気分転換にいいかもしれない。
どこをほっつき歩いているのか、玲は次の日も帰って来なかった。さくらと涼一はきりぎりまで玲の帰宅を待った。
けれど、玲は帰らない。連絡すらない。
***
東京駅の長野新幹線ホームでも、さくらは万が一の可能性を探した。もしかしたら、玲が駅に先回りをしてくれているかもしれない。
「これがドラマや映画だったら、玲が全力で走って来てくれて、私の軽井沢行きを感動的に止めてくれるのに」
当然、そんな都合のよいことは起こらなかった。
無情にも、新幹線はするすると動き出し、さくらを新しい土地へ運びはじめる。
ふと、メールが入った。
期待して開いてみると、類からだった。携帯の待ち受け画面は、北澤ルイの笑顔画像のままになっている。変えてしまうのが、なんとなく惜しかった。
『そろそろ出発? いってらっしゃーい。帰ってきてきたら夜遊び、付き合ってね。新しい覗き場所、見つけたんだよ。うふふ』
まったくいつもの調子である。強がりつつも、類は心配なさそうで、さくらは苦笑した。
「玲くんからかい?」
隣に座っている涼一が聞いてきた。
「ううん、類くん。『いってらっしゃい』って」
「そうか。類くんは趣味が変わっているけれど、分かりやすくて私は助かるよ。玲くんはなあ、一見普通そうで、屈折しているから難しいんだよなあ。いまだに、『涼一さん』呼びのままで、打ち解けてくれない。その上、さくらを恋人にしたいとか……ぶつぶつぶつぶつ」
「父さまのほうにだって、壁があるんじゃないの? 玲は、いい子だよ。夢に一途だし、なんでも自分でやろうとするし」
「そうは言っても、十八歳。もっと、頼ってくれていいんだよ。さくらもね」
「もう子どもじゃないし」
「親にとっては、子どもはいつまでも子どもなんだよ」
さくらは窓の外を眺めた。
上野を過ぎたあたりだ。大きなビルや、家々が飛ぶように通り過ぎてゆく。この風景を、しばらく見ることになるだろう。
おおよそ、三ヶ月の変則通学。
***
軽井沢の社宅は、新しくて内装もきれいだった。社宅、というよりはほとんど寮である。親子で入居するので、個室がふたつある広めの部屋を割り当ててもらった。室内にも、小さいキッチンとシャワー室がある。
棟内にはほかに、食堂と大浴場、娯楽室やライブラリーなどもある。家庭的な雰囲気を残しつつも、ホテルのようなつくりだ。
分厚い窓からは、軽井沢の深い森が見える。
今、目に映る緑は針葉樹ばかりで、紅葉の時季が終わってしまっていることが、とても残念だった。
荷物の段ボールが、先に到着していた。取り出した服をクロゼットに並べ、ふだん使う化粧品などを洗面台へと運ぶ。あとは、机の上に参考書を置けば完成。
荷ほどきはすぐに終わった。
「じゃあこれ。家の鍵と交換」
新居の部屋の鍵を受け取るのと同時に、自宅の鍵は涼一に取り上げられてしまった。東京へは勝手に帰るな、ということだ。
「静かだし、勉強にはうってつけすぎて、もしかしたら合格しちゃうかも」
特例として、試験の日前後だけは帰宅許可を得ている。
まずは、年明けのセンター試験。そのあと、東京で志望していた大学の受験がいくつか続く。京都に受験で行くのは、おそらく二月。
さくらにとっても、第一志望の大学が最後の試験になるだろう。
合格したい。胸を張って、あたらしい春を迎えたい。
***
玲と話せないまま、遠くへ来てしまった。
電話をかける勇気がない。メールにも手が伸びない。玲のことを考えている時間があったら、一問でも多く問題集を解かなければならない。
さくらは、携帯電話の電源を切った。
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