026. 〔21. 目が覚めた〕(大地)

※『21. 目が覚めた』の、大地視点。



「お嬢様。明日の昼、何食べたい?」


 新聞を眺めていたお嬢様が、顔をこちらに向けた。


「なんでもいいよ」


 そういうと、新聞に視線を戻した。


(また、失敗か)


 お嬢様は新聞や本に夢中になると話を聞いていない。でも、良いタイミングで話しかけると、無意識でも返事をする。それを狙ったのだが、こちらを向いてしまった。失敗だ。


 食堂に行くと、隼人はやと黒羽くろはがお茶を飲んでいた。隼人が俺の分もいれてくれた。


「また失敗した。最近、全然新聞に集中してないな」


「そうですか」


 隼人がお茶を飲もうとして、口をつけずにテーブルに戻した。

 黒羽がテーブルに突っ伏した。


「お嬢様が、髪を結っても頭をなでてくれませんでした。笑顔でありがとうって、言ってくれたのに。全然、嬉しそうじゃない。いつもは、すごいすごいって、もっといっぱい褒めてくれるのに」


「単純に触りたくなかったんじゃないのか?」


「黙れ、大地だいち


 黒羽は基本敬語なのに、たまに口が悪くなる。主に俺に対して、いや俺に対してだけだが。


「私もこの前、お嬢様と一緒に新しい本を探そうと思って。絶対喜ぶと思ったんですよ。前におもしろいって言っていた本の、二巻が載っていたので。でも、気になる本はないと言われてしまって」


「本当に眺めただけで、終わりにしたんだろうな」


「熱でもあるのかと思って。おでこを触ろうとしたら、逃げられてしまって」


 お嬢様は新聞を眺めているだけだと言っているが、俺と隼人は読んでいると思っている。隼人が、お嬢様は天才かもしれない、と言い出したときは笑ったが、言葉や文字に対して長けているのは確かだと思う。

 とりあえず、お嬢様が自分からもっと学びたいと言い出すまでは、放っておこうということになった。


「俺がグルグルしてやるって言っても断られたんだよなあ」


「本当ですか? いつもあんなに楽しそうなのに」


「大地に触りたくないんでしょう」


 驚く隼人の隣で、黒羽が先ほどの仕返しのようなことを言った。テーブルに突っ伏している黒羽の頭をグリグリとなでてやると、「やめろ」と手を払われた。


「まあ、原因はなんとなくわかるけどな」


「そうですね。私だけではなく、みんなとなると」


「あの先生、僕がお嬢様のこと気にすると、お嬢様に微妙にきつくなるんです。お嬢様は全然気づいてないみたいだったのに。でも、前に少し泣いてました。だから……、できる限りお嬢様と話さないようにしてるんですけど」


「そろそろ限界かもしれません」と黒羽は呟いた。


「本当、困りますね。こちらも似たようなものですよ。お嬢様と話そうとすると、寄ってくるし。大地さん、なんとかしてください」


「なんで、俺。あ~、でも、あの先生と話してるときのお嬢様の顔はおもしろいよな。ブスッと膨れてて。あの顔のおかげで、笑顔で対応できるわ」


「おもしろいだなんて。可愛らしいですよ。ほっぺが膨れてて、少し口を尖らせていて。ふふ、思い浮かべるだけで。ふふふ」


「でもなあ、最近はその顔もしなくなってきたんだよな」


「そうですね……」


 そのとき、二階のドアが閉まったような気がした。少し前までは、ここに来て、一緒にお茶を飲んだりしていたのに。最近は、一人で部屋に閉じこもることが多くなった。

 忠勝ただかつさんは、七月で家庭教師は終わりと言っていた。あと、二ヶ月もない。早く七月になればいいと思った。



 数日後、先生が帰ったあと、黒羽の機嫌がものすごく悪かった。「どうした?」と聞いても理由は答えない。隼人が聞いても「なんでもありません」と答えるだけだった。



 お嬢様が鼻血を出した。ドアにぶつかってしまったそうだ。


「ボーッとしてたから。鼻血もちょびっとだし大丈夫」


 ひたいを少し赤くして、鼻にティッシュを詰めた状態で、ドアを開けた先生に「気にしないでください」と両手を小さく振っていた。



 風呂に入っていて、お嬢様の左のひざが赤くなっていることに気づいた。すりむいていた。転んだそうだ。右の足にはあざを見つけた。


「この痣……」


「ちょっと失敗してぶつけちゃった」


 そういって、痣を隠した。そういえば、この前から風呂で不自然な動きをしていた。俺から痣を隠していたのか、と思った。



 表庭から窓越しに、一階を歩くお嬢様を見ていた。すると、お嬢様の目の前スレスレに、何かが落ちてきた。ノートだった。お嬢様は、ものすごく驚きながらもノートを拾い、二階にいた先生へと届けていた。


(なんか……、おかしいな)


 先生が帰ったあと、食事の準備をしていた隼人に声をかけた。先生が来ているときは、お嬢様のことをよく見ておいてくれと頼んだ。



 次の家庭教師があった日の夜。隼人に何か変わったことはなかったかと確認した。


「それが、お嬢様が向かう先のドアが不自然に開いていたので、呼び止めたんです。そうしたら、そのドアが勢い良く開いて。もう少しでドアにぶつかるところでした。あれは、たぶん……」


「そうか」


 引き続き可能な限り見ておいてくれ、と隼人に頼んだ。



 家庭教師の日。俺は先生のことを少し離れたところから見ていた。二階にいた先生は、ノートを手に持ち、手すりに近づいた。一階を見ると、ちょうど手すりの下辺りをお嬢様が歩いていた。


「先生、大丈夫ですか?」


「きゃっ」


 先生がノートを持っていた手を取り、ノートを取り上げた。


「よろめいていたようでしたので」


「だ、大丈夫です。ありがとうございます」


 先生は、顔を赤くして俺の手を両手で握りしめてきた。チラリと下のお嬢様に目をやると、最低、とでも言いたげな目でこちらを見ていた。


(俺は助けたつもりなんだけど)


 すり寄ってくる先生から、適当な理由をつけて逃げ出した。


 先生が帰ったあと、隼人と食堂の椅子に座って話をした。忠勝さんは書斎へ、黒羽とお嬢様はそれぞれ自室に向かった。


「お嬢様は、なんで何も言わないんだ? 気づいてないのか?」


「そうですねえ。最近、元気になってきましたけど」


「何か理由でもあるのか?」


「わかりませんね」


 自室に戻ったと思った黒羽が食堂に入ってきた。どうやら、筆記用具を置きに行っていただけのようだ。


「黒羽、前に先生がお嬢様にきつくあたることがあるって言ってたけど。今はどうだ? なにか変わったことはあったか?」


「特にないです。問題ありませんよ」黒羽はにっこりと微笑んで、椅子に座った。


「授業中は大丈夫なんですねえ。私たちの気のせいなんでしょうか」


「いや、でもあれは。あれは……、俺の気のせいだっていうのか……。でも、確かにお嬢様は元気になってきた」腕を組んで、背もたれに寄りかかった。


 ノートを落とそうとしているように見えたのは、先入観があったからなのだろうか。俺の早とちりだったのだろうか。

 前は授業中に問題のある行動があったようだが、今はないと黒羽は言っている。元気のなかったお嬢様も、元気が出てきた。


「……。はあ、ダメだな」


「どうかしましたか?」


「考え込むのは性に合わない。次だ、次の家庭教師、もう一度だけ様子を見よう。そのあと、お嬢様の元気があろうがなかろうが、話を聞こう」


「そうですね。元気のなかった時期があったのは確かですし。そのときの話を聞いてもいいですしね。ねえ、黒羽」


 隼人の呼びかけに黒羽は応えなかった。


「……黒羽? 黒羽、聞いてますか?」


「はい」


 黒羽はどこか遠くを見ていたような気がしたが、再度隼人に声をかけられると、にっこりと微笑んだ。


 俺はお嬢様のことばかり気にかけていて、黒羽の様子がおかしいことに気づけなかった。


 まさか、黒羽がお嬢様のために、あんなことをするとは思わなかった。

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