第9話 ずっとそばにいてあげる②
天使のほほ笑みと、吐息まじりのかすれるような甘い声で、類はさくらを陥落しようとしてくる。恋愛初心者なさくらには、上手に躱すすべもない。緊張で、心臓が飛び出そうだ。
「もう、じゅうぶん、怖い……絶叫系のアトラクションより、怖いよ」
相手は、弟。こんな気持ちをいだいてはいけないのに。次第に甘美の中につつまれてゆく自分が怖い。
「だいじょうぶ。前後左右のゴンドラの中、どこもこんな展開だから。あー、ほら見て見て、下。濃密に絡み合っているよ。すごいなー」
「よそは、よそ。うちは、うちです」
「照れちゃって、かわいい」
類はさくらの髪にキスをした。
観覧車は、だいぶ地上に降下していた。この高さでいちゃいちゃしようものならば、外から丸見えである。抱き締められていた時間は長かったようで、意外と短かったようだ。
なにごともなかったかのように、類はさくらの呪縛を解き、観覧車を下りた。そして、アイドルスマイルで振り向く。
「戻ろっか」
閉園時刻まで、あと三十分。少し冷えてきたし、切り上げるにはほどよい頃合いなのかもしれない。
さくらが頷きかけたとき、頭上に花火が上がった。花火と夜景に、思わず見とれた。
「きれいだね」
「うん」
こんなにきれいな景色を、みんなが憧れる類と一緒に見られるなんて。思わず、さくらは類の腕に抱きついていた。
「連れてきてくれて、ありがとう。私、楽しかった。類くんと一緒で、助けられた。類くんが弟になってくれて、うれしい」
さくらが抱きついたとき、類は意外そうに目を瞠ったけれど、すでにいつもの自信に満ちた顔に戻っている。花火の輝きを受け、類の頬も光っていた。
「だったら、まだ帰らないけど……いいね?」
類は再びさくらの髪に唇を落とすと見せかけ、次には、そっとさくらの唇の上に重ねた。
ごく自然に、なんのためらいもなかった。
類のきれいな顔が、さくらの視界を塞いでいる。流れるようなしぐさだったので、さくらは避けられなかった。
キス、されている。類に。
……弟に!
「ごちそうさま。今夜のお代、いただきました。あれ、固まっちゃって。まさか、初めてだったとか」
「く……悔しいけど、そのまさかですよ。よりによって、お……弟に、唇を奪われるなんて。唇を!」
「血はつながってないんだし、いいじゃん」
「そういう問題じゃない。乙女の感情の問題だよ、これは」
「ああ、一瞬過ぎて味わえなかったって? なら、もう一度」
「何度も、同じ目には遭わない……っ」
類の腕の力は強くて。さくらは、もがいたけれど、逃げられない。動こうとすればするほど、類に強くおさえつけられてしまった。
「どんなキスがお好み? 唇をついばむようなやつ? それとも、立っていられなくなるほど濡れちゃう、官能的なやつ? 舌、入れてみようか」
「し、した? ど、どれも、お断りです」
「さっきは、さくらから抱きついてきたのにね。そういう雰囲気づくりをしろということか。贅沢だね。まあ、いいや。キスが初めてだったということは、もちろんそれ以上の経験もない、と。楽しみだなあ、ぼく好みに染めてゆくの」
「勘違いしていないかな。私は類くんの姉だよ」
「それが、なにか。恋愛に、義理の姉弟はないって。ま、今日のところは、ぱーっともうひと騒ぎ! 移動移動」
「移動? そろそろ九時だよ。帰るんじゃなかったの」
「一文なしは、ぼくに従いなさい。歩いて帰れるなら、構わないけどさ」
ぐぬぬ。痛いところを突いてくる。
「観たかった映画のレイトショーがあるんだ。そのあとは、朝までカラオケだね!」
「か、帰らないつもり?」
「なんだよ、どうしてそんなこと言うのさ。さくらが帰りたくなさそうだから、いろいろ提案してやってんのに。そんな態度取ったら、今ここで乱暴するよ。あんな軽いキスひとつで、済むと思ってんの?」
おとなびていると思っていたら、今度は脅しである。表情がくるくると変わるので、観察するのはおもしろいけれど、こうも振り回されては神経がすり減ってしまう。
すっかり類のペースだった。
携帯すら持っていないので、自宅に連絡のしようがない。確信犯的に、類も家に置いてきたらしい。
さくらはともかく、類には仕事の連絡などが入るのではないだろうか。多忙な類を独占していることが、だんだんと不安になってくる。
「明日も仕事でしょ、類くん。公衆電話からでもいいから、家族に連絡を」
それとなく、帰宅を促してみる。平日なのだ、さくらだって明日も学校。次の日のことを考えれば、帰ったほうが賢明である。
事実、遊園地の人波は花火を合図に、次第に出口へと向かっている。
立ち止まって見つめ合っているのは、さくらと類ぐらいなものだった。
「明日の話なんて、しないでよ。野暮だね、だからモテないんだ」
「別に、モテなくってもいいんだもん。体調は気にしないの? 睡眠不足の顔で、モデルしていいの?」
「若さとメイクでカバーできるもんね。じゃ、行こうか映画」
「帰りたい」
「嘘。帰りたくないはずだよ、あの家には。昼間、決定的ななにかがあったんだよね」
「たくさん遊んでもう、じゅうぶん頭を冷やせたから。だいじょうぶ」
そうだ。明日の朝には、玲と普通に話をできると思う。ホテル事件は、玲に頼りすぎてはいけないという、警告だったのだ。
今なら、誰にも深入りせずにひとりで頑張れる。ずっと、ひとりでなんとかやってきたのだ。
「顔がひきつっているよ。そんな表情、さくらにはさせたくなんだ、ぼく」
類はさくらの頬をやさしくなでる。年下の男の子なのに、指が長くて爪がとてもきれい。少し冷たいけれど、上気しているさくらの頬には心地よさを運んでくれる。
でも、だからって、流されるわけにはいかない。女の子にやさしするなんて、類にとってはたぶん、いつものこと。
ここが、踏ん張りどころだ。毅然として、姉らしく。
『あ。あれ……北澤ルイじゃない?』
『ほんとだ。似てる』
『てか、本人でしょ。やだ、彼女連れ?』
『デートだ!』
類が、見つかった。
はじめはひとつのグループの女の子が騒ぎはじめただけだったけれど、悲鳴のような大声につられて周囲がいっせいに、ふたりをざわざわと注視した。
『ルイくん!』
『きゃーっ』
『こっち向いてっ』
さくらは思わず、類の陰に隠れた。どうしよう? でも、類を、弟を守らなければ。けれど、あの好奇の目を逸らすなんて、できるのだろうか。無遠慮な視線が痛い。
だが、類はそんな周りの反応にも慣れっこらしく、手を振って答えた。堂々たる態度である。
「今、プライベートの時間だから、そっとしておいてくれるかな」
眼鏡の下からの、とっておきの笑顔。けれど、さくらは知っている。このほほ笑みは、うわべのほほ笑み。適当に、あしらうための仮面。
それでも、女の子たちはきゃあきゃあ言いながら、類から離れない。さすがに触ってきたりする子はいないけれど、壁になっていた。
「ちっ、これ以上は厄介だな。さくら、走るよ」
うわあ、天下のアイドルモデルが、舌打ち……!
類はさくらの手を引っ張り、遊園地の出口まで疾走した。また、新しい黄色い声が上がる。類は振り向きもしない。早い。さくらをかばいながら走っても、類の脚は止まらない。
遊園地の出口そばに停まっているタクシーに滑り込んだ。さくらは、すっかり息が上がっている。はあはあと、荒い呼吸が漏れる。
類はかかえるようにさくらを抱き留め、こう告げた。
「新宿、行って」
車は静かに走り出す。自宅とは、逆方向に。
「るいくん、かえら、ない、の」
急に走ったため、さくらは頭がくらくらした。それでも、聞いておきたい。帰らないのか、と。
「映画、行く。観に行けそうなのは、今夜しかないし。騒動に巻き込んじゃって、ごめんね。酸素、分けてあげよっか。ディープな人工呼吸で」
さくらは、勢いよくぶんぶんと首を横に振った。冗談じゃない。
「残念だなあ。遠慮しちゃってさ。ま、少し休むといいよ。着くまで、だっこしていてあげる」
「だっこ、しなくても……平気」
「だめ。ぼくがさくらをだっこしたいから」
なんてわがままなのだろう。さくらが、持て余してしまうほどの奔放さ。類を睨んでみたけれど、類の天使のほほ笑みは無敵だった。
かわいい。
さくらの固い心さえも、溶かしてしまう。一瞬とはいえ、敵意をいだいてしまった自分が小さくて、恥ずかしい。
「いいよ。ぼくに身体、ぜんぶ預けて」
繰り返し髪をなでられて、気持ちがよい。あたたかい。類のいい香りにすっぽりと包まれてしまい、なんだか、眠くなる。だめなのに。
「帰るんだよ、類くん。家に帰らなきゃ。みんな、待っているよ、たぶん」
自分に言い聞かせるようにしてつぶやいたが最後、さくらは寝ていた。
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