第七章
第七章
杉三たちが急いで沖田血液内科に飛び込むと、集中資料室の前に蘭がいて、ガラス越しに中の
様子をそっと見つめていた。
「おう、蘭。様子はどう?」
杉三がそっと聞くと、
「ああ、ごらんの有様だよ。」
と、蘭は答えた。
「そうか、全身チューブでがんじがらめ、酸素吸入くっつけられて。」
「まあな。」
杉三ができる限り、明るい口調でそういっているが、それはつまり危険な状態であることを意味した。
「いや、沖田先生も呆れてた。最近の若い奴はどうして、こうやって、危ない状態を放置しているんだろって。」
ぎいっとドアが開いて、沖田先生が出てきた。
「よう、帝大さん。お母さん連れてきたぜ。さっきなんだか聞きたいことがあるって言ってたよな。なんでも聞いてみてくれ。」
いつの間にっか、杉三が、場を取り仕切っている。
「ええ、そうですね。下村薫さんのおかあさんですね。」
「はい。母の苑子ですが。あの、薫はそんなに、、、。」
沖田先生は、質問を始めた。
「ええ。一言で言ってしまえばそういうことです。非常に危険な状態です。自動販売機の前で倒れていたところを、杉三さんたちが発見してくれて、ここに運び込まれてきたわけですが、その時点で心拍が急激に減少していました。倒れる以前、なにか彼がおかしなそぶりを見せたことはありませんでしたか?例えば、日頃から、関節がいたいと訴えていたとか。」
「いえ、何も言いませんでした。ただいつも変わらず、古筝のレッスンの仕事をしていました。」
苑子さんがそう答えると、沖田先生は、次の質問をした。
「それでは、今日の朝、つまり倒れる前ですけれども、その時なにか様子がおかしいとかそういうことは?」
「ええ、今朝、腰の痛みを訴えて、その日もレッスンに行くと言ってきかなかったんですが、余りにも、辛そうなので、其れはやめさせて、今日は休むように言ったのですが。」
つまり、やはりレッスンに行こうと思って、駅まで歩いて行ったが、力尽きて倒れたという事だろうか。
「その時に、こっちへ来たらまだ助かったかもしれませんね、本人から話を聞けば、治療のめぼしもついたはずだ。こんな危険な状態で、運び込まれてきても、病院でできることなんて、ごくわずかですよ。痛いともなんとも今まで言わなかったなんて、全く、お母さんのことは全く考えなかったんでしょうか。身勝手な若者だ。」
「帝大さん、そんなこと言わないでやってくれ。今は病気何て、昔ほど、カッコいいもんじゃないんだよ。ほら、働かざる者食うべからずなんていう言葉もあるだろう?その条件を満たしていないと、若い奴は、安心して生活できない世の中になっている。だから、薫ちゃんもそうなりたくなくて、口に出して言えなかったんだよ。」
杉三がそういうと、沖田先生はおおきなため息をついた。
「私も、子どもの患者さんからは、変な爺さんと呼ばれてしまうほど年は取りましたが、それでも、こんな危険な状態になるまで放置して働き続けるのは、そんなに価値があるとは思いません。一年くらい療養して、働けるようになって、また働きに行けばいいのではないかと思うのですが。」
「いや、帝大さん。そんな理屈は通らんよ。今は、働けない、富を生みださない奴はどんどん切り捨てる時代だよ。そういうやつは病院とか施設に閉じ込めてな、生産性のあるやつだけ残しておくのが今の社会というものだ。わかるか?だから僕も、いつまでたっても風来坊な訳。なんてったって今は、人間よりも、スマートフォンのほうが、信用できる時代だからな!」
たしかに今は、杉ちゃんのほうが、正しいと咲には思われた。私もそうだった。仕事ができなくなってしまうと、とたんにまわりの態度が変わった。優しかった人たちは、皆、冷たい目で私をにらみつけ、私の味方をしてくれた人でさえも、世間体があるからと言って、攻撃するほうに転じる。そして、欠員が出れば、代理の人なんていくらでもいるし、音楽も美術も何もかも、みんなパソコンがしてくれるから、人間は必要ない。だから、人間は、一寸だけある仕事に、必死でしがみついて生きなければならない。多分、薫さんもそうだったのだろう。古筝のレッスンという、保証の効かない小さないすを死守
するため、危険な状態になるまで放置せざるを得なかったのだ。
「あの、すみません。皆さん、心配になってきてくれるのはうれしいのですが、、、。」
不意に苑子さんがそういうことをいいだした。一体なんだと杉三が言い返すと、
「息子と、二人だけにしていただけないでしょうか。」
と、苑子さんは言った。
「それはできません。危険な状態なので、何があってもおかしくありません。なので私どもも、こちらで見張らせていただきたい。」
沖田先生、今日は医者らしくしっかりと言った。
「いいですか、危険な状態の患者さんを、もうおしまいだからと言って、私たちは手を引くことは出来ないのですよ。そんなことが許されるのは、本人が明らかに認めているときか、フィクションの世界だけです!」
「おう。かっこいいよ!帝大さん。」
また杉三が野次を飛ばした。
「いいえ、もういいんです。あの子がこうなるんじゃないかってことは、私もわかっていましたから。後は、できるだけ苦しまずに逝かせてやることだと思うんです。今はただそれを実行すればいいだけの事です。それだけのことです。」
「下村先生。本当はそうじゃないんじゃありませんか?」
苑子さんは気丈にそんなことをいったが、不意に蘭がそれを突いた。
「本当は、逝かないでもらいたいんでしょ。其れなら、そういえばいいんじゃありませんか。僕は、人間、そっちの方が正常なんじゃないかって、そう思うんです。それでは、そうしてやってください。」
「バカ!そんなことこれから逝こうとするやつに言っちゃだめだ!そんな大事な時に、逝くな逝くなと頭上で叫ばれちゃ、仏はうまく三途の川が渡れないぞ。」
杉ちゃんが、観音講で習ってきた教えを諳んじたが、
「杉ちゃん。そういうことは、できないで当たり前なんじゃないのかしら。あたしは、二人にしてあげたほうがいいと思う。」
そういって咲は反対した。いくら偉い人が、そういったとしても、自分たちはできないのが当たり前のことだから。人間、ほんのちょっとのトラブルだって、大勢の人の助けを借りてやっと解決できた、というほうがはるかに多いからである。
沖田先生は腕時計の時間を見て、点滴を取り換えてくると言って、ガラス越しの向こう側へ行った。杉三たちには詳細を見ることができないが、中にいた看護師たちと、二言三言交わした後、またこちら側に戻ってきた。
「もう、天の羽衣着ちゃうんだな。あの薫という人。人間の苦しみも悲しみも忘れた、天人になっちまうぞ。」
杉ちゃんがぼそっと声を上げる。蘭はそうなってしまいたくないと思ったが、咲も、杉ちゃんの言う通りになるんだなと感じ取った。夫を看取った時もそうだった。あれよあれよと時が進み、あっけなく夫は天人に変わってしまったもの。
「お母さん、五分だけでいいですから、中に入っていただけないでしょうか。」
杉ちゃんの予想が当たったのか、沖田先生がそんなことをいった。
「もう、手の施しようがありませんから。」
苑子さんはそんなことは聞かないで、沖田先生と一緒に、ガラスの向こう側にいってしまった。後は、息子さんが天の羽衣を着る瞬間を見届けるのだろう。
「手の施しようがないって本当に何もないのですか!」
杉三ではなくて、蘭の方が食って掛かった。
「はい、有りません。」
沖田先生も、正直に答える。
「ほんとに、医療関係の人は困りますな。患者として僕たちがお世話になった時は、本当に冷たい態度しかとらないのに、こうして終わりのときは、しずかに逝かせようだのなんだって、そういうかっこつけたセリフを言う。なんでそう、カッコつけてばっかりなんだろうかな。そして、こういうカッコいい場面をごっそり持っていく。」
蘭は、あたまをかじりながら、そう呟いた。
「なんで、最後までこっちにいてほしいと言わないんだろうかな。それでは、行けないのかな。まるで、寂しい気持ちになるのを、早めようとする。そういう、寂しいとか悲しいとかそういうことはなるべく遠ざけたいとは思わないのか。」
「蘭さん。そういうときもあるんですよ。それは、しょうがないんですよ。それは。」
咲が蘭を静かになだめている。
丁度その時、病院の正面玄関に設置されていた柱時計が、12回なった。
「ああ、日付が変わるねえ。薫さんももう、天に逝ってしまっただろうか。」
杉三は、しずかに言った。
やがて、集中治療室の入り口のドアがぎいと開く。
出てきたのは、苑子さんだけであった。
「無事に逝きました。」
苑子さんは、そっと言った。
「意識はないまま、逝ってしまいましたが、最後に、この手をしっかりと握りしめてくれたのが、幸運だったのではないかと思っております。」
苑子さんは右手を出した。そしてその手をしっかりと、かばうように左手でなでおろした。
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