第六章
第六章
今日は、先日とはまた違う生徒さんが、カルチャースクールに、お箏を習いにやってきていた。
「それでは今日はお箏の基本調子である、洋調子の勉強を始めましょう。」
この生徒さんは、お箏はまだ初めてで、まだ、お箏の理論を十分にわかっていない様子だった。
ここでもし、ノロがいるのなら、平調子が先だと突っ込みを入れてくるはずである。箏の基本調子は平調子であるのは咲も何となく知っていた。其れなのになぜ、洋調子という初めて聞く言葉を提起するのだろうか?
「じゃあまず、この音に、一を合わせてみてください。」
と、苑子さんは言って、ドイツ音名で言うところのC、イタリア音名で言うところのドの音を出した。
「今回は、壱をドとして、洋調子を作ってみましょう。そうすれば何でもすきな曲が弾けるようになります。」
生徒さんは、その通りに、指で絃をはじいて音を確かめながら、琴柱を動かし、ドの音を出した。
「はい、次はレ。弐をレに合わせてみましょう。」
その通りにする生徒さん。続いて、参をミ、四をファ、五をソと合わせていって、八を壱オクターブ上のドにあわす。九から巾まではドレミファソと、さらに上の音を合わせて、
「じゃあ、一から順に弾いてみてください。ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド、レ、ミ、ファ、ソ。それに対して、絃の番号は、壱、弐、参、四、五、六、七、八、九、十、斗、為、巾となります。楽譜に表記されているのは、この絃の番号で、ソソドレミミミミ、という音を作りたかったら、五五八九十十十十となります。それでは、七夕様をやってみましょうね。初めは、ソ、ソ、ド、レ、ミ、ミミミですから、五五八九十十十十の絃をはじくことになります。じゃあ、行きますよ。五、五、八、九、十、十十十。」
生徒さんは言われた通りのリズムで、お箏の絃を恐る恐る弾いた。
「次、ミ、ソ、ソ、ミ、ド、ミ、レですから、十、巾、巾、十、八、十、九。やってみてください。」
「十、巾、巾、十、八、十、九。」
生徒さんは声に出しながら、その番号の絃をはじく。
「次は、ミ、ミミソ、ミ、レ、ド、ラ、ですから、十、十十巾、十、九、八、六。やってみましょう。」
「十、十十巾、十、九、八、六。」
生徒さんは言われた通りにはじいた。
「最後は、ド、ラ、ソ、ド、レ、ミ、ド。ですから、八、六、五、八、九、十、八。どうぞ。」
「八、六、五、八、九、十、八。」
「よくできましたね。じゃあ、通してやってみましょうか。咲さん、一寸、七夕様を吹いて、音をナビゲートしてくれるかしら?」
苑子さんはそういったので、咲もフルートを構える。
「じゃあ行きますよ。絃番号を歌ってくれて全く結構ですから、通してやってみてください。」
「はい。」
生徒さんが構えると、咲はせえの、と合図をしてフルートを拭き始めた。
「五、五、八、九、十、十十十、
十、巾、巾、十、八、十、九、
十、十十巾、十、九、八、六、
八、六、五、八、九、十、八。」
「よくできました。」
生徒さんが弾き終えると、苑子さんは拍手をしてほめてあげた。
「今度は、口歌いなしでできるようになりましょうね。そうなるために、よく練習してきて下さい。」
「ありがとうございます、先生。」
生徒さんは、嬉しそうに言った。
「私、お箏って、いろいろ複雑な理論とか作法とかあって、本当に難しい楽器だとばかり思っていましたが、こういう曲が弾けるんだなって初めて知りました、こういうタイプの教室であれば、三日坊主で有名な私であっても、続けられそうです。」
「あらやだ、三日坊主だったんですか?」
咲が思わずそう聞くと、
「ええ、そうなんですよ。三日坊主で私は有名でした。なにか習い事をしたいという気持ちはすごくあるんですが、いざお教室に入ると、その教室の雰囲気に押されてしまってすぐにやめてしまうんですよ。本当に三日坊主だと、三歳の息子にまで笑われる始末です。それくらい、私は三日坊主で有名でした。」
と、生徒さんは答えた。それはもしかしたら、習い事の内容というよりも、講師の先生の態度がすごくきついのではないかと咲は思った。お箏なんて、習おうと思っても、まさしく講師の先生が威張っているイメージがまだあって、習いに行くのはちょっと覚悟がいる。
「じゃあ、私たちのお箏教室なら、続けられそうだと仰るんですか?」
苑子さんが、そういった。
「ええ、こういう風に、わかりやすく教えてくれますし、フルートの先生もいらっしゃるから、何だか、軽い気持ちでも、入れそうですよ。」
「そうですか。それはありがとうございます。私も、生徒さんのおかげで元気になれます。本当にこちらへ来てくれてありがとう。」
と、苑子さんは、生徒さんに頭を下げた。そんな、生徒さんにあたまを下げるなんて、と、咲はびっくりしてしまう。そんなこと、前代未聞だった。フルートの先生は、どんな先生であっても、生徒に頭を下げること何て絶対にしなかった。
「いいえ、三日坊主と言われた私が、今回やっと続きそうだなと思われる習い事に出会えたんですから、あたまなんか下げる必要はありませんよ、先生。これからも、あたしは、頑張って続くようにしますからね。よろしくお願いします。」
と、にこやかに生徒さんは言った。
「それでは、本日のお稽古はここまでにしましょう。それでは、次回は、絃番号を歌わないでやってみましょうね。」
「はい!頑張って練習します。それでは先生、これからもよろしく!」
生徒さんは一礼して、にこやかに帰っていった。それを見届けると、咲もフルートをケースにしまった。苑子さんはお箏の琴柱をはずして、柱箱に入れ、お箏を風呂敷で丁寧に包み、指定された保管場所にしまった。
「じゃあ、私たちも帰りましょうか。」
何だか、今日のお稽古は清々しかった。こんな謙虚な先生であれば、習う側も気持ちがよさそうだし、教える側にとっても、いい気持である。フルートを習っていたころは、先生は、いつも威張っていた。そういうところがないこの世界は、私にとっても居やすい世界なのかもしれないと、咲はそう思い始めてきた。
どっちにしろ、自分だって、どこかで働こうと思っても、体調を崩してしまって、無断欠勤してしまい、すぐに首になることがほとんどだった。時には、許してくれたところもあったけど、そういうところはやっぱり、事情のある人の行くところとして、親に邪魔されて、無理やりやめさせられてしまったし。もう、私の居場所なんてないじゃないと思っていたが、この下村先生に拾ってもらってからは、一度も体調を崩していないし、仕事を休んだこともないし、イベントで何回もフルートを演奏している。それはよかったのではないか。やっと自分のつかみたかった道が見つかってきたような気がした。
「じゃあ、先生。帰りましょうか。」
咲は苑子さんと一緒に部屋を出て、電気を消して、カギをかけた。
「それでは、行きましょうか。」
カルチャーセンターの受付にカギを返して、二人は建物を出た。
「もう、駅へ戻るんですか?先生。よかったら、お茶でも飲んでいきません?せっかく、今日のお稽古楽しかったのに、すぐ帰ってしまうのは、もったいないです。」
咲がそういうと、苑子さんはちょっと悲しそうに言った。
「残念だけど、今日は先に返してもらえないかしら。あの、薫が、今ちょっとたいへんで。」
そういえば、あの時、駅のカフェでお茶を飲んだ時以来、薫さんの姿を見かけたことはなかった。多分、古筝のレッスンなどで遅くなっているのだろうなと勝手に思っていたが、、、。
「ええ、たいへん?」
「そうなのよ。だからそのためにも早く帰りたいの。」
何だか苑子さん、すぐにかえりたいみたいだ。何か焦っているような雰囲気がある。
「せめて駅までは一緒に。」
と、咲はそういった。苑子さんはそうねえと言って、其れだけは許してくれた。
二人は、富士駅に着いた。苑子さんは、すぐに、身延線の時刻表を確認した。危うくあと10分ほどで
各駅停車の電車が発車するところだった。
「じゃあ、私は、これで。気を付けて帰ってね。」
苑子さんが、スイカを取り出して、身延線の改札口へ向かおうとしたその時。
「苑子さーん!待って!」
と、切符売り場の前で待ち構えていた杉三が声をかけた。
「待ってって、私はもう帰らないと。」
「いや、そういう事じゃなくて、薫さんがたいへんだよ。蘭と一緒に、救急車で病院に行ったよ!」
苑子さんの顔が凍りついた。
「どういう事?」
「あのね。駅前の、自動販売機の前でぶっ倒れているのを見たんだよ。こりゃまずいと思って、蘭が救急車を呼び出して。」
杉ちゃんの額には汗がにじんでいて、嘘ではないことを示していた。
「本当に!どこの病院へ!」
「帝大さんとこだから、沖田血液内科だな。今蘭が付き添ってら。すぐ知らせた方がいいって、先生言ってた!もうタクシーは北口で待ってる。一緒に乗ってくれるか?」
「わかったわ、行きましょう!」
苑子さんは、猪突猛進に、北口へ向かって走り出した。咲は一緒に行くべきなのかどうしようか迷ったが、
「咲さんも一緒に来てくれや。こういうとき、ギャラリーは、多ければ多いほどいいから。」
と、杉ちゃんに言われて、ついていくことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます