第3話 葱とショコラ
不完全な世界が、何かを作り出すことを望ませたのかもしれない。最初は何もなかった場所も、少しずつ明るくなり、少しずつ賑やかな場所へと変わっていった。多くの者が、植樹に反対していたのは、それほど昔のことではなかった。木が成長する頃には、遠いところから鳥たちがやってきて、自由に歌った。
川の流れを歌うとその通りに川が流れた。
繊細な歌声に耳を澄ましているとここにある世界が愛おしく、何もなかった時代がうそのように思えた。木は鳥ばかりでなく、虫や猫を招いた。猫の周りには夢幻の空間が広がった。
橋の下には道ができた。道の上には人が、どこからともなくやってきた。木が最初に鳥を招いたように、道が次々と人を呼び寄せ始めた。遠い国からも、憩いの空間を求めて人がやってきた。水の流れは穏やかで、清々しい風が橋の下をくぐり抜けた。ギタリストがやってきて、即興の旋律を奏でた。カップルは足を止めて、短い夜が少しでも長くなるように祈っていた。いるはずのないものたちが集まってきて、ひと時の時間を生きていた。もしも、この道がなければ、鳥が川の流れを歌わなかったら、彼らは今頃どこにいたのだろう……。猫は安全な樹上で夢見ながら、多くのものを見逃していた。
あれが父だよ。あれが君の、母なんだよ。
今の今まで何もできなかった。何もなかったまな板の上に青い葱が載っている。何もできなかった手の中には光る包丁。今、切っている、動いている、生きている。生み出している、作り出している、未来に向けて、未来の自分に向けて、香り立つ、役に立つ、葱、葱、葱……。
次々に生産されていく数え切れない葱の断片。葱、葱、葱。これも葱、あれも葱、今、葱、次も葱。葱だけを受け入れて、まな板は世界を開き続けていた。小気味よい音を立てながら、少し自分の色を落としながら、じっと鋭い光を呑み続けていた。それは、何かの上にあふれて、何かを満たすだろう。切って、切って、切って。いくら増え続けても、一つ一つの断片が大切だ。葱、葱、葱……。もう、隙間なく、葱で満たされてしまった。よかった。切っているものが、葱に過ぎなくて。
「そんじょそこらのショコラで満足はしないで」
「満足だなんて」
「顔に満足と書いてあったわ」
「見たのか。僕の顔を」
「そうよ。今そう言ったでしょ。あなたはショコラに満足してしまったのよ。残念ね」
「満足なんてしていない! ただ少し、いいかもと思っただけだよ」
「それを満足と言うんじゃないの。たかがこんなショコラでね」
「そんなに酷いショコラでもないさ」
「馬鹿ね。世界中のショコラを見もしないで」
「無茶を言うなよ。誰がそんな大それたことを実現できると言うのさ」
「少しあなたを買いかぶりすぎていたようね」
「どういう意味だ? 僕の何を知ってるって言うんだ」
「今では知りすぎずに良かったとさえ思えるわ。だってそうでしょ」
「どういう意味だ? 意味がわからないよ」
「あなたにとって、ショコラはそれくらいの意味しかなかったという意味よ」
「ああそうさ! ショコラが世界のすべてじゃない」
「ほら、やっぱりね。あなたは自分でショコラを投げ出してしまうのね」
「そうさせたのは君の方じゃないか! いつも君がそうさせるんだ」
「挙げ句の果てには、私のせいにするのね」
「君がそうさせるんだよ」
「ショコラを取ったら、何も残らないくせに!」
「ショコラ、ショコラって、もうショコラはたくさんだ!」
「それはこっちの台詞よ! 本当にもうショコラなんてたくさんよ!」
ショコラの残骸が舞っていた。
演じ疲れた舞台の袖で雪だるまは雨傘を手にしていた。
「今晩、降るだろうか?」
くだらないね!
少し横目に入っただけで、そのくだらなさ加減を悟ることができた。一瞬の躊躇いもなく、布巾を走らせると死ぬほどくだらない落書きを消し去った。くだらないことを確かめることに費やす時間も、惜しい。もしもそうするなら、人生には他にもっともっと有意義な時間の過ごし方があるのではないか。悪ガキは執拗に私のまな板を攻撃してくる。定番の攻撃目標になるほど、隙があるというのか。あるいはどこでもきっとそうなのだ。どこにでもある茶番を、ここで気に留めるのもきっと愚かなことであるに違いない。私は私のまな板の上で、切るべき物を切ることだけに集中したい。
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