第3話 葛藤

 ドクン……ドクン……ドクン——。

 一定のリズムだけが身体の内側から響いてくる。


 どこまでも空虚で無機質な感覚は、まるで世界から押し出されるかのように、個人の感覚へと収束した……。何とも言えない感覚だった。

 もし、言い換えるなら、それは『僕に帰る』という表現が適している気がする。


 僕の嗅覚は湿った空気を感知し、それが雨に濡れた土とコンクリートの匂いであることが分かった——そういえば、徒偏郷とべんきょう神社で朝の参拝を終えたところだった……。未だに雨が止む気配はない。


「へっくちゅんっ!」

 僕の変なくしゃみで身体が冷えきっていることに気づいた。だいぶ前から全身ずぶ濡れだったらしい。


 近くに落としていた自分の傘を拾い上げ、手水舎ちょうずやで雨をしのぐ。

 鞄からタオルを取り出そうとしたとき、手の中にある違和感があった。


 これは……お守り? 表面には『狐』とだけ刺繍されている。


「うっ! いっつう……」


 一瞬、鈍器で頭を殴られたかと思った。勿論、そんな物騒な経験はないが、それくらいの痛みだと容易に想像できる程だった。


「忘れへんどおくれやす、残りの……時間」

 そうだった。現実だったのか……。


 ぼんやりとした記憶を少し辿ったところで、水滴でにじんだ腕時計に目をやる。ぐにゃぐにゃに曲がった針が指した時間は、朝礼が始まる10分前だった。


「やべ!」


 僕は慌ててお守りをズボンのポケットにしまいこみ、学校へ走った——濡れた身体をぬぐうことなど、とうに忘れていた。


          *


「…………はあ、はあ、はあ」

 僕はいつもの通学路を無我夢中で走った——身体から発散している飛沫しぶきは、もう雨なのか汗なのか分からないほどだ。

 ここを曲がれば、もうすぐ正門……。ギリギリ間に合うか?


「だ、誰か! おらんかね⁉︎」


 背後から甲高いおばあさんの声が聞こえた。

 僕はそのままのフォームで振り切ろうと思ったが、一旦止まって、背後を見た。


 人が、倒れている……。


 スーツを着ているところを見ると、サラリーマンの男性のようだ。

「だ、誰か! 誰か!」

 叫んでいるおばあさんを横目に、群衆は傘で顔を隠しながら通り過ぎていく。


『どうせ、酒の飲み過ぎだろ』

『社会人にもなって、情けない』

『まあ、誰かが通報するだろ』


 通行する人達の濁った眼は、傘のわずかな隙間からそんなことを語っているように見えた。

 たしかに、この近辺は飲み屋が多く、酔っ払いの大人を見かけることは少なくない——でも、だからといって、本当にそれでいいのか?


 あくまで群衆の一部、ただの一部で——僕はここをたまたま通りすがっただけなんだ。


 僕が関わったところで何ができるんだ。それに今は何より余裕がない……。

 だから特段、責任を感じることも、恥ずべきこともないはずだ。勝手な自問を用意して、納得させる……。


 僕は正門の方向へ向き直る。

 それでいい、それでいいんだ。


 雨足が弱まってきたところで、学校の予鈴が遠くで鳴った……。


「も、もしもし、人が倒れているんです。救急車をお願いします。はい、場所は——」


 僕は携帯電話で救急車を呼んでいた。

 やっぱり、見過ごせなかった……。


 自分の都合や勝手な解釈で人の命を無視していいわけがない。できることをしたらいいのだ。

「おばあさん、救急車を呼びました。だ、だから大丈夫です、よ」

「あ、ありがとう、ありがとうね……」

 混乱しちゃってて、ごめんなさいね。とも言われた気がする。


 ものの数分後に救急車は到着し、男性は担架で車内へ。そして、搬送された。

 さっきまで負い目を感じていた僕の葛藤は、元から無かったかのように、あっという間に消え去った——1人の隊員を残して……。


「君、通報してくれてありがとうね。その勇気ある行動で男性は大事には至らなかった。その……あと少しだけお話いいかな?」

「は、はい……」

 1限目が始まる時間はとっくに過ぎていた。


「男性の呼気から酒気は検出されなかったんだ」


 アルコールによる昏睡ではない、とのことらしい。万が一のことを想定し、事件性がないことを確認したい——そのように告げられた。

 おばあさんと僕は、引き続きこの場所で警察の到着を待つことになった。


 最期の登校日にして、神社から学校の正門までの距離は近いようで遠いということを知った。

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