第31話 はなれたくない、ちかくにいたい③
***
室内に沈黙が訪れたとき、インターホンが鳴った。
『ぼくだよ。開けて―』
インターホンの画面に映し出されているのは、類だった。さくらは立ち上がり、マンションエントランスのオートロックを解除した。
「家の鍵も開けてくる」
その足で、廊下を進む。
エレベーターに乗って辿り着くだろうから、急ぐことはないけれど、あのリビングの重苦しい雰囲気に耐えられなかった。
解錠したドアを開いたところ、ちょうど類がエレベーターを降りてくるところだった。柴崎家はエレベーターに近い部屋なので、類もすぐにさくらに気がついた。
「さくらねえさん、お出迎え? ありがと。鍵、バッグの中から出すの面倒でさ」
いたずらっぽくほほ笑む類の両手は、荷物で塞がっている。
「う、うん。おかえりなさい」
そうだった。類とは気まずい別れをしていたのだ。思い立って飛び出たけれど、さくらはいたたまれなくなった。
類はさくらの動揺を気にも留めず、『はい、これ』と荷物を押しつけて靴を脱ぎはじめる。
けれど、いやに動きがぎこちないので、注意してよく見ると、類の指先にはテーピングが何重にも巻かれていた。白いバラをむしったときに、作ってしまった傷を守っているのだろう。
「……玲と、仲よくなれた?」
「うん。いろいろと、ありがとう類くん」
「あのね。ぼくが聞いているのは、あいつと最後まで『やったのか』って話」
「し、していない。なにも、していません」
「ほんとに? せっかく、昨日は留守にしてあげたのに、意味ないじゃん!」
「やだ、類くん。父さまたちも、さっき帰宅したんだよ」
「ふたりが? 今日だっけ」
「ううん、急な用事ができて、一日早まった」
「あ、そうか。『やりたくても、やれない』か。ぼくにつけられた胸の傷を、玲に見せるわけにいかないもんねー、さくらねえさん。この傷、どうしたのかなー♪」
類の声と息が耳朶に触れた。
さくらはあわてて飛び跳ねようとしたけれど、両手は荷物で塞がったままだし、場所は長細い廊下だったので、たちまち類につかまってしまった。
身体を壁に押し当てられ、逃がしてくれない。
リビングに続く戸は閉められているけれど、相変わらず類は大胆で困ったことを仕掛けてくる。
「玲のものになっていないなら、ぼくにもまだ望みがあるってことだね」
「な、ないない。ないから」
「そんなこと言っても、さくらねえさんの身体は初めてなのに、けっこういい感じだったよ、あの夜。職人って、はじめのうちは収入なんてほとんどないから、きっと苦労する。ぼくなら、貯金もそこそこあるから、贅沢できるよ。今からでも乗り替えたら?」
「そのときは、私が働いて支える覚悟」
玲には、さんざん力になってもらった。今度は、自分が支えたい。
「あっそう。つまらないから、ぼくも家を出ようかなあ。実家住まいじゃ、部屋に女の子を呼べないし」
「モデルだって、学問は必要。そういうことは、勉強してからでも遅くないよ。今からでも、高校へ行ってみたら?」
「はー。もちろん、高校認定試験は受けるよ。ぼく、頭はいいんだ。勉強はできるし、学問は好き。忙しくて、時間がないから高校には行かなかっただけで。それにしても、急に姉ぶって説教か。この間まで、きょうだいに挟まれてふらふらしていたのは、どこのどいつだよ」
「そ、それは」
類は、さくらのタートルネックセーターの首もとを思いっ切り、下に引っ張った。
さくらの白い首筋には、類のキスマークがまだはっきりと、いくつも色濃く残っている。その痕跡を、類はにやにやと満足そうに眺めた。
家族に悟られないよう、首もとをわざと隠していたのに、類はお見通しだった。
「ぼくのキスひとつで、超感じてたくせにね。なのに、兄とはいまだにキスもしていない、清い関係か」
「なんで、そこまで知っているの?」
「あ、図星か。玲も、さっさとやっちゃえばいいのに。押しに弱いというか、男に免疫ないんでしょ? だからいつまでたっても、きっぱり諦められないというか第一、すべてにおいてパーフェクトなぼくが、ヘタレな玲に負けるとかありえない。年下だから、だめなのかな。ぼくのほうが、経験値高いよ。勇者レベル」
さくらを責め続けようとしていた類だったが、誰かの足音が近づいてきたので、素早くさくらの身から離れた。
ドアの向こうから顔を出したのは玲だった。さくらが遅いので、心配して様子を見に来たようだ。
「ただいまー、玲」
あっけらかんと、類は玲に挨拶をした。
「さくらに、なにかしなかっただろうな」
「するわけないじゃん。荷物、持たせただけ。ぼく今、ちょっと理由があって、指を全部ケガしているんだ。なにかしたくても、できないよ。はあ、いいにおいだな。今日の夜はカレーか、ぼくにも出して、おなか空いたし。あ、オトーサン、母さん、おかえりなさい。ぼくも、ビールを飲んでいい?」
「だめだ。いくら働いていても、十七だろ」
「ちぇっ。玲のけち。たっぷりと働いてきたのに」
さくらは玲が類を牽制してくれているのを見守りつつ、中腰姿勢のままでそそくさとキッチンに移動した。
カレーの鍋を温め直す。冷蔵庫に入っていたサラダも用意する。
リビングでは玲と類がしきりに口論をしているが、ひさびさの家族勢揃いでとても懐かしい。さくらは、鍋の中のお玉をくるくるとかき回しながら、団欒を実感した。
このひとときが、この週末までなんて惜しい。
卒業式を終えたら、玲はすぐに京都へ行ってしまうだろう。年度はじまりの四月一日なんて、待てないはずだ。
涼一は類がカレーを食べている間を利用し、今夜の議題を語ってきかせた。
軽井沢赴任、さくらの京都受験。
「ふうん。いいんじゃない、別に」
意外にも、類の答えは軽い肯定だった。
「いい? いいの?」
聡子が訊き返したぐらいである。
「だって、うちの家族がなくなるわけじゃないんだし、家族だからってずっと一緒ってのは無理があるし。たまに、こうして集まれば。ぼくが様子を見に行ってあげるよ、さくらねえさんの軽井沢軟禁生活」
「軟禁じゃありません、受験勉強です」
「でも、しばらく玲の作る食事に、逆戻りか。こんなにおいしい、さくらねえさんの愛情入りカレーを食べることができなくなるなんて、ぼくにはそれが悲しいよ」
「カレー、俺もだいぶ手伝ったぞ」
「えっ、まじで」
さくらは気がついた。類が、さくらのことを名前で呼ばなくなったことを。
『さくらねえさん』。
ずきずきと、心が痛んだ。
***
宴、終えて。
酔い潰れてしまった両親を、どうにか自室に運び(玲が引きずって連行した)、さくらと玲はようやくひと息ついた、午後十一時のリビング。
類は、明日も朝が早いとかで、もう寝ていた。
最後の皿を洗い終え、さくらは玲に冷たい麦茶を差し出した。
「片づけ、手伝ってくれてありがとう。助かった」
「別に、家事はさくらひとりの仕事じゃない。それより、あいつらには食い散らかしたことを詫びてほしいな。家族が揃うとこの始末、勉強ははかどりそうにない」
やけになった涼一と聡子は缶ビールに続き、ワインを三本も開け、類もふだんは体重を気にして我慢しているくせに、今日ばかりは炭酸飲料をぐいぐい飲んでいた。
喋る、怒鳴る、喚く。散らかす、こぼす、荒らす。
お隣さんから苦情が来てもおかしくないレベルで、盛り上がっていた。
***
「明日から、荷造りか」
「そうだね。この前、段ボールの山を崩したばかりなのに」
「また、すぐに京都へ行くんだ。段ボール生活はまだまだ続きそうだな」
さくらは返事ができなかった。受かる自信がまるでない。
「ごめん玲。私、無理かも。受験に失敗したら、駆け落ちしてくれる? 京都に、押しかけても、いいよね?」
「挑戦する前から、弱音を吐いてどうする。がんばれ。俺の収入じゃ、お前を食わせることができない。家族に祝福されない形で結ばれても、つらくなるだけだ。涼一さんを、認めさせるんだ。さくらにも、叶えたい夢があるんだろう?」
「……うん」
理屈では分かっている。けれど、ついてゆけない。不安ばかりで、希望が持てない。
もし、合格できたとしても、京都には玲のいとこだという祥子がいる。玲の婚約者だと名乗っていた。玲にその気はなくても、祥子にはある。同性のさくらには、よく分かった。
「祥子さんって、どんな人なの。玲の、なに?」
「藪から棒に、なんだ。いとこだ、ただのいとこ。前にも、説明したはずだ」
「でも、祥子さんは玲のこと、たぶん好きだよ。玲が京都へ行くの、ずっとずっと待っていたような感じ」
「知らん」
「でも」
「でもも、だっても、ない。俺は昔、あいつを傷つけてしまったから、冷たくすることができないんだ。だけど、俺には祥子と結婚する気はない。婿としてではなく、実力で養子になる」
「傷つけた、って。その話を詳しく聞いても、いい?」
「……工場で、大やけどさせたんだ。俺が、十三のときだった。不注意で、熱湯入りの桶をひっくり返してしまって、祥子に湯が、かかった。祥子の身体には、今でも消えないやけどの痕がある」
「やけどの痕を、見たことがあるんだ」
「ああ。見たさ。何度も。俺の初めての相手は、祥子だから」
はじめての、相手? はじめてって、その……アレだよね。
「年上のいとこに、やけどのことで責められて、誘われて、抵抗できなかった。月並みだけど、そういうことに興味も、あった。糸染めよりも、祥子との仲に夢中になった時期もあった。祥子に望まれるがまま、婿入りしたほうがどんなにラクかと考えたこともある」
「いや。もういい。お願い、もうやめて」
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