196. お礼 1/4(大地)


「風邪?」


 聞き返すと、一護いちごは、はい、とうなずいた。


「きのうは寝込んでました」


「ショウ、水浴びにハマっちゃって。たまに、お風呂でザバザバ水かぶってたんです。『悪霊退散』とか言いながら。涼しくなってきたのに、やめないから」


 一加いちかは頬をふくらませていたが、最後にニヤニヤと口元をゆるめた。


(……悪霊退散?)


 何か怖いものでも見たり聞いたりしたのか? と、たずねようとしたところで、前を歩く双子がピタッと歩くのをやめた。

 二人とも俺のほうを向き、シーッと唇に人差し指をあて、抜き足差し足で、部屋のドアに忍び寄っていく。

 顔を見合わせ、頷き合うと、一護がノックをせずにドアを開けた。


「やっぱりっ!」


 一加が声を上げる。「もうっ!」と言いながら、部屋に入っていった。


 一護に、どうぞ、とうながされ、俺も続く。


「ちゃんとベッドで寝てなきゃダメって言ったのに!」


「ベッドにいたよ。ちょうど本を読み終わって、新しい本を取ろうとした……ゴホッ、だけ」


 パジャマ姿の菖蒲あやめが、一加に叱られ、言い訳をしている。鼻声だ。


「……大地だいち!」


 菖蒲は俺に気づき、にこっとした。あ、と口を手でおおい、ベッドに戻り、枕元に置いてあったマスクをつけた。


「グルグルして〜」


「ダメ」


 俺に近寄ろうとした菖蒲を、一護が制した。一護は俺をかばうように、菖蒲との間に立っている。


「大地さんにうつしたら大変だし。ショウは熱があるんだから、ベッドにいなきゃダメ」


「……わかってるけど。グルグルしては、挨拶でもあるの。……大地は風邪ひかないし。熱も、きのうより下がったし。ちょっとくらい……」


「ちょっとって、部屋の中でグルグルしてもらうの?」


「ぶら下がるだけ」

「ダメ」


「ちょっとだ――」

「ダメ」


「……はあい」


 菖蒲は不貞腐ふてくされた顔をした。


「ぶはっ! あはは! 一加、一護、案内ありがとな。ちゃんとベッドにいるよう、俺が見とくから。安心して、仕事してこい」


 双子は、菖蒲をベッドに寝かせて周りを整え、換気のために窓を開けた。俺にベッド横の椅子をすすめ、仕事に戻っていった。



「ねえ、大地……」


 菖蒲はもぞもぞと体を起こそうとしている。


「双子に怒られるぞ」


「ベッドにいれば大丈夫」


 椅子から腰を上げ、菖蒲を手伝う。


「ありがとう。ねえ、一護に渡されたマスクして。風邪はひかないかもだけど、一加たちに怒ら……心配するから」


 ああ、と先ほどの二人の様子を思い返す。手に持ったままになっていたマスクをつける。


 菖蒲はマスクを手で押さえ、ゴホゴホと咳をした。


「大丈夫か?」


「うん」


「双子はしっかりしてるな」


「しっかりっていうか、はりきってるの。私が思いっきり風邪ひいたから」


「なんで?」


「私が風邪ひいたときに看病して、って言ったことがあったんだけど。それから、ちょっと熱が出るとか、ちょっとのどが痛いとか、ひき始めみたいな風邪しかひいてなくて。『やっとちゃんと風邪ひいた』って喜んでるの。……おかしいよね?」


「あはは。そうだな」


「もう、十分看病してもらったんだけどな」


 菖蒲は左手で右腕をさすった。


 見せてみろ、と手のひらを上にして差し出す。菖蒲は、パジャマのそでをまくり上げ、俺の手に右腕を乗せた。

 そっと握り、角度を変え、確認する。菖蒲の腕の傷を見るのは初めてだ。


(……結構……)


 黒羽くろは忠勝ただかつさんから、二十センチほどの切り傷とは聞いていた。自分の腕で、これくらいか、と想像していたが、子どもの腕にあると長く見える。


「……きれいに治ってきてるな」


「まあね~。気をつけてるから。日焼けしちゃうとよくないって言われたから、アームカバーつけたりしてるんだよ。……でも、変なふうに日焼けしちゃって困る」


 菖蒲の腕と、指先や顔を見比べる。


「少し……違うな」


円境湖えんきょうこに何回か行ったから。……日焼け止め塗ったんだけど……」


「まあ、気をつけるのは、一、二年か? 我慢だな」


「うん」


 菖蒲は腕を引っ込め、そでを直した。


「あ、そうだ! ありがとう、大地。ずっと守ってくれてて」


 ふいの言葉に息を呑む。


 夏期休暇を湖月こげつ邸で過ごし、帰宅した隼人はやとから電話がかかってきた。

 忠勝さんから芝崎しばさき和也かずなりの話を聞いた、という報告だった。


 隼人も護衛のことは言わないだろうと思っていたが、一応確認しておくかと、「菖蒲に護衛のことは話したのか?」と尋ねた。

 すると、隼人はなぜか菖蒲語りを始めた。


『菖蒲さん、本当に可愛らしくて。何を着せても可愛らしくて。一加さんも可愛らしくて。二人が並ぶと、それはもう可愛らしくて。違った可愛らしいなんですけど、結果、可愛らしいなんですよ。もう本当、かわいい。菖蒲さん、かわいい。連れて帰ってきたかった――』


 とかなんとか、かわいいかわいい、止まらなくなった。無理やり話を終わらせ、電話を切った。肝心なことは聞けなかった。


 菖蒲は、マスクを外し、鼻をかんでいる。丸めたティッシュで鼻の下をぬぐうと、続きを口にした。


てつさんたちと、大地と隼人は、芝崎とお母様の実家のこと知ってたって、お父様に聞いたよ。あ、呼び捨てにするなって怒らないでね。ちゃんと本人の前では『様』ってつけるよ。二度と会わないつもりだし、会ってもつけたくないけど」


 そう言いながら、ムスッとした。一転、俺に微笑む。


「知ってたから、庭に出るときは誰かと一緒にって、しつこく言ってくれてたんでしょ? 約束事を守れって、しつこくしつこ~く言ってくれてたのは、ただ迷子にならないようにってだけじゃなくて、芝崎から私を守るためでもあったんでしょ? だから、ありがとう」


「……しつこいが多いな」


「だって、いっぱい言われたから」


 隼人が護衛のことを伝えたのかと一瞬思ったが、そうではないようだ。


「絶対、ぜえーったいに、会いたくないんだけど! もし芝崎に遭遇しちゃったら、大地の名前を言うね」


「ああ」


「ありがとう、大地」


 菖蒲は「それでね――」と、芝崎がやって来たときの話をし始めた。


 忠勝さんは、菖蒲が嫌がらなかったら聞いてもいい、と言っていたが確認するまでもない。その時の様子を、事細かに教えてくれた。

 よく覚えていないのか、ごにょごにょと口ごもり、不明瞭な部分もあったが、十分だった。


 ませているな、と言っていた忠勝さんが頭をよぎる。


(……ませてるの範疇はんちゅうなのか? ……本当によく言い返せたな。俺だったら、妊娠のくだりで十月十日とつきとうかなんて言葉が出てきたどうか。男女の差か?)


「……氣力きりょくれてたんだろ? 倒れなくてよかったな」


「もうね、あとちょっとだったんだよ。これくらい」


 菖蒲は、親指と人差し指をくっつけ、のような形を作った。


「それじゃ、ゼロだろ」


「見るのは、つめの先。つめとつめとの間」


「わかりにくいな。隼人と黒羽とも話したんだろ? 二人とも心配して大変だったんじゃないか?」


 菖蒲は、ヒグッ、と息を吸った。のどの調子が悪いからか、変な音をたてた。


「……隼人にもね、ありがとう、って言ったの。そしたら、ギュウウウッて。とっっっても苦しかったんだよ! 黒羽も心配してくれた! 気をつけてって」


「隼人は本当……相変わらずだな」


「そうだ! 本棚! 今年のやつ、気になるでしょ?」


 今年の、と言われ、ハッとする。本棚に目を向けた。


「……なんだ? あれは……」


 菖蒲の本棚の一角には、ぬいぐるみが並べられている。忠勝さんからの誕生日プレゼントだ。

 一歳から三歳までは、すみれさんと一緒に。四歳からは忠勝さんが一人で選んでいる。徹さんたちに意見を聞いたりもしていないそうだ。


 そのぬいぐるみが並んでいる端に、茶色い物体が見える。


「ブロックだよ」


「ブロッ……ク?」


「落ちゲーのブロック。……あれ? 笑うと思ったんだけどな。……大地はゲームしたことないんだっけ? こう、上からいろんな形のブロックが落ちてきて、きれいに埋まると消えるゲーム知らない?」


「……知ってるけど」


「その、上から落ちてくるブロックの……なんていうの? 種類の一つ?」


「あ、ああ。……あっ、あはは、なんで? ぬいぐるみだろ? あはははは。なんでブロックを選ぶんだよ。た、忠勝さん、どうしてこれを選んだ? たまに抜けてるっていうか。へ、変なセンス。もっとかわいいのがあっただろ。うっ……ぶはっ! ああっ、ダメだ。あはっ、あはははは――」


「ふふっ、やっぱり。絶対、笑うと思った。……ふふ、ふふふ、げほっ。ふふ、あははっ――」


 一応、笑わないようにこらえてみたが、無駄だった。吹き出してしまった。もう止められない。


 そんな俺を見て、菖蒲もつられて笑い出した。

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