第16話 「もふりーと」(@d_ktnb 様)

 「お先に失礼します」定時だ。まだ作業を続けているオフィスに、柔らかな声を流す。「お疲れ様」「お疲れ様でーす」ちらり、こちらに目を向ける同僚たちから、ばらばらと返事が降ってくる。にこり、と笑って、さっさとドアを閉める。本番はこれからだ。


 今日はどこに呑みに行こうか。ゆらり、ゆらり、人波に紛れて歩きながら考える。あれこれと行きつけの店を思い出すが、どうも今日はぴんとこない。


 こんな時は、家で晩酌だ。


 冷蔵庫に仕舞ってある日本酒が、そろそろ飲み頃を過ぎてしまう。料理酒にするには惜しい、旨い酒。あれに合うつまみはなんだろう。


 「いらっしゃいませ。いらっしゃいませ。本日もおいそがしいなか、開化堂をご利用いただきありがとうございます」やけに明るい照明と、それに合わせたような店内放送。野菜に合わせた、人には寒すぎる冷房。一歩入った瞬間に押し寄せる青い菜っ葉の香り。そんなものたちの隙間を縫って、いそいそと豆腐コーナーに向かう。あった、あった。きつね色の油揚げ。折角なので、普段買わないちょっとお高めのを手に取る。ずしっとした手応えがあって、口の端が上がる。


 それから、香味野菜コーナーに行って、今が旬の新生姜を買う。思ったより大きなそれに、食べきれるかな?と一瞬ひるむが、「スライスしてお酒のつまみに」のポップが背中を押す。えい、と手に取る。そこから歩調を速め、肉や魚の誘惑は無視。一路レジに向かう。「アリガトウゴザイマシタ」あのお姉さん、随分日本語が上手くなった、などとぼんやり考えながら、店を出る。ぶわり、押し寄せる初夏の湿気。一雨ひとあめ来そうだ。これは家呑みにして正解だった。


 家に帰って、さっそく油揚げを炙る。ぱりっとしたら、おろした新生姜をたっぷり。そこへ醤油をちょろり。冷や奴は醤油なしでしみじみ食べたいが、油揚げには醤油の香りがよく似合う。あとは家にあった漬け物を添える。


とっておきの酒を片口に注いだら、お気に入りの杯を手にして、準備万端。ロシアの古城サロンへ帰還し、自信満々な表情で口を開く。「ごきげんよう、諸君・・・・・・」

 

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