1-9
不意に女性が摑んでいた手を離し、十和子を突き飛ばす。バランスを崩した十和子はそのまましりもちをついてしまった。
叫びたくても声が出ない。走りたくても足に力が入らない。腕と同じほどの大きさのはさみを振り上げ、ゆっくりと近づいてくる女性に対し、十和子は手足をバタつかせて距離をとろうと試みた。が、女性の足の方が格段に早く、服の裾を思いっきり踏まれて動けない。
「あ、あぁ、たす、け、て……、たすけてくださ……」
十和子は、なんとか声を絞り出した。うまく息が吸えない。その後も何かしら言葉を続けようとしたが、女性の顔を見たとたん言葉が一切でなくなった。
女性の顔には、いつの間にか白い仮面がついていた。ピエロの顔から装飾を一切合切なくしたような、あるいはディスカウントストアで売っているホラーマスクのような。とにかく細い三日月型の穴が目と口の部分に開いた、笑顔が掘られた仮面だった。
そういえば、例の連続殺人事件でも、現場にはいつもあんな感じの仮面が落ちてると、叔母さんの家で見ていたワイドショーで言っていたっけかな、と、十和子は妙に冷静になりながら思った。もはや、体にはほとんど力が入らない。あ、これ確実に死んだな。天国のお父さんお母さんに想像以上に早く会いに行くことになったな。最後に買ったハーゲンダッツ食べたかったな。などと、割とどうでもよいことをぼんやり考えながら、十和子は振り下ろされるはさみの切っ先を見ていた。
一瞬、地面についている両手が冷たいと感じた。なんだろう、と、思う間もなく地面からいきなり大量の水が噴き出した。それもただの水ではなく――真っ黒な、どこまでも真っ黒な水だった。汚れているわけではない。まるで宝石のオニキスのような、日が落ちていても分かるほどに澄んだ黒をしていた。
女性は標的を十和子から間違いなく自然界にはありえないその水に変えたようだ。はさみを黒い水の前に突き出して戦闘態勢をとった。しかし、黒い水が生き物のように大きくうねったかと思うと、はさみなどものともせずに、津波のように女性を飲み込んだ。黒い水は地面から30㎝ほど浮いたところで大きな球体になった後はめっきり動かなくなった。
黒い水が現れてからここまで10秒ほど。十和子は目の前の事象についていけず目を白黒させることしかできなかった。先ほどまでの恐怖とはまた違った戸惑いが、十和子が動くことを鈍らせていた。
不意に後ろから肩を叩かれた。十和子は変な声を上げながら飛び上がり、後ろを向こうとして、そのまま一回転した。地面に頭を叩きつけながらも上半身を起き上がらせ、目を凝らし肩を叩いた人物を目に捉える。
「ああ! 昼間に会った人!!」
一度見たら忘れない、やたら白く長い髪が目に入った。その白髪の少女は、十和子が何をしているか分からないと言った様子で小首をかしげている。
「貴様、とりあえず立て」
白髪の少女は低い声でそれだけ言うと、十和子の胸倉をつかんで無理やり立ち上がらせた。
なんとか立ち上がった十和子は息を整え、自分の足に力を入れた。その様子を見た白髪の少女はパッと手を離した。
白髪の少女が手を軽く振ると、十和子の後ろで浮いていた黒い水の球体が突然、水風船が割れるように弾けた。中からだらんとした仮面の女性が現れ、そのまま重力にのっとって地面に叩きつけられ、動かなくなった。
「……何をしている」
白髪の少女が、仮面の女性が持っていたはさみを拾い上げながら、十和子に聞いてきた。
「何をって……。そ、そもそも今何が起きているの!? あの黒い水は何? 仮面の女性はどうなった!? というかあなたは――」
「だまれ」
人を射るような目に気圧されて、十和子は口を噤んだ。白髪の少女は十和子に背を向け、十和子が歩いてきた道の方を見つめ、呟くようにいった。
「ここから逃げろ。遠くへ行け。時間がない」
意味が分からない。十和子はそう言おうとして、息を飲んだ。
塀の裏。電柱の上。マンホールの穴の中。ありとあらゆる場所から倒れている女性と同じ仮面をつけている人間が何十人もこちらを向いてジリジリとにじり寄ってきていた。その全員が、大きなはさみを手に持っている。
あはは、あははと不気味な笑い声を発する集団を目の当たりにした十和子はパニック状態に陥り、再びその場から動けなくなった。自分の喉から息の抜ける音だけが聞こえてくる。
白髪の少女が目だけで十和子の方を見やり、怒鳴るような声で言った。
「死にたくなければ走れ、今すぐ!」
「あ……あ、あぁぁぁいぃぃやあああぁぁぁぁぁ!!!!」
十和子は、自分のものとは思えない叫び声を上げながら、なんとか足を動かしコスモス荘の方へと走り出した。途中、倒れていた女性を踏んだような感覚が足にあったが、気にする余裕もなかった。
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