第4話 変顔
「やっと、着いた……」
僕はようやく、いつもの教室へ戻ってきた。
しかし、僕を迎えてくれたのは先生でも生徒でもなく、雨上がりの生温い風だった——薄暗い空っぽの教室で、カーテンはゆらゆらとなびいている。
そういえば、4時限目は物理だった。
結局——時間だけを潰されてしまった。
あの場におばあさんと2人で待たされて、交番に連れてかれて、聴取を受けて……まあいいか。自分で選んだことだしな。
それにおばあさんから学校に電話してくれて、僕の遅刻は免れた。
ふう、少し気持ちを落ち着けるために自席に座る。
もう、ここからの眺めは見納めになるのか……。えーと、あと机の中の物も今日持って帰らないとな。
昼休みまで少し時間がある。みんなが戻ってくるまでに簡単な荷造りをしておくか。
キーン、コーン、カーン——。
4時限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。学校全体がざわざわと少しずつ騒がしくなる。
同級生たちは理科室から教室へぞろぞろ戻ってきた。
「お、アセイ! お前大丈夫だったか?」
「おう、なんとかな。あ、でも風邪引いたかも」
少し、あどけてみる。
「お前、いつも何かに巻き込まれてるよな? 色んな意味でツいてるんじゃね?」
「やめろよ、そんなことねーよ」
こいつにはあの狐が見えているのか? そう思うほど、的確で少し焦った。
「弁当一緒食べる?」
「悪い、食べてから来たんだ」
実のところ、まだ昼食は摂っていない。
「おう、そか」
そろそろ、クラスのみんなは戻ってきたかな。
他愛もない会話を仲村と楽しむと、僕は教室を見渡した。やっぱり東雲の姿がない。
*
「あら、坂元くん。東雲さんのお見舞い?」
「別にそういう訳では」
やっぱり東雲は保健室にいるそうだ。
「素直じゃないわねー。ねえねえ、もしかして君たちって、付き合ってたりとかしてんの?」
青春してていいわねー! きゃーとか、わーとか勝手に色々な妄想に付き合わされた。
「ただの幼馴染なんで」
「やだー冗談よー。冗談、冗談……」
先生から鋭く光る羨望の眼は全く笑っていなかった。
「東雲さんなら、そこのカーテンで仕切られてるベッドで寝てるわよ」
「そうですよね、では失礼しました」
寝てるのを起こすのも悪いし、外で適当に弁当を食べるか。そう思って踵を返すと、僕の肩はぽんぽんと叩かれた。
「もうー、違うわよー」
なぜか先生は小声になっている。
「坂元くん、男の子でしょ。こういうときは……これよ、これ」
先生は右手の親指を立てて、僕の方へぐいっ、ぐいっと繰り返す。
ちっちきちー……ですか?
「なわけないじゃないーあなた何歳よー! ドッキリよ! 寝起きドッキリ!」
僕の性別とジェスチャーが全く関係ないという事実以前に何を言ってるんだ……この20代半ば婚活女子は。と思ってしまった。
「彼女が辛いときこそ、場を明るく盛り上げるのがあなたの役目でしょ!」
先生が持ってる盛り上げ方の参考書、絶対偏ってるよな。
「坂元くん、後は任せたわよ……」
今から戦地に赴くかの如く、先生は凛とした表情で僕に言い放つと、こほんと軽く咳払いして、息を大きく吸い込んだ。
「あーっ! いっけなあーい! 身体測定の資料まとめなきゃだったわあー! 昼休みの時間ぜんぶ使って終わるかしらあああー!」
そして、心優しき大根役者は保健室という舞台から小走りで
まあでも先生が言ってた通り、明るく振舞うっていうのは大事かもな。寝起きドッキリみたいなことは当然しないけど。
室内に設置されている簡易的な洗面台の前で、変顔の練習をしてみる。鏡には引きつった顔の男性が映っている。不倫が妻にバレたのか。そんな哀愁さえ漂うほど下手くそだった。
はあ……やっぱり壊滅的にキャラじゃないな。でも、だからこそ決まったときの爆発力は未知数というか。これは恥も外聞もかなぐり捨てて、ただただ変顔をやり遂げようとする心構えが大事なはず……。
僕は普段から無表情が常であり、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも……と言うのは少し大袈裟だが、表情が豊かな方ではない。
シークレットサービスも泣いて黙るような能面よろしくの表情筋をほぐすところから取り掛からなければならない。
両手で両頬を色んな方向に引っ張ったり、こねくり回してみる……ぐりぐり、ぐりぐり、ぐりぐり——。
あっ、気持ちよき。クセになりそ……。
って、そうじゃなくて。
最初は痛いだけだった顔の筋肉は徐々にほぐれていき、顔の表面が仄かに火照る。ようやく手を使わずに顔の表情に色が出せるまでに至った——。
よし、ついに機は熟した。
変顔スタンバイ完了——いよいよ敵地へ乗り込むぞ……。
そっとカーテンに手を掛け、心の中でカウントダウンを開始した。
3、2、1——シャッ。
目の前には虚ろな眼をした東雲がベッドに腰掛けていた。
僕は渾身の変顔のまま、しばらく時が止まっていた……。
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