記憶
冷たい雨に溶けだした。
わたしの気持ちは浮遊する。
手放せないのは、一本のビニール傘。
謝罪の言葉が溢れ出す。
校舎に学生の姿はほとんど見当たらない。どの教室を覗いても、そこには青い空気だけが滞留しているだけだ。
下駄箱に来ると、先に帰ったはずの人物をわたしはみつけた。
その人物は、昇降口の入口付近で、自分の傘を爪先で交互に小突いていた。
「そんなことしてたら、傘壊れちゃうよ」
上履きを棚に仕舞い、わたしは何気なく彼女に言った。
彼女は声に気がついてこちらを見やった。人を睥睨するような漆黒の瞳が、今日は何となく弱々しく光っている。何か面倒事を持ってきたな、とわたしは予想した。
「なくした……」
彼女は目を逸らす代わりにそう言った。
「何を?」
「カギ」
「……また?」
呆れて、ため息混じりの声が出てしまう。
彼女はきまり悪そうに傘の先を地面にぶつけている。安物の傘が軋む音が下駄箱に響いた。
「仕方ないなあ。とりあえず事務室まで行って、落とし物で届いていないか確認してくるよ」
「アタシも行く」
わたしは仕舞った上履きをもう一度取り出した。廊下に出ると彼女は後ろをついてくる。
彼女がカギをなくしたのは一度や二度ではない。その都度、強く言って聞かせているのだけど、何故か再びカギをなくしてくる。
振り返って後ろを歩く彼女を見ると、反省しているのか、いつにも増してしおらしく肩を落としているようだった。
「なんでそんなにカギをなくしてくるの?」
わたしが訊いても、彼女は黙ったままだった。
「何か言わないとわかんないでしょ? なくす前に、カバンに入れるとか、鈴つけて落とした時に気がつくようにするとか、改善方法はいくらでもあるじゃない?」
いつもどおり、何気なく言ったつもりだった。けれど、今日ばかりは彼女もわたしの言うことを黙って聞いているだけではいられないようだった。
「うっさい!
廊下中に彼女の悲痛な叫びが響いた。わたしは驚いて思わず立ち止まる。
うつむいた彼女の顔は、今にも泣き出してしまいそうなほどに、暗く歪んでいた。
「
「記憶なくしたなんて、カギよりもよっぽど痛いよ……」
それは彼女の心からの声だった。
そう。わたしには彼女の記憶がない。彼女の記憶だけが抜け落ちている。
今日のような冷たい雨の日、わたしの記憶は溶けだした。音もなく、前触れもなく。
茫然としていたわたしの顔を見る、まるで世界の終わりでも見るような彼女の漆黒の瞳を、今でも忘れることができない。
彼女がカギをなくしてくるのは、きっと、わたしに対する復讐なのだと思う。
「……ごめんね」
「謝られたって、何も戻ってこないよ……」
わかってる。けど、謝らずにはいられない。そうしていないと、形のない罪で自分が押し潰されそうになってしまう。
わたしは窓の外を見た。
十二月だというのに雪にならない凄然な忌々しい雨の筋。ぶつかってしまったが最後、積み重ねてきた何かがまた溶けてしまいそうで、その雨が続けば続くほど気持ち悪さが増していく。
もう凍ってしまって楽になりたい。
気持ちは浮遊し虚空に消えていく。今冬も雪は降らないのだろう。
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