先輩の様子がおかしい

 先輩の様子がおかしい。


 じっと観察してなくてもそれが分かった。


 本人はあんまり表に出さないように努めてるみたいなんだけど。でも、隠しきれてない。どことなく暗い表情してるし、からかってくることもない。いつもの屈託のない笑顔が好きだったのに。


 これじゃあせっかくプールに来たとは言え、あんまり楽しくないんじゃないかなあ。そりゃ先輩のこと深く知りたいと思ってるけど、先輩を暗くしたいわけじゃないし。


「ふう」


 プールサイドで浮き輪を膨らませて先輩を待つ。とりあえず、今日はできるだけ明るく振舞えたらいいな。


「お待たせ、浮き輪ありがとうね」

「いえいえ、これくらいお安い御用ですよ」


 出てきた先輩が片手を上げる。いつかと同じ白いビキニだった。よく見たらカレーの茶色がちょっと残っちゃってるし。


「向こうの方にパラソルエリアあったのでそこにとりあえず荷物置きましょうか。濡れたら困るものとか」

「おお! 気が利くね、ありがとう」


 よしよしなんて髪をなでてくる。手つきが雑だ。


「あと先輩、これでも来てください。その、水着汚れてますんで」

「え? あ、ホントだ。カレー取れてなかったかあー」


 着ていたTシャツ(水着用)を差し出すと、あらら、と先輩が困ったような顔をする。そして、手でいらないというジェスチャーを示した。


「ありがたいけど、いいよ。シミだけなら日光で色はとれるからさ。ターメリックの色素って紫外線で無色化されるんだよ。これ、豆知識ね」

「そうなんですね。覚えときます」


 ふふと先輩が笑う。そして直後にあ、しまったという顔をした。


「ごめん、荷物渡すから先に行っててくれないかな」

「いいですけど、どうしたんですか?」

「いやその、日焼け止め塗るのちょっと忘れちゃって。更衣室で塗ってくるね」

「あ、はい分かりました」


 先輩に言われるまま、荷物を受け取って棒立ちになっていた。マジですか。まあ、それじゃあ場所取りに行くとしますか。


 でも、やっぱり先輩今日何か変だよね。普段の先輩だったら、『拓海君が塗ってくれる?』なんて冗談を飛ばして困らせてくるところなのに。その過程でうつぶせになってトップスを外すところまで想像できる。


 う、頭に血が。やめやめ。


 理由はなんとなく想像がつく。昨日会った一博という人物のせいだ。先輩が過去に起こしたって聞いた恋愛事件の関係者。恐らくだけど先輩が勘違いさせて振った相手。誤解した挙句ストーカー化していた相手だ。たぶんというかほぼ間違いなく先輩が苦手としている相手。


 ……そして、過去、僕の立ち位置にいた相手だ。


 考えないようにはしてるんだ。そういうことはできるだけ意識しないようにしてるんだ。だけどどうしても考えてしまう。あの先輩の冷え切ったまなざしを。

 あの一博という人は、僕と同じ立ち位置にいた人だ。それは間違いない。先輩があの笑みを見せたことだってあるんだろう。悔しいけど。


 だけど、あそこまで冷え切った、むしろ会いたくないとまで目線を向けられていた。そんな表情を見せるようになるんだと。そう思った。


 ……怖い。僕もああなるんじゃないかって。先輩にいともあっさり捨てられて。彼みたいにみっともなく縋って泣き叫ぶんじゃないかって。そんな気がしてしまうんだ。そんなことを考えてしまうんだ。


 そんなこと、考えたってマイナス思考に陥るだけなのにさ。


「ごめんね、時間かかっちゃって」

「別に大丈夫ですよ。これくらい」


 一息ついたところで先輩が戻ってきた。息を吐いて横に座り込む。疲れてる様子なんてついぞ見たことがなかったのに。


「あ~、のど乾いた~」

「よかったら飲みますか?」


 ふと思いついて僕の麦茶を差し出す。普段なら一口飲む直前に『間接キスだね』なんて冗談を飛ばしてくるところなんだけど……


「ありがとう。助かった」


 やっぱり。



 *****



「そろそろお昼にしませんか?」

「ん、わかった。そう言えばおなか減ってきたもんね」


 浮き輪につかまった先輩が言う。ウォータースライダーにも1回行ったけど流石に人が多すぎて先輩もしんどそうだった。それ以外は基本的に流されてただけだけど。


「先輩何食べますか?」

「う~ん、チャーシュー麺にしようかな」


 メニューを見ながら先輩が言う。全部1000円でメニュー一つとドリンク一つを選ぶみたいだ。


「僕はカレーにリベンジしようかなと。海行ったときはこぼしちゃって食べきれなかったし」

「あ~、わたしもカレーにすればよかったかなあ」


 優柔不断に先輩が言う。いつもはサクッと決めてる印象があったけど。


「半分あげますから、それでどうですか?」

「ありがとう、そうする」


 シェアするなんて言ってみても反応しないし。結局僕はそれとレモネードを、先輩はチャーシュー麺とアイスコーヒーを注文していた。


「午後からはどうしますか?」

「う~ん、特に考えてないよ。ウォータースライダーはもういいかなっていう気分だけど」

「それじゃあ、屋内にあるらしいジャグジーにでも行きますか? なかなか面白そうですし」

「それいいね」


 座って少し早めの昼食をとりながらそんなことを話す。めぼしい所はほとんど回り切っちゃったしね。25メートルプールもあるけど、人が多くてほとんど意味を成してないし。


「ごちそうさま。カレーありがとうね」

「いえいえ」


 一足先に食べ終わった先輩がアイスコーヒーに口をつける。


「まずっ!?」


 そして、驚いたように口を話した。


「ま、まあ。先輩のおいしいコーヒーに慣れてたらそういうこともあるかもしれないですし」

「特に何も考えずに注文しちゃったよ」


 先輩がわざとらしくうなだれる。まあ、比較対象が美味しすぎるだけで、昔は僕もこれくらいよく飲んでたし。

 というか、先輩がこういうところでコーヒー頼んだことって初めてかもしれない。


「まあ、それじゃあこれは僕がもらいますから」

「あ、うん」


 有無を言わさず奪い取る。あんまり先輩に無理はさせたくないし。


「ちょうどよかったです。ちょっと眠かったしのど乾いてたし」


 大あくびをして見せる。気にしないでなんてそんなつもりで。


 だけど、先輩はやっぱり沈んでるように見えた。


「ねえ、拓海君」

「はい拓海です。なんでしょう?」

「あのさ、その。ちょっと無理してない?」


 ……? 僕が無理?


 ちょっと驚く。そうしているように見えただろうか。あまり先輩を意識させたくなかったんだけど。そう思って、平静を装いながら紙コップを置いた。


「いえ、別にそんなことはないと思いますけど、どうしてそんなことを?」

「ほらやっぱり無理してる」


 それは、先輩が調子悪そうだから気を張ってるだけで。別に、そこまで無理してるわけじゃ……。


 そう思ったときだった。先輩が荷物をもって立ち上がる。


「ごめん、やっぱり今日のわたし変だよね。ごめんね、せっかく来てもらったのに。こんなんじゃ迷惑だよね。わたし帰るから」

「文乃先輩!」


 気づいたら、僕は、先輩の細い腕をつかんでいた。考える前に体が動いた。


「離して、くれないかな」

「嫌です」


 先輩が困惑したような表情を浮かべる。


「やっぱり、拓海君もわたしが変だってわかってるんでしょ? こんなわたしといたってつまらないと思うんだけど」

「そんなことないです!」


 先輩が、自分がいつもと違うから僕が空回りして楽しめてないと思うのなら、僕は何度だって言おう。絶対に、そんなことはないんだって。


「そりゃ、気になりますけど! あの一博とか言う暑苦しいやつのせいだろうし、何があったのかは気になりますけど、だけど今はそんなこと関係ないです! 僕らはプールを楽しみに来たんであってそれ以上でもそれ以下でもないですから!」


 一息で吐き出したから、胸が苦しい。だけど、精一杯の笑顔を作る。先輩に笑っていてほしいから。


「僕は、先輩と一緒に遊びに来たってだけで楽しいですから。そんなこと気に病む必要なんてないです」

「だけど、いつものわたしじゃないし、拓海君に変な無理させてない?」

「だからそれが間違いだって言ってるんです!」


 精一杯の虚勢を張る。言ってることと矛盾してるみたいだけど、だけど紛れもなく本心だから。


「いいですか!? 僕は別にいつもの先輩じゃなきゃ嫌だなんて一言も言ってないです! 別に今日ちょっと調子がおかしかろうが先輩は間違いなく先輩です。そして僕は先輩と一緒にいられたら楽しいんです。先輩がそんなこと気にする必要なんてないんです!」


 そこまで言って、ふと顔をそむけた。


「その、僕は別にいつもと違っても先輩のこと、好きですから……」


 フッと手の引っ張る力が抜ける。先輩が引っ張るのをやめたのだ。そして、ぺたんと座り込んだ。


「あは、ははは。おかしいな、わたし一人で空回りなんてして。ホントサイテー。ホントにごめん」

「先輩が謝る必要なんてないですよ。そんなことより、一緒にいて欲しいです」


 乾いた笑みを先輩が漏らす。そしてため息を吐いた。


 ……冷静に考えたら僕もすごい恥ずかしい。めっちゃ注目されてるし。


 先輩がよろよろと立ち上がる。そして笑った。


「ごめん、ちょっとメイク直してくる」

「ダメです」


 手に力を籠める。


「だって、先輩そのまま帰るつもりでしょ?」

「どうして、わかったの?」

「だって、4カ月ずっと見てましたから。先輩のこと。それくらいわかりますよ」


 笑いかける。ここで逃げられたら道化みたいじゃないか。でも、そんなことが言えるくらいには少し落ち着いたのかななんて微笑ましく思った。


「それに水の中はいったらどうせ同じですって。ほら行きますよ」

「うん、わかった。君の好きなようにしてあげる」


 にひっと、先輩が笑顔を作った。それは作り物かもしれない。だけど、僕に笑いかけてくれたのがすごくうれしかった。

 手を引く。


「今日は閉館まで一緒ですからね。覚悟してください」


 先輩、言いそびれちゃったから心の中だけで言いますね。


 好きな人文乃先輩と一緒にいることを嫌がったりなんて、僕がするわけないですよ。

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