第6話 心なしかゾンビ
あめ色になるまでにいくつかの過程があると聞いていた。しばらく視線を注いでいると空色になった。春色になり灰色になった。その瞬間に備えて気を引き締める。夜色になり虹色になり猫色に蛇色に、雪色になる。私の知らないあめ色がいつ訪れるか、私は目を皿色にして待っていた。その先のことは何も考えていなかった。ただあめ色というものを見ておきたかった。あめ色という音色に惚れ込んでしまっただけかもしれなかった。道色になり腹色になり靴色になり車色になった。もう、とっくに通り過ぎていたのかもしれない。知らない色が、どこかに含まれていたのかもしれない。見過ごされたシーンの中で、それは一瞬見えていたのかもしれない。あめ色がどれくらいの時間、あめ色のままでいるのか、私は知らなかった。あめ色が、何色と何色の間にあるのか、何色にどれほど近いのか、私は何も知らなかった。
未知を自身に取り込むよりも、先に炒められている側が無になる恐れもある。疲れは一瞬であきらめに移ろうものであるけれど、大切なのは信念のある時間をできるだけ長く持続させること。どうにかなるまでの間には、どうにもならない時間ばかりが立ち塞がるものだ。見ておこう。起きていよう。そのまま、そのまま、続けること……。
「そのまま行ってください」
シートに背中をつけたまま、私は自身の後頭部にエールを送った。
「木のようなガジェットのような鉄のような言葉のような物質のような」
「いやちょっと違う」
「夢のような鳥のような星のような友達のようなナイフのような」
「君、そんな曖昧なものじゃないんだ!」
「いったい何を追っているんです?」
冷え切った思考を温めるために、僕は何か甘いものを必要としていた。自分の意思を伝えるためには、伝えられるほどの理解が必要だ。僕が理解したのは、ただ僕の語彙の寂しさ。
「ああ、誰か!」
僕は恐ろしい昆虫の餌食になって倒れ込んだ。
「君が見たのはムカデなんかじゃない」
昆虫に対する過度の恐れが、魚の残した置き土産を凶悪な虫に見せた。人の習性に屈して濡れ衣を着せてしまった罪は重い。僕は地球を背負って山頂を目指した。道中で薪を背負った老人に出会った。
「人の運命を一身に背負って重いでしょうな」
「いいえ。僕一人の命の方がよほど重いですから」
「あんた、まさか山の上からこいつを?」
「だったら?」
変な老人がつきまとう、呪いがかった登山だった。老人は僕の中の何かを変えようとするように、語り続けた。無駄だと思うな。価値観が違うと思うな。
「お若いの。そんなに先を急ぎなすんな」
読むに堪えない物語を、布巾で一気に消した。だいたい何かを書くなら、書くための目的があるというものだ。意味があり、目的があり、伝えたい、伝えるべき相手が存在するはずだ。そのために人は紙とペンを取るものだ。もしもそんな人がいるなら、私はそれを尊重したい。むやみに物語を否定したりなんてしない。それは存在しなかった。奴らはただ、私が友のように抱く宝物を踏みにじっただけ。自分たちの愚かな欲望のために、私の大切な板を汚したのだ。いつか報いを受ける日がくるだろう。悪しき呪いは、やがて約束のように我が身に戻ってくることだろう。意味を持たない物語は、私の手によって消えていく。だけど、奴らの罪は決して消えないのだ。
新しい靴に揺られて見知らぬ街を歩いていた。爪先はまだ、他人の部屋の中にいるようだった。曲がり角を曲がると、より一層見知らぬ街が広がった。空は一段と低くなり、家々は低い屋根を身につけていた。踵が緊張と興奮で浮き足立っている。
ショーウィンドウの中には、幾つもの電卓が並び、誰かの指の使いを待っていた。
「二桁の計算もできる?」
少年が硝子に触れる。隣で母は硝子に向かってため息をついた。少年の興味は、すぐにその隣にある薄汚れた壁に移る。無秩序にカードが貼り付けてあった。絵のあるもの、数字だけのもの、文字の書かれたもの。一人の人が飾ったのか、あるいはどこからか人々が持ち寄って、一つのまとまりを作ったのだろうか。確かにそこに存在するのか、少年の指が、無表情を保ったままの顔の一つに伸びる。
「使われなかったカードよ」
恐る恐る伸ばした指を、少年は引っ込めた。
「呼ばれなかった札よ」
歩いているとだんだんと無になってきた。新しい靴に揺られて、どこまでも歩いた。見知らぬ街の中で、空を見上げた。青い。もはや、歩いているのが道なのか空なのかわからない。景色は流れ、いつまでも後退していくので、歩いているようだ。歩いているのは自分ではなく、誰かが勝手に歩いているのだ。一人の人間なのか、何なのかはわからない。その中に私も一緒に含まれて、運ばれていくのだ。街なのか、今なのか、地上なのか、母はいたのか、どうしてカードは切られなかったのか。不確かなものが、私を引いていく。夜には遠い。私はまだここで許されている。
早熟の少女は場所もわきまえず、どこでだって黒い煙を吐いた。すれ違う人の顔は、みるみる曇る。長い目で見れば、少しずつ惑星そのものを傷つけている。誰が彼女を育てたのか。
「そいつは君さ」
「どうして僕なの」
「よく見てごらんよ」
彼女の口にあるのはアイスクリームの棒だ。当たりを楽しみにしながら、いつまでも舐めているのだ。煙なんて、どこにも出ていない。そればかりか、彼女の頭の上には白く聖なる輪が光っていた。きっと遠いところから来たのだろう。
「何でも辛抱強く見なければね」
それから僕は石の上で辛抱した。じっと動かないことは、幼い日から誰よりも得意だった。仲のよかった友達から、遊ぼうと誘われても負けなかった。見知らぬ女性から、邪魔だからどきなさい、さもないと……、と脅された時も折れなかった。百年にも感じる時の辛抱を貫き通した。
(やれやれ)先生はそんな顔をし、石の下から胡瓜を取り出す。
「古漬けができた」
そう言って校長室に駆けて行った。
僕は三年生の教室に入り、自己紹介した。
「はじめまして」
私は深くため息をついた。板の上には不条理な時が満ちていたからだ。何かの記念に置いておくほど、私は我慢強くはない。どんなに筋の通らない話も、利益を運んでこないテキストも、私なら消すことができる。そう時間はかからない。その点で、私は神なのかもしれない。ほんのひと手間をかけるだけで、私はこの腐った文字の列、曇った世界を完全に消し去ることができるのだ。私の中に迷いはない。けれども、少し疑いは芽生え始めている。自分が相手にしているのは、心ないゾンビであるのかもしれないと。執拗な復活を何度も目にする内に疑いの色は濃くなっていく。勝算はあるのか。あるいは、いつか勝敗は決するのか。もうすぐ、私はこの板の上に広がる不条理を消してしまうだろう。そのための武器は、もう手の中に握られている。
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