最悪の再会

「うわっ!?」


 スマホの振動に声を上げてしまう。静かな図書館内では目立ったのか、迷惑そうな視線で見られた。慌ててペンを置いて外に出る。むわっとした嫌な熱気が僕を包んだ。


「はろはろ~。元気してた~」

「ええ、まあ」


 電話は先輩からだった。夏の暑さとか関係なしに元気な声が響いてくる。あの人は太陽か何かだろうか。いや、夏はあまり光らないでほしいのだけど。


「今暇? せっかくだしさ、プールかどっかいかない? 夏休みももうそろそろ終わりだしさ」

「あ、今図書館で勉強してるので暇じゃないです」


 そりゃ時間が作れないかって言われたら作れないこともないけど。でも、暇だと思い込むのはどうかと思う。


「宿題は早めにって言ってたのに。ちなみに、今いるのはどこの図書館?」

「あ、南図書館ですけど」

「わかった、すぐ行く」


 ツーツーと、スマホから音が鳴り響く。


「……切れちゃった」


 でも、さっき先輩はなんて言ってたんだ? すぐ行く? どうして?



 *****



 先輩がやってきたのは、電話がかかってきてからわずか15分後だった。まさか、本当に来るとは思わなかった。


「この図書館来たのは私初めてだね。でも、どうしてここに? 君の家からならもっと近いのがあったと思うけど」

「欲しい資料がここにしかなかったんですよ」


 後ろから圧し掛かられる。相変わらずスキンシップが激しい。


「それと、先輩。ここ図書館なのであんまり騒がないでくださいね。僕追い出されたくないので」

「わかってるって」


 耳元で先輩が囁く。いや、トーンを落とせってことじゃなくて、動揺するようなことをしないでって意味だったんだけど。


「ところで、それ宿題?」

「ええ、まあ。調べてるうちに大分興味がわいてきちゃって」

「ちなみにテーマは何なの? オーストラリアの本みたいだけど」

「それは秘密です」


 言えない。先輩の影響でオーストラリア独自のコーヒー文化を調べてるなんて。でも、僕の口にはオーストラリアのコーヒーが合うみたいだし、せっかく自由課題なんだしいいんじゃないかなと思って。


「えー、いいじゃん教えてよ~」

「ダメです。その、恥ずかしいので」

「別に好きな女の子を落とす方法とか、そんなんじゃないんでしょ?」

「ち、違いますけど!」


 あ、やべ。ボリューム落とさなきゃ。


「どうしてもっていうなら……」


 先輩が手の甲を口元に当てる。何か企んでるときの笑い方だ。


「先生買収して、出来上がったの見せてもらうから」

「わかりました、わかりましたから。そういう変なことは言わないでください」


 先輩はやると言ったらやる。流石に買収はしないと思うけど、提出した後の課題を見に行くくらいは本当にやりそうだ。それなら、作成途中のレポートを見せた方がまだまし。致命的なところはまだ書いてないし。


「へ~え、オーストラリアのコーヒーと文化か。面白そうなテーマだね。そう言えば、君はオーストラリア産の豆が結構好きだったけ」

「ええ、まあ」


 あっという間に先輩が書いていてレポートを奪い去る。あ、ちょっと。宿題がはかどらないんですけど!


「でもここ間違ってるよ」

「え?」

「ここの記述。あー、本が古かったんじゃないかな」


 先輩から指摘される。え、本当ですか?


「まあ、わたしも手伝うから、早く終わらせよ? で、プール行こう?」

「わかりました」


 そう言えば、そんなこと言ってたよね。プールに行こうって。


「せっかく夏なんだからさ、海だけじゃなくてプールとか行きたいじゃん。でも一人で行くのも味気ないし、さっさと終わらせてさ」

「でも、この時期だとすごく混んでるんじゃあ」

「それが問題なんだよね」


 だって、明日からお盆だし。幸いにして僕は祖父母の家に帰省する予定はないから先輩と遊びに行ったりできるんだけどさ。


「まあ、でも大丈夫。実は穴場見つけたんだよね」

「おお、それはすごい」


 先輩がビシッと指を立てる。先輩って遊ぶところよく知ってるよね。


「というわけで、さっさと終わらせるよ」

「え、でも僕今水着持ってないです」

「大丈夫、わたしも持ってないから」


 ふぁっ!?


 えっと、どういうこと……?


「だから、今日中に終わらせちゃったら明日から遊べるでしょ?」

「あ、そういうことですか」

「どういうことだと思ったのかな~」


 い、いえ。やましいことなんて考えてないよ? ホントダヨ?


「まあ、いいや。ともかく早く終わらせよ? わたしもうちょっといい資料知ってるから取ってくるね」


 先輩が笑いながら動き回る。僕をサポートしてくれるみたいだ。それじゃあ、僕も集中してもうちょっと頑張りますか。まあ、僕だってプールが楽しみじゃないわけじゃないしね。むしろ、先輩の水着姿気になる。合宿に行ったときはそこまで堪能できた気がしないし。


「あの、先輩?」

「ん、何かな? スリーサイズくらいなら応えるよ?」

「いや、聞きませんって」


 ちょっと一区切りついたところで声をかける。先輩はペットボトルの紅茶を口に含んでいた。いや、ここ飲食禁止なんだけど……、まあいいか。


「興味ないのか~。そっか、残念」

「いや、そういうことじゃなくてですね!」


 一斉に視線が僕らの方を向く。あ。


 ……すごすごと座り直すしかなかった。


「先輩は、どうして僕にそこまでしてくれるんですか? 別に、そんなことしなくても宿題なんて終わるのに」

「別にそんなことに罪悪感抱かなくてもいいのに」

「いや、罪悪感ってわけじゃ……」


 そこまで言って口ごもる。いや、そうなのかもしれない。


「わたしは、楽しいことが大好きなんだ」


 困ったように笑っていると、先輩がそんな風にポツリと言った。


「海でも言ったけどさ、わたしは楽しいことが大好きなんだよね。だから、いつも楽しいことを求めてるし、そのためにいろいろ準備したりもする。逆に楽しくないことを楽しいって言われるのは大嫌いだけどね。君も心当たりがあるんじゃないかな?」


 あった。心当たりあった。

 からかってくる時、先輩はいつも楽しそうだ。そのためにいろいろ企んで準備してるのも知ってる。だって、合宿なんてホテルから何から全部人任せにしてたし。


「だからさ、わたしにとっては楽しいことの下準備なんて別に苦でも何でもないんだよね。むしろちょっと楽しいくらい。だからそんな、気に病む必要なんてないよ」

「そうなんですか」


 でも、確かに後で楽しいことが待ち受けてるって思ったら、頑張れるかもしれないな。


「そういうわけだからちゃっちゃと終わらせて明日はプールだよ」

「明日ですか!? 分かりました、後8分の1なので今日中に終わると思います」


 頬をつつきながら先輩が笑う。つられて僕も笑った。



 *****



「これで残り2週間、心おきなく遊べるね。よかったよかった」

「あの、それだけ遊び尽くすと流石に僕のお小遣いが足りなくなるんですけど」

「それは大変だね~」


 図書館からの帰り道。悪びれもせずに先輩が笑う。僕のお小遣いを吸いつくす気だろ、それ。


「でも、これでわたしも頑張ったかいがあるってものだよ」

「先輩は後半ほとんど本読んでただけですけどね」


 そうなのだ。途中で『飽きた』の一言だけ残して新しい本を取りに行ったのだ。まあ、もはや先輩の手も必要ないくらいの状況にもなっていたんだけど。


「炭酸コーヒーの研究をしてたの。君も新しいコーヒーに興味くらいあるでしょ?」

「そりゃまあ、そうですけど」

「そういうわけだからここは一つ。ダメ?」


 ペロッと舌を出した。はあとため息を吐く。こう笑顔で言われるとダメとは言い難い。そして先輩はそれを理解している。


 ……あざといよなあ。本当に。


 そんなことを考えながら、前を行く先輩の髪に日光が反射するのを眺める。暑いなあ。そんなことを思っていた。


「……文乃? 文乃じゃないか!? 久しぶり! いきなり連絡切れちゃったからびっくりしたんだぞ? 元気そうで何よりだ!」


 前から来た暑苦しい男が手を上げる。スポーツをやってそうな体つきで、クラスでも5番目くらいに入りそうな顔立ち。苦手なタイプだった。


「うわあ、最悪」


 小さな声で先輩がそう呟いたのを、僕は聞き逃さなかった。まあ、暑苦しい男には聞こえてなかったみたいだけど。


「10ヶ月ぶりだよな? 今まで何やってたんだ? 心配したんだぞ?」


 矢継ぎ早に男が問いかける。まるで僕らのことを無視するように。


「あの、先輩。この人誰ですか? 先輩の知り合い?」

「は? お前誰? 俺文乃と話してるんだけど」


 先輩との会話に割り込んでくる。人の話聞かないとか。


「う〜ん、言いにくいけど昔の友達かなあ。それはともかく、一博かずひろには接近禁止令が出てたはずだと思うんだけど」


 その言葉で理解した。先輩が起こしたって聞いた恋愛沙汰の関係者だ。しかも、おそらくだけど先輩のことが好きなんだろう。と言うか、先輩が一博と呼ばれた男のことが好きだって誤解してるんだろうなあ。先輩は迷惑そうな顔を一瞬してたし。


「そんなの関係ない! あいつらと違って、俺は本気だ! 俺とやり直そう、文乃!」


 一博が叫ぶ。本当に面倒だ。


「あなたが何者なのか知りませんけど、文乃さんは今僕と遊んでるんです。勘違いした挙句、ストーカーなんてやめてください」

「そう言うわけだからさ。一博とはもう終わったの。だから、つきまとわないでくれないかな」


 僕に続いてちょっと唖然としていた先輩が言う。容赦がない一言だった。

 これで収まってくれれば楽だったんだけど……


「なんでこんな冴えないやつの方がいいんだ! 文乃は俺のことが好きだったんだろ!? そんなやつ捨てて俺とやり直そう!? な!?」


 一博の怒りに油を注いだだけだった。


「ごめんね、拓海君。こんなことに巻き込んじゃって」


 やれやれと、申し訳ないように先輩が言う。そして僕に耳打ちした。


「わたしが合図したらいっせいに逃げようと思うんだけど、いいかな?」

「わかりました」


 不機嫌な様子を隠そうともせずに先輩が向き直る。


「だいたいそいつだって、弄ばれてるだけだろうが!」

「拓海君は関係ないよ。そもそも、いつわたしが一博のことを好きだって言ったかな? 言ってないよね」


 先輩が手で3のサインを作る。2になった。


「この際だから金輪際近寄らないように言っとくけど。わたし、一博に恋愛感情抱いたことなんて、一度たりともないから」


 一博の動きが一瞬止まる。1のサインが出た。


「今だよ!」


 先輩が叫ぶ。それと同時に僕らは駆け出した。一瞬虚をつかれた一博を置いて。一目散に方向も決めずに。


 そのおかげで一博はまけたみたいだ。つまるところ、当面の問題は乗り切ったことになる。


 でも、それは問題が先送りになっただけでしかなくて。


 ……もう一波乱ありそうだなあ。

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