第3話
3.夢の置き場
いざ始まると、デートはまさにただのデートらしく、楽しく楽しく進んだ。軽く腹ごしらえをして、先輩好みの鮫がなんやかんやする新作映画を見て、服や小物などを見てはろくに買わず、冷やかしもした。楽器屋にも先輩は立ち寄ったが、僕は苦々しい顔をしながら先輩の後ろをついて行っただけだった。
今更だが、先輩は大学に入る直前にインディーレーベルから声がかかり、当時のバンドメンバーとか細く活動を続けていた。
当時の僕から見たら大人に声を掛けてもらえるっていうのは、成功をした人だ。目の前で声のかかった人を見ていれば、多感な時期だ、当然比べてしまう。自分が、失敗をしたと。ダメだったと。身近にすら自分より上手い人がいる。
一番を目指してた訳でもない、プロを目指していたわけでもない。あの時はただ音楽が楽しかった。だから、今更下手くそと言われたってショックを受けるはずも無かったのに、それでも当時、やはり近くで見た先輩の成功という輝きが影を僕の後ろに落とした。そして僕の劣等感は、それを確りと塗り固めてしまった。
それからその影は、ずっと僕の後ろを歩く。「お前より優れた人はいる。それも身近に。お前は何をしてもずっと人より劣っている。」分かり切った事実を耳元で囁く。
自分も先輩のように、特別になろうとは思えなかった。いや、なれないと気付いて、全部諦めたふりをしていたんだ。世の中の広さを知ったつもりの井の中の蛙は、井戸の外を見ることすらせず全てを諦めていた。
だから、音楽を辞めた。そして、何者にも、特別にも為れない僕で居る。
「むふ。満足満足。悪いね、居心地悪かったろ」
先輩は楽器屋で、スペースの端で売ってる雑貨を買いまくり、それはもう満足げな顔をしている。
「まあ、正直。でも腑抜けを叩き直すっていうならそりゃ、音楽にも今日は触れないといけないのかなって覚悟はありましたよ」
まだ頑張ってみようとは思えないけれど。
「ん?何言ってんだよ、キミは。ボクが本当に用事あってあそこ寄っただけだぜ?コレと、ちょっとバンド用に取り寄せて欲しい物を伝えただけさ」
「コレ」と言って掲げた袋にはよくわからない雑貨。袋の下の方からはハリネズミのおもちゃが、トゲを全部突き出している。
「はあ、そすか。今日は音楽またやろうぜって話かと思ってました」
「ははは、だろうな!私も一週間前にこうしてたらそう言ってたよ!」
楽しそうに笑う。それだけで、少し気が軽くなった自分がいた。
「遥先輩は、音楽をまたやらせたいんだと思ってました」
先輩に手を引かれて歩く道で、改めて尋ねる。
「この前まではそうだったけどね」
優しい横顔が、こちらを見ながら話している。
「何よりキミ本人がその事で苦しんでいるなら、辞めてもいいんだよって、言ってあげるのが僕の役目だと思ったんだ」
その優しさは、いつもの晴れた陽の光のような明るさよりも、曇天の柔らかい、ぼんやりとした温かさがあった。僕に落とされていた影が、姿を揺らがせた。
「ボクには今まで分からなかった事が、ようやくボクにも分かるようになったと思うんだ。少しはキミと同じものが見えていると思うのさ」
僕は先輩の話が何もわからなかったが、どういう意味か、とは返さなかった。
手を引かれて辿り着いた場所は、小さなライブハウスだった。
昔も同じように先輩に連れられて部で来たことがある。学外での初ライブで、そして最後のライブとなった場所だ。
表から入るのかと思いきや、先輩は裏口へずんずんと進んでいく。顔見知りと思しきスタッフには話を通していたのか、そのまま裏口から楽屋のある通路へと入って行った。
懐かしいですね、といった無難な会話を交わしつつ通路を歩く。どこへいくのだろうか。
「うわ…っと」
先輩が急に止まり、ぶつかってしまう。
「おっととととと!ぶつかるなよ!」
「いや、先輩が急に止まるからでしょ……。……先輩、コレ……?」
気がつけば僕らは舞台袖の少し手前、大量の落書きがされた壁の前で立ち止まっていた。
初めて来た時に聞いた気がする。この壁は、引退ライブをここでしたバンドが書き残したものだと。学生バンドが多い故にここでの解散も多く、自然とそういう慣習になったらしい。
「この壁にはさ、別に天下も取れなくて、デビューも出来なくて、それでも夢を描いたみんなの日々が、きっと綺麗なまま閉じ込めてあるんだ」
先輩は壁を嬉しそうに撫でながらそう言う。
「キミのあの頃の日々も、腐らせるぐらいなら綺麗なままここに置いて行っちゃおうぜ?」
にかっと笑って、買い込んだ雑貨の袋の中からドラムスティック型の珍妙な赤の油性ペンを差し出してくる。
「はは、それが臓物の交換ですか」
「ん、そそ。抱え込むなよ、楽しかった頃に戻ってそこに置いといてもいいんじゃないか」
先輩からペンを受け取る。手が自然とサインを書き出す。
あれだけ手放せなかった夢は、今自分の手で、自分の名前と一緒にあっさりと、箱におもちゃをしまうかのように閉じ込められていた。
「わはは、下手くそなサインだな、キミは!プロのサインを見せてやる!」
先輩が僕からペンを引ったくり、サインを書き出す。明らかに僕と同じ程度には書き慣れていないサインに苦笑してしまった。
「先輩、そもそもメジャープロじゃないじゃないですか。それにここは、引退する人が書く壁なんじゃ無いんですか?」
「うるせいやい、インディーズだって金もらってんだからプロだプロ!」
子供のように声を上げる。いーっ、と口を横に広げて猛抗議のつもりらしい。
「それにね、ボクらは解散する事に決めたんだ」
「気付いたのさ、楽しかっただけのボクらの音楽は、インディーズの中で埋もれちまう中の一組でしかないって」
解散。そうかも知れないとは思っていたが、驚くでもない不思議な感覚だ。
「デビューの時の全能感は一瞬で吹き飛んだよ。インディーレーベルですらボクたちより上手い人がごまんといた。分かっていたはずの事実に、悔しくて、努力もして、それでも埋まらない差があったから」
サインを眺めながら、寂しそうに先輩が言う。
「多分ボクたちのバンドはプロとしてこれより上にはいけない、って結論付けてね。解散する事にしたんだ。プロでやりたい奴もいたし、ここからは好きにしようって」
「先輩はどうするんですか。プロになったのに」
「んー、わかんね。でも音楽は楽しく趣味で続けたいからさ、そのためにここに置いていくのさ。そもそも何のためにプロになったのか、分かんなくなっちゃってたんだよ、ボクたちは。引退のワンマンライブを開けるほどでもないし、正直方針?音楽性の違い?そんな感じで、亀裂ってやつも入っちゃってるんだよね」
このまま続けたって、きっと楽しい音楽はもう出来ないから、と先輩は続けた。
だから、僕たちの音楽は時間差こそあったが、ここで揃って終わることとなった。
「なんか、身軽ですね。もとから別にプロ目指してたわけでもないのに何気負ってたんだか」
「全くだぜ、キミはもとからがむしゃらでやってはいたしボクは好きだったけど、言っちゃえばヘタウマだったくせに一丁前に劣等感帯びやがって」
過去を捨てることは僕には長い事出来なかったが、先輩のようにどこかに残していく事はこんなにあっさり出来るのか。
書き終わった伸び伸びとした自分と彼女のサインに、僕は確かに過去を見た。確かに少しだけ、幸せだった夢の時間をここに置かせてもらえた気がしたのだ。
夢は捨てられない。けれど、どこかに置いておくことは出来るんだ。
「さ、行こうぜ。まだデートは終わってないんだから!」
「そうですね、楽しみましょう」
少しだけ軽くなった気分と共に、彼女が差し出した手を取る。引っかかりになっていた「何か」は、夢と一緒に置いてこられたようだ。
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