第四章

第四章

富士の中心部にある百貨店に、カルチャーセンターがあった。そこに、新規の教室が新たに加わった。あの、下村苑子が、主宰している、お箏教室「ぬさ」であった。

早速生徒募集の貼り紙が貼りだされた。ただのカルチャースクールで行われている、趣味的なお箏教室ではなく、ある程度弾けるようになったら、演奏活動にも参加できることを売りものにしていた。カルチャースクールは、単に場所を貸している様なものである。

なぜか、そのスクールに、咲も手伝い人として駆り出されていた。

「じゃあ、それでは、始めましょうか。今日のお稽古は、ミカンの花咲く丘です。咲さん、悪いけどメロディ吹いてくれる?」

「わかりました。」

咲はフルートを取って、ミカンの花咲く丘の前奏を吹いた。生徒さんは、たどたどしい感じであったが、一生懸命弾いている。

生徒さんは、高齢の女性だった。昔お箏を習っていたが、結婚してやめてしまったのだという。子供たちも独立したので、もう一回やりたくなったのだと言っていた。

咲は、吹きながら、彼女の様子を観察した。確かにとても楽しそうだ。本当にお箏を弾く楽しさは味わっているだろうか?

「よくできましたよ。もう一度やってみましょうか?」

「そうですね、先生。」

と、彼女は言った。

「私、そういう楽しい曲も好きなんですけど、もしよろしければ、若いころならった様な、古典をやって見たいんですけどね。」

「いいですよ、じゃあ、次の時に、古典の曲を何かもって来ますから、それでよろしいですか?」

「ええ、わかりました。その時を楽しみにしています。」

生徒さんはにこやかに笑った。

それでは、と生徒さんはペコリと頭を下げて、自宅へ帰っていく。

「下村先生、それでは彼女、次回から、古典箏曲をやることになるのですか?」

咲は苑子に聞いた。

「ええ、まあそうね。それならこっちの思うつぼよ。初めは洋楽だったけど、こうして本格的に邦楽に取り組んでくれる人が出てくれて。そうすれば、洋楽も邦楽も弾ける人ということになるから。」

なるほど、苑子さんは、邦楽をやる人が出て、喜んでいるらしい。

「それでは、古典となると、あたしは、もう用なしになるんですか?」

「いいえ、あなたには、尺八の部分を吹いてもらうから。それをしっかり練習してきてね。」

苑子さんの作戦は、そんなことまで考えている様だ。

「尺八?」

「そうよ。五線譜に起こされた尺八譜もあるから、それを吹いてもらえばいいわ。」

そうか、尺八も今は、五線譜になっているのか。

「次は、あの生徒さんに、六段の調べをやってもらうから、あなたも尺八の部分を吹いて頂戴ね。これが、その尺八譜。」

と、苑子さんは、咲に尺八譜を渡した。

「これがその尺八譜?」

咲がそれをぺらぺらめくって見てみると、ちゃんと五線譜はかいてあるのだが、その下に、テとかロとか、おかしなカタカナが、表記されている。これが尺八の譜本なのだろうか。

「ここの、五線譜の部分を吹いてくれれば、それでいいのよ。」

という苑子さん。

「でも、音符がなくて、こんな記号を追いかけるなんて、邦楽家の人はすごいですね。」

思わず感心してしまう咲なのであった。

数日後。咲は、また、苑子さんと一緒にお稽古に出た。生徒さんは、六段の調べの楽譜を渡されて、とても嬉しそうだった。

「じゃあ、ちょっとやってみましょうね。それでは、私に続いて、初段を弾いてみてください。」

と、苑子さんの合図で、彼女は六段の調べの初段を弾き始める。苑子さんは、六段の調べを弾きながら、

「てん、とん、シャン、シャシャコーロリンツル、テン、テントシャンシャン、、、。」

なんて歌いだした。それが、よく言われる邦楽の唱歌というものであった。それを歌って、音の高さとか、リズムとかを覚えるんだっけ。今は歌う所も少ない様だが、それを、口に出して歌える苑子さんは、やっぱりすごいという事だろう。

「じゃあ、今度は、フルートさんと一緒に合わせてみましょう。」

苑子さんに合わせて、咲は尺八の部分を吹き始めた。また尺八が加わると、六段の調べは、又雰囲気が変わった。

「なんだか、合奏できるのは、それは楽しいわねえ。」

と、生徒さんはにこやかに笑った。

「もう一回やっていただいてもよろしいですか?」

「はい。」

咲は又、尺八の部分を吹いてみる。

時おり、間違えることもあるが、生徒さんは一生懸命やっている。それでも、苑子さんはにこやかに、それを見守っていた。

今日もレッスンを終えて、咲は自宅に帰っていく。苑子さんは、生徒さんに渡す楽譜を書くからと、彼女を先に自宅へ帰したのだった。

咲は重い足取りで、家に帰るために、富士駅に向かった。丁度、富士駅から電車で二つ、東田子浦駅の近くに咲は住んでいた。

上り電車がやってくるのに、まだ三十分近くある。まだ改札するのは早いかなと、売店の中をうろうろしていた。ちょうど、おいしそうなお菓子を見つけたので、良し、買っていこうと思って、そのお菓子に手を伸ばすと、別の手が先に手に取った。

「あれれ、浜島咲さんじゃありませんか。」

と、それをとった人物は、不思議そうに彼女のほうを見る。

「薫さん?」

まさしく、時折、ユニット「ぬさ」として協演してくれる、苑子さんの一人息子の薫さんであった。

「もしよろしければ、これ、買うつもりだったんですか?何なら、差し上げますよ。」

もう一個あればいいのになあと思ったが、其れ一つでそのお菓子は完売だったのだ。

「薫さんこそいいんですか?だってたべたかったんでしょ?そのお菓子。」

「いや、かまいませんよ。僕は、コンビニで別のものでも買っていこうかなあ。どうせ、電車が来るまでに、一時間近くありますから、間に合います。」

と言っても、富士駅の近くにはコンビニらしきものはなく、歩いて15分近くかかってしまうことを、咲は知っていたので、それはまずいと思った。

「じゃあ、駅のカフェでお茶していきませんか。あたしも、薫さんから取り上げてしまったようで申し訳ないですし、どうせ、あたしも、一人暮らしですから、多少遅くなっても構いませんし。」

「そう、、、ですか。まあ、一本逃してしまったので、どうせ一時間近く待たなきゃなりませんから、そうしましょうかね。」

咲がそう誘うと、薫は照れ笑いしながら、そのお菓子をもとにあったところに戻した。

「行きましょ。」

二人は、売店を出て、駅中のカフェに入る。席に座って、咲は白桃ジュース、薫はコーヒーを注文した。

「薫さんは、たしか下村先生と一緒に住んでらっしゃるから、身延線でしたよね。」

「ええ、富士根駅です。まあ、特急が止まってくれない駅ですので、一本逃すと一時間近く待たされるんです。特急は、富士を出たら、富士宮まで止まらないでしょ。」

咲がそういうと、薫はそう答えた。

「そういえばそうでした。こないだ、入山瀬まで買い物に行って、間違えて特急に乗ってしまいましてね。そうしたら駅を通り過ぎてしまって、もう、大慌てだったわ。」

「そうですよね。咲さんは確か、東京に住んでいたとか。」

「ええ、正確に言えば、相模原なんですけどね。」

「ああ、出身は相模原なんですか?」

「あ、いえ、そうじゃないんです。出身は奥多摩という田舎者です。」

「そうですか。」

咲が出身地を話すと、大概の人は田舎者といって笑うのだが、薫は笑わなかった。そんな反応をする薫に咲は意外だと思った。

「まあ、その奥多摩出身の咲さんがなんでこっちに来たのか、あえて聞きはしませんよ。でも、母が、すごく感謝してました、こっちへ来てくれて。」

「ま、まあ。私がそんなこと言われる筋合いはないわ。偉いお箏の先生に、私みたいな田舎者でいいのか、困っているくらいです。」

薫のお礼に、咲はそう答える。

「でも、薫さんも忙しいのね。毎日いろんなところで教えているんでしょう?今日は確か、、、。」

「ええ、丁度、三島で古筝のレッスンがありました。」

と、付け加える様に、薫は言った。

「ねえ、一寸聞いていい?どうしてお母さんと同じ楽器を習わなかったの?お母さんが、あんなに偉い先生なら、そのままお箏教室、継げばよかったじゃない。洋楽の世界では、親の跡を取ることはない、一代限りのことも多いけど、邦楽はそうじゃないって聞くけど?」

「まあ、そうなんでしょうね。有名な奏者あればそうするでしょうね。でも、母はそうさせませんでした。もっと違った楽器をならったほうがいいって。箏なんて、将来性のない楽器を習うよりもね。」

咲が聞くと、薫はそんな風に苦笑いして答える。そうなると、よりおかしなことだと思った。

「そうなの?あたしからしてみれば古筝なんて、お箏のご先祖でしょ。ピアノで言えばチェンバロみたいな楽器で、いわばもっと古いんでしょう?それなのになんで、古筝なんか習おうと思ったの?」

と、咲は聞く。

「ええ、よく言われるんですよ。日本に古筝が伝わったのは、奈良時代で、それを改造したものが今のお箏ですからね。でもなぜか、古楽器の古筝のほうが、かなり前から絶滅を心配して、ポピュラー音楽を編曲したり、教えたりして対策を取り始めているんですよ。演奏会でも、そういう曲をやる奏者もたくさんいますし。箏なんて、今になってやっと一部の派でやり始めたばかりでしょ。それでは遅すぎるからって、母は、早くから絶滅対策を取っている、古筝を習ったほうがいいと言ったんですよ。」

「そうなの。いいわねえ。お母さんが、そうやって将来考えたりしてくれて。」

その答えに、咲は、何だかうらやましかった。

親がそうやって自分の進路を作ってくれるなんて、羨ましいくらいだった。

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