◆185. どうしたらよかったの? 05/10 ― 剣術の稽古
一日目の夜に、話せるのは今夜だけかもしれない、と
来てくれた、と言うべきなのだろう。
父から話を聞いた、私から聞いた内容と同じだった、と報告しに来てくれた。ソファーには座らず五分ほど立ち話をし、おやすみのキスをして、友だちの待つ部屋に戻っていった。
「あつい、あつい、あつい!」
「
「あついからあついって言ってるだけだろ。なあ、黒羽」
「そうですね。でも、うるさいです」
向かう先から話し声が聞こえてくる。
口の中のアメを奥歯で
指先でむにむにと両頬をマッサージする。笑顔を作る準備だ。
ふーっと息を吐き、軽く気合を入れる。
一礼をし、道場に足を踏み入れた。
「ありがとうございます」
一加は微笑んでいる。私のぎこちない作り笑顔とは違い、とても素敵な可愛らしい笑顔だ。次に手渡された
少し離れた所で壁に寄りかかり、その様子を見ていた。隣には
今日は稽古の日だ。長い旅行で体がなまり過ぎないようにと、各家滞在中に一日ずつ入れたそうだ。
私たちは、麦茶とレモンのはちみつ漬けの差し入れと、ヤカンとコップの交換をしに来た。稽古を始める前に黒羽が用意したヤカンとコップを回収し、持ってきた水のたっぷり入ったヤカンと新しいコップを置いていく。
黒羽は、小さなトングでレモンをつまみ、上を向いて口に入れた。一加を介さず一護から直接麦茶を受け取り、私たちのほうに来ると、視線を上下させた。
「今日の服も
「これ?」
両手を広げた。袖口が広がっている五分袖の白いブラウスを着ている。
黒羽は麦茶を飲みながら
「プレゼントじゃないけど、その時に買ったの。一加と一護の服も買ったし。普通の買い物もしたんだよ」
「選んだのは……」
「私じゃない」
「だと思いました。
「まあね」
(朝に何か言いたそうにしてたのは、これか~)
可愛らしいブラウスだ。私もすすめられて、欲しいと思った。
選ばないとは、色のことだ。
私はブラウス一枚で着るとき、真っ白は選ばない。もちろん、汚しそうだからだ。
(黒羽、よくわかってる。珍しいよね)
このブラウスは、白のほかに黒と紺と明るい灰色があった。一加、
私が白を選ばないことを三人もわかってはいたが、お嬢様っぽいコーディネートに活かせる服を探していた。私も、お嬢様っぽいのは? と聞かれ、着るのが私でなければ、迷わず白を選ぶ。
黒羽が、私と目を合わせたまま、少し頭を下げた。近づき、黒羽の首にかかっているタオルを手に取る。
ワシャワシャと拭きたいところだが、黒羽は麦茶の入ったコップを持っている。髪も結んでいる。タオルを三回たたみ、それをポンポンと顔にあてて、汗をぬぐってあげた。
「今から練習試合みたいな稽古? 見学してってもいい?」
ちゃんと『
「ええ、そうです。いいですよ。……なんか、いい匂いがしますね。はちみつ漬けとは違う……甘い……」
「……バレたか」
耳打ちするように、タオルを口元に添える。湊と瑛太から見えないようにするための、ついたて代わりだ。
「内緒だよ」
すぐ近くにいる黒羽と茂にだけ聞こえるくらいの小さな声で言いながら、湊と瑛太には、という意味を込めて、湊たちをチラッと見た。
黒羽は小さく頷いた。
「アメなめてるの」
口を開け、舌の上に乗せたアメを見せた。
レモンのはちみつ漬けからわかるように、道場は食べ物禁止ではない。ここにおにぎりやサンドイッチを持ってきて、ピクニックのように食べることもある。
ただ、もし湊と瑛太と会話をすることになったとき、アメをなめていたらお行儀が悪いかな? と思った。
だったら、なめなければよかったのだが、気づいたのは口に入れてからだ。ガムだったら、急いで噛んで捨てたが、アメだ。ペッと捨てる気にはなれなかった。もったいない。一旦、口から出すことも考えたが、直前までなめて小さくして、噛み砕くことにした。
結局、噛み砕くことはできず、バレなければいいか、と妥協した。
黒羽に手のひらを差し出された。
「アメ欲しいの? 持ってきてないよ」
「いえ。タオルを」
「あ、そっか」
黒羽の手のひらに、はい、とタオルを置いた。
「最後までは見学しませんよね? 戻るとき、声かけなくても大丈夫ですから」
黒羽はそう言うと、湊たちのもとに戻っていった。
稽古が再開された。まずは、黒羽と瑛太からだ。
黒羽が、隼人、
そう、黒羽は父にも稽古をつけてもらっている。
父は大地に稽古をつけていた。隼人に剣術を習いはじめ、たまに大地にも見てもらっていた黒羽に、父が稽古をつけていてもおかしくはない。当然のことのように思える。
しかし、黒羽が剣術部に入ってからも、父が黒羽に稽古をつけることはなかった。
父が、見てくれなかったわけではない。黒羽が、父との稽古を
父と大地の稽古を見てしまったら、逃げたくなるのも仕方がないと思う。
だが、とうとうその日はやって来てしまった。
『
学園には昔、『千手観音』の二つ名を持つ、すごく強い人がいた。
隼人が学生の時、『鬼神』は剣術部の、『千手観音』は体術部の伝説となっていた。
『千手観音』は、剣術部と体術部をかけ持ちしていた父の、体術部での二つ名――ではない。『千手観音』は『鬼神』よりも前から存在していた。
『鬼神』の伝説は、体術部の交流戦で、一年生の父が勝ち進み、決勝戦ですごく強い三年生の『千手観音』と、すごい試合をしたことが始まりだった。
父はこの交流戦から『鬼神』と呼ばれるようになった。剣術部の伝説である『鬼神』は、実は体術部発祥だった。そして、『鬼神』と最初に言い出した――名付けたのは
隼人はこの家の食堂で『千手観音』に願い出た。
体術に関して、父と同じくらい強かった――いや、今も同じくらい強い二つ上の先輩『千手観音』は、この家にいる。
父は違う。徹は父と同い年、かつ、調理部だった。ということは、あとはもう一人しかいない。
徹、
一昨年の秋頃、話の流れで、徹が学生時代のことを話してくれた。それで、新事実をいろいろと知ることができた。父と律穂もその場にいて、注釈を加えてくれた。
この新事実は、私から黒羽に、黒羽から大地と隼人に伝わった。
去年の夏、学習学校の先生になって以降、初めて隼人が遊びに来てくれた。
昼食の時だった。隼人は律穂に体術の手合わせを願い出た。律穂は快く応じた。
ここで終わっていれば、黒羽は今も父との稽古から逃げ続けられていたと思う。
隼人は律穂と何回か手合わせをしたあと、さらに父にも手合わせを願い出た。
父との対戦中、隼人は倒れてしまった。その前の律穂との手合わせで、すでにボロボロになっていた。
道場の端に隼人を寝かせた父は、隼人の介抱をしようとした黒羽の肩に手を置いた。
黒羽は道着姿だった。隼人の準備運動に付き合っていた。しっかりと汗をかいていた。
あの時の黒羽の顔は忘れない。忘れられない。父にあんな顔を向ける黒羽を初めて見た。
痛い思いをした黒羽のことを考えたら、笑ってはいけないのだろうが、今思いだしても笑ってしまう。
後日、父に剣術の稽古をしようと誘われた黒羽の顔と動揺ぶりも、非常におもしろかった。
(たぶん、お父様は黒羽に遠慮してたんだよね。黒羽、全力で逃げてたから。一回稽古してからは、気にするのやめたみたいだけど。黒羽は嫌だろうけど、お父様は黒羽と稽古するのが楽しい……っていうか、嬉しいんだろうな)
黒羽のものすごく嫌そうな顔と、父の口角の上がった顔を思い浮かべた。
「ふふっ」
ガンッ――ゴッ!
「ぐっ!! ううっ、う~……」
黒羽がうめき声を上げた。しゃがみ込み、頭を押さえている。
「大丈夫!?」
「大丈夫か!?」
瑛太は構えながら、湊は少し離れた所から顔を
「いてぇ」
「やだ~」
「いったあ~」
茂、一加、一護は、顔をしかめている。
滅多に見ることのできない一撃だった。瑛太の打ち込みを受けた黒羽の木刀が、ビリヤードの球のように弾かれ、黒羽の頭にあたった。木刀は握られたままだ。自分で自分の頭を殴ったかのようだった。
黒羽は「大丈夫です」と言いながらも、
(たんこぶになりそう……)
「すぐ戻ってくるから待ってて」
こそっと一加たちに声をかけ、台所に向かう。
(……お父様との稽古のあと、慰めるの大変だったな。いっぱいなでてください、いっぱい元気をくださいって。……冬にお父様と稽古した時は、慰めてほしいって言われなかったけど……。学園に戻ってから、恋人に慰めてもらったのかな?)
道場に戻ると、黒羽対瑛太は終わっていた。
黒羽は水の入ったヤカンを頭にあてながら、湊たちと話をしている。
「ねえ、一護」
「なに?」
「お願い」
「……しょうがないな~」
持ってきた物を一護に託す。保冷剤とタオルを黒羽に渡してきてもらった。
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