1-8

 私は献花台に祈りをささげるために寄り道をしたのではない。日用品を買うためにデパートに行こうとしていたはずだ。


 と、いう事に十和子が気付いたのはコスモス荘に戻って一息ついた後だった。もう一度出かけるのは面倒くささが極まりないが、流石にもう一晩をNOご飯、NO布団で明かすのは辛すぎる。何度も蒼ちゃんにごちそうになるわけにもいかないし。


 十和子は買うものリストをスマホのメモ帳に書きながら渋々重い腰を上げた。とりあえず家に電子レンジがあるから今日はレンチンで食べられるもの。あと食器類は超重要。それと掛布団。そういえば掛布団ってどこで買うのだろう。即日買える物なのか。と、いうか持ち帰れるのか。


 あれこれ考えつつ今度こそ寄り道せずにデパートへたどり着く。食料品はもちろん、よくよく探せば食器専門店や寝具専門店やらが入っていてとりあえず一通り必要なものをそろえることが出来そうだ。親の買い物について行っていた頃には気が付かないものだと、十和子はしみじみ思った。


 食器専門店で一人暮らし用食器セットとやらを買い、食料品売り場では散々迷った挙句冷凍グラタン(2食分)と朝食べるパン。こっそりハー○ンダッツを購入。その後未踏の地である寝具専門店に突入。近くにいた優しそうな女性店員に2万円ほど差出し、「これで、春用の掛布団、出来るだけふかふかしたやつと毛布をください」という大分頭の悪い注文の仕方をした。ひたすらわたわたしていた自分に丁寧に対応してくれた店員さんには感謝しきれない。


 かくして十和子はなんとか今日のお使いミッションをコンプリートし、デパートを後にしたのだった。なんとか今日も一晩越せそうだ、と安心する気持ちと、何故私はこのような状況で一人暮らしを決行しようと思ったのだろうもっと準備しとけよ過去の自分という後悔の念が、帰り道の間十和子の中でグルグルと回り続けた。

 とにかく、今日はもうさっさと帰ろう。そんでもってご飯食べて寝よう。十和子は、大きな布団の袋で目の前をふさぎながら、フラフラと暗い夜道を歩いていく。とにかく持ちにくい。歩きにくい。しかも夕ご飯のメニューと布団に散々迷ったために日も暮れてきて街灯もボチボチつき始めている。


 大通りから小道に入り、人通りの少ない住宅街を進んでいく。何だろう。普段慣れない道を歩いているせいか少し心細い。


 まあでも、完全な一人というわけではない。布団の所為で前が良く見えないが、かすかに誰かの話し声が聞こえる。一人ではないというのは心強い。

 いくつか角を曲がり、順調にコスモス荘に近づいていく。さっきから聞こえてきた声がまだ聞こえてくる。十和子は少し気になって軽く後ろを振り返ったが、誰もいない。


 十和子は再び歩き始めた。しばらくすると、やはり後ろから話し声が聞こえてきた。いや、よくよく聞くと会話ではない。数人がそれぞれに独り言を言っている感じだ。


 なんだか不気味だな、と十和子は思った。周りに人が本当にいるのか、それとも自分がそう感じているだけなのか、分からなくなってきた。とにかく、早く帰って寝よう。そう思った十和子は帰り道を小走りで駆けていく。


 急に抱えていた布団に顔がめり込んだ。少し体制が崩れてよろける。前方に何か障害物があったようだ。十和子が頑張って首を傾げ、前を見るとそこには20代後半くらいの優しそうな女性が笑顔を湛えて立っていた。

 「あ、あのごめんなさい。前、ちゃんと見てなくて」

 布団を抱えたまま、何度も頭を下げて謝る。女性は笑ったまま何も言わなかった。

「あ、ええと、じゃあ、これで……」

 十和子は困惑したのち、ペコペコしながらその脇を通り過ぎようとする。

その時、いきなりその女性に右手で肩をガシッと摑まれた。力が強く肩の肉がえぐれそうになる。

「いっつ! な、何」

 驚きながら十和子は女性のほうを見て叫び声を上げそうになった。先ほどと変わらず笑い続けるその顔が、心の奥底から恐怖心を湧き上がらせてくる。なんとかしてその場から逃げようとしたが、女性の手の力が強すぎて全然動けない。

「ねぇ」

 いきなり女性が十和子に向き直り、笑顔のまま語りかけてきた。十和子は恐怖のあまりその場で固まる。女性はさらに言葉を続けた。

「ねぇ、どうして、――笑わないの?」

「えぇ!?」

 十和子はドサッと持っていた荷物を全て落とした。意味が分からない。ヤバい、この人頭いっちゃってるタイプの人だ。とにかくもがいてみたが、肩を摑む手は振りほどけなかった。


「笑ったほうが幸せになれる。笑えば皆も幸せになれる。こんなに簡単なことなのに。ねぇどうして笑わないの??」

 女性は尚も笑い続けながら顔を十和子に向けているが、その目に十和子は映っていなく、言葉はどこか虚空に消える。十和子は女性の言葉を頭の中で何度か反芻してみたが、とりあえず何言っているか理解できないという事しか分からなかった。

 十和子は女性の手に触れて懇願した。

「あの、離して、くれませんか?」

「笑って。笑って笑って笑ってよ悲しいから笑って辛いから笑って苦しいから笑って痛いから笑って悲運だから笑って悔いているから笑って不幸だから笑って」

 あ、だめだ会話にならない。と、いうか法律に抵触する物でも吸っているようだ。と、そこまで考えて、十和子は女性が左手に何か持っていることに気が付いた。ジリジリと音を立てながら点滅する街灯に照らされて鈍く光るそれは、それは巨大な――。

「はさみ!!?」

 まずい。本当にヤバい。逃げないと。ああ。そうだ。思い出した。今思い出した。最近騒がせている殺人事件。猟奇的と言われるその理由。その手口。それは刃物で顔をズタズタに引き裂かれた上に笑顔の仮面を被せるというもの。つまり。ここから。早く。逃げないと。じゃないと……。

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