第五章

第五章

「いいわねえ。」

咲はちょっとうらやましいなという気持ちをこめながら言った。

「まあ、うらやましがられるのは、、よくあるんです。これをいわれると、僕も答えようがなくて、黙っているんですけど。ごめんなさい、癪に障りましたよね。」

薫は咲に申し訳なさそうに言った。

「薫さんは、ずっと下村先生と、一緒に暮らしてきたの?」

咲はもう一回質問した。

「ええ。母一人子一人ですよ。僕は父の顔をほとんど知らないんです。父は、僕が生まれてすぐに事故で亡くなってしまいまして。」

「あら、じゃあ、下村先生、いやお母様は、そのあとも再婚もしないで?」

「ええ、そうです。その当時は、不思議には思わなかったんですが、大人になってから、やっぱり父がいてくれた方がいいのではないかって、そう思いました。多分きっと、新しい人と僕に、軋轢が生じるのを、恐れていたんだと思うんですが、そうじゃなくて、こうやって、新しいことばっかりやって、山田流協会から破門なんかされるんですから。そういうときの備えとして、誰かがそばにいてやった方がいいのではないかなと思うんですよね。だって、ほかのお箏仲間が、今回のことでみんな敵になってしまうんですからね。」

たしかに、破門という事は、そういう事である。今までのお箏仲間から見捨てられ、孤独になってしまうのだ。

「破門すると、うちへ通達が来たとき、母は、もう天を仰いで号泣したんですよ。なんでも、名誉会長の野村先生は、母の活動を高く評価してくれたんですが、それでも結局破門という事になってしまったので。会長一人が評価しても、ほかの者がだめと言ったらダメなんですね。やっぱり、日本では。

そういうことです。だからねえ、そういうときに、そばにいてやってくれる人物がいてくれれば、もうちょっと、母も楽に生きられるんじゃないかなあ。」

「それなら、薫さんが、何とかすればいいじゃない。お母さんが古筝を習えと、進路を作ってくれたんじゃない。大人になって、本当に必要なものがなんだかわかったんなら、それでは、薫さんがその役目を担えばいいのではないかと思うけど?」

咲はそういうが、薫はそこで黙ってしまった。

「どうしたの、薫さん。何か、私、まずいこと言ったかしら?」

「いや、まずいことではありません。必ずそういうことをいわれます。しかし、それを実現してやることは、僕には無理じゃないかと言っておきます。なんだか、大事なことに気が付いて、それを何とかしてやろうということができないなんて、虫が良すぎる話ですが、僕はそうなってしまうんです。だから、母のことはどうしても避ける様になってしまうんですよね。」

「そうなのね。私の夫、あ、もう前の主人というべきなのかしらね、前の主人もそうだったわよ。初めから、もうおしまいがわかってた結婚生活だった。でもあたしは、できる限り主人のそばにいたわ。主人を独りぼっちで逝かせたくなかったから。」

咲の話に薫は意外そうな顔をした。咲も、やっとこの話をできる人ができたと思って、しずかに語り始める。

「あたしの、前の主人、小説家だったの。でも、体が弱くてね。もう、病気を飼いならしながらの結婚生活だった。何とかして、主人にやる気出してもらおうと思って、あたしも本を書くように一生懸命尻を叩いたわ。まあ、何冊かは出版にこぎつけたけど。結局、陽の光を浴びる前に、敗血症で逝っちゃったのよ。でも、それでいいと思ってるわ。あたしは、精一杯のことをしたと思っているから。」

「そうですか。ご主人、変に戸惑ったり、悲しそうにしていたりしなかったんですか?」

「いいえ、とにかく、思いっきりできることを、できる限りやってたわよ。あたしだってそれでいいと思っていたんだし。とにかくね、そういうときは、できることを一生懸命やっているのが、お母さんも喜ぶんじゃないかしら。」

「そうですか、、、。」

「そうよ。元夫を看取ったことがある、あたしが言います。うじうじしているのはやめて、自分のできることを精一杯やってくれた方が、周りの人も、いい気持で、見送っていけます!」

咲は、先生になったみたいに、そう強気で言った。そういう話はやっぱり、経験者でなければできないだろう。

「そうですか。其れなら、こんなことをいうのはおかしいですけど、一人になってしまう母の事、よろしく頼みますよ、浜島さん。僕、こうなるとわかってから、母に申し訳なくって。せめて、箏の世界で楽しく暮らしてほしいなと思ったのですが、其れもかなわなくなっちゃうと思いますし。でも、浜島さんがいてくれたら、母は、それでも楽になれるんだろうなと思いますから。」

薫はそういって、軽くあたまを下げた。そうされてしまったら、咲も嫌だとは言えない。

「わかったわ。」

と、咲はにこやかに言った。よかった、と大きなため息をつく薫に、咲は、そうね。とにこやかに言っておくだけにとどめる。

そうなると、自分も邦楽の一因となってしまうのだろうか。何だかそれも、ちょっと悲しいなと思う。本来なら、自分はフルーティストとして、まだやりたいという気持ちもあったのだ。

だから、正直に、薫さんのお願いに、はいとは言えなかった。


「おーい、蘭。何をやっているんだ?早くしないと、ご飯が覚めちゃうよ。早く食べろよ。」

杉三がそういって、ご飯を茶碗に盛り付けるが、蘭は、一生懸命なにか調べているのだった。

「どうしたんだよ。そんな難しい本を読んで。」

蘭はタブレットを片手に、分厚い本を読んでいる。

「うるさいなあ。杉ちゃんには、読めないからわからないよ。ちょっとさ、もうちょっと詳しく調べたいから、先に食べててくれ。」

「おい、蘭。僕が一人で先に食べるのが嫌いなの、よく知っているでしょう?僕は、そういうことはしたくありません。」

杉三にそういわれて、蘭は、大きなため息をついた。やっぱり杉ちゃんは、一度知りたいことになると、納得するまで聞き出してくる。答えが出たら、碌なことに会わないのも蘭は知っているのだが、杉ちゃんは、本当にしつこい。

「もう、調べものくらいさせてくれよ。だから、先に食べていてくれ。杉ちゃん、これは大事な調べものなんだ。」

と、蘭は、もう一回言ったが、調べていた本の上に、バシャッと水が落ちた。

「ちょっと杉ちゃん。何をするのさ!」

「だって教えてくれないんだもん。ケチなことするからさ。」

「もう、しょうがないなあ。」

蘭は、これ以上、杉ちゃんには逆らわないほうがいいとおもった。杉ちゃんの答えが出るまで聞き続ける癖は、いつまでも治らないらしい。

「わかったわかった。答えを言うよ。杉ちゃん、こないだラーメンフェスタで会った、あの音楽家ユニットを覚えているか?箏と古筝とフルートの。で、あの時、古筝を弾いていた、若い男。名前はなんていったかな。」

「はいはい覚えてるよ。箏は下村苑子さん、古筝は息子の下村薫さん。そして、フルートは、あの浜島咲さんだ。」

そうだった。やっと蘭は、演奏者の名前を思い出すことができた。

「ああ、その若い男なんだがね。どうも様子が変だとは思わなかったかい?」

「様子が変っていうか、お箏と古筝という組み合わせはよくあるが、フルートがくっつくという、編成は、珍しかったぞ。」

蘭が聞くと杉ちゃんは答える。

「そういう事じゃないよ。そうじゃなくて、あの若い男に握手してもらったときだ。すごく冷たかったじゃないか。それに、顔も紙みたいに真っ白くて、まるで痩せて窶れていた。それは水穂もそうだったよな。だから、それに該当する疾患を調べてたの。」

「該当する?そんなもの山ほどあって、調べられないだろ。其れなら、本とタブレットを、ピコピコ動かしているのではなくて、帝大さんでも呼び出して聞いてみろ。」

「杉ちゃん、杉ちゃんの答えは確かに理想的だけどさ、現実的に行ったら、そんなことできないの。其れだから、本を開いて調べているんじゃないかよ。帝大さんに調べてもらうには、まず、薫さんが、帝大さんの患者にならなくちゃ。それをしないと、できないんだよ。」

蘭は、なんでこんなわかりきったことを、杉ちゃんに説明しなきゃならないんだと思いながら、そう話した。

「じゃあ、そうすればいいじゃないか。」

と、単純素朴に杉ちゃんは答える。

「もう、そんなこと言うな。他人が医療機関に行ったらなんて、よほど親しい人でなければ、言えないんだよ。わかる?」

蘭がもう一回、わかりきったことをそういうと、

「だけど蘭。帝大さんに診せなけりゃ、薫さんは、大変なことになるのかもしれないぜ。僕たちは、すでに水穂さんで、それを勉強させてもらっているんだからよ。」

と、杉ちゃんは言った。

「そうなんだけど、僕らは赤の他人なんだから、、、。」

蘭は、うるさく言う杉ちゃんの存在に、どこかむなしいというか、もどかしいような気がしてしまうのであった。

「ほらあ。咲さんに連絡すれば、薫さんへ連絡位、してくれるんじゃないのか。それに、苑子さんにだって、大ごとだぞ。本来、するべきことの逆のことが行われるわけだからな。これは、物事の流れを変えてしまうことだからな。ほら、咲さんに連絡しよう。」

「う、うーん、そうだねえ。」

蘭は、そう急かす杉ちゃんに、どうしても逆らうことはできないのであった。

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