なんだか最近お姉ちゃんの機嫌がいいんです。きになるな……。



「お姉ちゃん、明日の土曜日なんだけど、久しぶりに一緒にお出かけしない?」


 金曜日の夜、わたしはお姉ちゃんの部屋にお邪魔していた。


 薄紫や黄緑の家具や小物が目立つお姉ちゃんの部屋は、わたしの部屋よりもわずかに広い。部屋決めの際に、お姉ちゃんがどうしても広い部屋の方がいいと言うので、わたしは喜んでそちらをお姉ちゃんに譲った。お姉ちゃんが喜んでくれるだけで、わたしは幸せになれる。


 そんなお姉ちゃんが最近、やけに上機嫌なのだ。にこにこしているお姉ちゃんを見ているのがわたしの幸せであるから、それはそれでいいんだけど、何故それほどお姉ちゃんが楽しそうなのか、姉を愛する妹としては凄く気になるところだ。


 だから今日、こうしてお姉ちゃんをお出かけに誘い、その最中に探りを入れようと計画を立てたのだった。


「うん、いいよ」


 お姉ちゃんの返事はあっさりとしていた。


「え、いいの?」


 断られると思っていたわたしは驚いて沈黙していると、お姉ちゃんは読んでいた少女マンガから目を離して言った。


「羽里、どうかした?」

「え? ううん、なんでもないよ――それじゃあ、どこに行こっか?」


 うーん、と考えはじめたお姉ちゃんの反応に、わたしは安堵の息を吐いた。勘が鋭いお姉ちゃんのことだ、少しでも怪しい仕種をしたらすぐに思惑がばれてしまう。


 細心の注意を払わないと、とわたしは気を引き締めた。


「無難に駅前かな……。それとも映画?」


 ぶつぶつと独り言のようにつぶやくお姉ちゃん。


「今見られそうなのやってたかな」とわたし。


 スマホで近くの映画館の情報を調べてみても、特にお姉ちゃんの趣味に合いそうな映画はやっていなかった。


 わたしとしてはお姉ちゃんと二人っきりの時間が取れればそれでいいんだけれど、お姉ちゃんとしては何か目的があった方がいいみたいで、じっと考えていたお姉ちゃんは閃きの声を上げて手にあった少女マンガをベッドの上に放った。


「最近ね、雰囲気のいい喫茶店に出逢ったの。一緒に行ってみない?」


 嬉々としたお姉ちゃんの声色に、これはチャンスだと思った。気分良く帰ってくる日は決まって喫茶店に行っていた、と言っていた。きっと、その喫茶店にお姉ちゃんを喜ばせる要因があるはずだ。


「うん! 行こ! すぐ行こ!」


 興奮して大きな声で返事をしたわたしに、驚いた様子のお姉ちゃんだったが、笑顔をすぐに取り戻した。


「今からじゃ、もう閉まってるよ」


 なだめるようなやわらかな口調に、わたしの身体から熱が引いていく。


 ちょっと取り乱してしまったけど、お姉ちゃんはそれほど気にしていないようだった。


「えへへ、そうだよね」


 自然と手が頬に触れて、後からくる恥ずかしさを隠すようにわたしは笑ってみせた。


 やっとお姉ちゃんとお出かけする約束ができた。この機に、ちゃんとお姉ちゃんの嬉しいの理由を確かめなくてはいけない。夜のうちに作戦を練らないと。

 ――着ていく服はどうしようかな。



 目覚まし時計の鈴の音でわたしは目を覚ました。


「今何時……」と独りごちって時計を見やると、時針は六時を指していた。


 休日だというのに平日とあまり変わらない起床時間に頭がガンガンする。あまりしっかり寝れていないなと思うのは、明日はお姉ちゃんとお出かけだと思うと興奮して眠れず、深夜の一時まで記憶がはっきりしているのが理由なんだと思う。


 人生初の二度寝も考えたけれど、待ちに待ったお姉ちゃんとのお出かけの前にだらだらしていられない。それに、お姉ちゃんだって起こさないとだし。


 わたしは身体を起こした。なんだかいつもと違って身体が重い。頬も熱っぽいし、視界がぼんやり揺れている気がする。突然、ぐらっと目眩におそわれて、わたしの身体はベッドに深く落ちた。



 おでこに気持ちのいいひんやりとした感覚を覚えて、わたしはうっすら目を開けた。


「あ、羽理、起きた?」


 視界がお姉ちゃんの顔でいっぱいになる。


「天国だ……」


 わたしの口から自然とその声が出ていた。


「そんなに辛いの?」


 憂いの色がお姉ちゃんの顔に張りついた。なんでそんな顔をするんだろう、と思っても頭がしっかり働かない。


 お姉ちゃんが傍らで何かをカタカタ持ち出すと、棒状の物をわたしの口に咥えさせた。ピピッ、という電子音が口許で鳴り、それを持っていったお姉ちゃんが、「三十八度一分」と読み上げる。そこでようやくわたしは自分が熱で倒れてしまったことがわかった。


「全然下んないね。なにか食べたいものある?」

「ううん。今はなんにもいらないよ」


 わたしは笑顔を繕おうとしたけれど、あまりうまくできずに逆にお姉ちゃんを心配させてしまったようだった。


「そうだ。確かりんごが冷蔵庫にあったと思うから、持ってきてあげるね。羽理は寝てて」

「大丈夫? お姉ちゃん。ちゃんとできる?」

「大丈夫大丈夫」


 お姉ちゃんは自信満々に言葉を置いて、部屋から出ていった。


 本当に大丈夫かな……、と心配になってしまう。


 天井の木目をみつめていると、ぐらぐらと揺れている気がして目を瞑った。


 今日はお姉ちゃんとお出かけする日だったのに、ついていないな。わたし、何か悪いことでもしちゃったのかな。やっぱり、お姉ちゃんの機嫌がいい理由を探るなんて、悪い子の考え方だよね。お姉ちゃんが心配だっただけなのに。


 自然と目から熱い涙が出てきていた。せっかくお姉ちゃんの時間を貰ったのに、わたしの体調のせいで貴重な時間を奪い取ってしまうことが悔しかった。


「入るよー」


 という声と同時に、お姉ちゃんが部屋に姿を現した。手にはすりおろされたりんごが盛られたお皿を持っている。「ちょっと手間取っちゃって」というお姉ちゃんの指には、絆創膏が貼ってあった。それを見ると、余計に悔しくなって、涙が追い打ちをかけてくる。


「ごめんね。ごめんね、お姉ちゃん……」


 拭いても拭いても流れ出るしょっぱい涙に、お姉ちゃんは驚いて、わたしに顔を近づけた。


「どうしたの? どっか痛むの?」


 必死なお姉ちゃんの声が重低音の耳鳴りの中で、ゆらゆらと揺れている。水膜が張った視界は、どこもかしこもぼやけて何も形にならない。心配しないで、の声ものどが震えて出てこなかった。


「羽理、落ち着いて。ゆっくり深呼吸して」


 おぼろげなわたしの中に、お姉ちゃんの張った声が通過して、わたしは言われたとおりゆっくり深呼吸した。心が段々落ち着いてくると、涙も自然に止まる。ばやけた視界に、お姉ちゃんの顔がはっきりと映し出される。


 今まで見たことのない心配そうな表情のお姉ちゃんが、わたしを見下ろしていた。


「大丈夫?」


 その声にさきほどの張りはない。人を包み込むようなお姉ちゃんの声色に戻っていた。


 お姉ちゃんは、机に置かれたスポーツ飲料にストローをさして、わたしに渡してくれる。何度かのどに通すと、渇いた身体の隅々まで潤った気がした。


「ありがとう、お姉ちゃん」

「ううん。……羽理、どうして泣いてたの?」


 お姉ちゃんは訊きながら、わたしの手からスポーツ飲料を持っていった。


「……約束してたでしょ。今日お出かけすること」

「うん」

「せっかく一緒にいられると思って嬉しかったのに、わたしが熱なんて出しちゃったから」

「それで行けなくなったのが悲しくて泣いちゃってたの?」


 わたしは首を横に振った。


「違うの。お姉ちゃんに探りを入れるために誘ったわたしが醜くなって」

「え? 探り?」


 お姉ちゃんは、きょとんとして言った。


「最近のお姉ちゃん、なんだか機嫌がいいなって思ってて。その要因がなんなのか黙って調べようとしてた。けど、神様はちゃんと見てたの。悪い子のわたしに天罰が下るのは当たり前なんだ」


 また泣きそうになるのを必死でこらえた。


「えと……、ごめんね、羽理。なんのことかわかんない」


 わたしとお姉ちゃんの間を、白い沈黙が落ちた気がした。


 お姉ちゃんは、何も考えていなさそうな顔をして頬を掻いている。わたしは思わず小さく笑ってしまった。


「どうしたの? 羽理?」


「ううん。お姉ちゃんはお姉ちゃんだと思ったの」


 くすくす笑うわたしを見て、お姉ちゃんは頭上に疑問符を浮かべているようだった。


「なにかわかんないけど、気にしなくていいからね」


 そう言って微笑むお姉ちゃんの優しさに、今まで何度も助けられてきた。成長しても、変わらないでいてくれるお姉ちゃんは、わたしの唯一の拠り所のまんまなのだ。


「……お姉ちゃん。今日はわたしの様子をずっと看ててくれるの?」


 わたしがそう言うと、途端にお姉ちゃんはキリッと表情を引き締めた。


「もちろん! 今日はあたしになんでも言って」

「ありがとう。お姉ちゃん、大好き」


 わたしは安心して目を瞑った。


 変なところで勘の鋭いお姉ちゃんではあるけれど、常日頃はかなり鈍い。わたしが言わんとしていることも本当に何も理解していないのだろう。けど、それでよかったのかもしれない。前の暗いお姉ちゃんを見ているよりもずっとマシだ。


 わたしは眠りにつく前のまどろんだ意識の中でお姉ちゃんに訊いた。


「また誘ったら一緒にお出かけしてくれる?」

「うん。いつでもいいよ」


 わたしは感謝の言葉の代わりに笑みを作った。

 優しくやわらかく、温かいお姉ちゃんは、少し頼りないところもあるけれど、いつになってもわたしの自慢の姉には変わりない。


 小さい頃の出来事を思い出していると、いつしかわたしの意識は深い眠りの底を漂っていた。


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