エリ
雨の日の午後は嫌いだ。傘のせいなのかはわからないけれど、道が窮屈に感じる。その中に自分がいることがバカバカしくて、こういう日は足早に学校を離れることにしている。
昨日も雨降りで、二日続けて下校時は少しだけ体力を使うことになってしまった。そんな時、私は行きつけの喫茶店でよく小休止することにしている。
今日も寄っていこうかな、と思えば、自然と私の頭の中に、ある人のコーヒーが浮かんでくる。
その日も天気は雨で、たまたま相席となり、後から来たその人は、私に敵対心でもあるのか、目の前で堂々とコーヒーを注文したのだ。私と知っての狼藉なの? その挑戦、受けずして負けられない。
その後私は負けじとコーヒーを頼むのだが、結局飲み干せることもなく、その人も帰ってしまうしで、全く上手くいかなかった。最近もたまにコーヒーに挑戦するべく喫茶店に行くのだけれど、私の全戦全敗に終わっていた。
「ハァ……」
思わず溜息が出てしまう。いつになったらコーヒーが飲めるようになるのだろう。あの人が言ったようにミルクも砂糖もたくさん入れているというのに。
この雨のせいで自然と気持ちが滅入ってしまう。私は気持ちを切り替えて、今日も今日とてコーヒーに挑戦状を叩きつけようと考えた。
となれば、急がなくては満席になってしまう。もし相席にでもなって、私が後だったら気まず過ぎて本来の目的も達成できなくなりそうだ。
私はギアを一段階上げる感覚で歩を進める。
ちょうど、その時だった。
周りが石塀に囲まれている十字路の陰から、人が出てくることに気がつかず、私は思い切り、その人にぶつかってしまった。私の身体は力なくお尻から濡れた地面についてしまう。最悪。
弾みで傘も飛ばされてしまい、私は冷たい雨に打たれるはめになった。
ついていないな、と思って俯くと、
「大丈夫?」
と頭上で声が聞こえてきた。
私は顔を上げると、手を差し伸べてきてくれるその人物が、あの雨の日に喫茶店で相席となったその人であることに気がついた。
相手も私の顔を見ると、見覚えがあったのか、どことなく不思議そうな顔つきをしている。
数瞬ぼうっとしていた私は、雨の冷たさに我に返ると、差し伸べられた手に触れることなく、自力で立ち上がった。飛ばされてしまった傘を拾い、私は何事もなかったようにその場から立ち去ろうとする。自分でも何でこんな感じになってしまうのか不思議でならなかった。
「え、ちょっと、」
直後、その人が私に制止の声をかけてくる。無視無視、という私の思考に反して、身体は凍ったようにその場で固まって動かなくなってしまった。
その人は私の正面に回り込むと、ずいっと顔を近づけてくる。私は無意識に顔を反らしていた。
不意にその人が口を開いた。
「えーと、どこかで会ったことない?」
その人は、片頬に人差し指をつけて、うーんと唸っている。
私は、疑問形ってことはちゃんと覚えていないわけ、となんだか損な気持ちになった。心の中に形にならない不満が湧いて、私は、
「さあ、知らない……」
と冷たく言った。
「あ、その感じ!」
突然のその人の声に、私は肩を揺らした。
その人は眉間に皺を寄せている。観察するように私をじっくり見ると、何かに閃いたように手を打った。
「そうだそうだ。あたしが雨宿りに入った喫茶店にいた子じゃない。なんで知らないなんて言ったのよ」
「……私は覚えてません」
「えー。薄情」
薄情って言ったって、そっちだって私を思い出すのに時間かかっていたくせに。それに、あなたに薄情なんて言われる筋合いはない。
私は踵を返して、来た道を戻ることにした。今日は喫茶店に行くのも止めにする。
突然身体を翻した私に疑問を抱いたのか、その人は訊いてきた。
「え、どこ行くの?」
「家に帰るんです」
「そっちから来たのに?」
「なにかおかしいんですか?」
私の反問に、その人はたじろいだようだった。
「いや、そういうわけじゃないんだけど、せっかく再会したんだから少し話したいなって思ったんだけど、忙しい?」
「え?」
私は立ち止まって振り向いた。今何て言ったの?
訊こうと思ったちょうどその時、ポップな呼び出し音が鳴り始めた。その人は、あわててカバンからスマホを取り出すと、それを耳に当てた。どうやら電話の着信音だったらしい。
その人は、うん、とか、ごめん、とかを繰り返して、電話を切った。
「妹からの電話。今日はちょっと時間取れそうになくなっちゃったから、お話はまた今度ね」
ぼうっと突っ立ったままの私に、その人はそう言った。
そう言えば、喫茶店でも最後はこんな感じだったのを思い出す。
「それじゃあね」
私が気がついた頃には、その人は十字路を左に曲がって行くところだった。もう呼び止める声も聞こえないだろう。なんだか通り雨みたいな人だな、と私は思った。
ふと、視線を下に向けると、雨に濡れるアスファルトの上に、見慣れない物が落ちているのに気がついた。私はおそるおそる近づき、上から眺めた後それを拾い上げた。
それは小さな手帳のようなもので、表面にはどこかの高校の名前と校章が記されている。表紙を一ページ捲ってみると、左のページに先ほどまでそこにいた、その人の写真が貼られていた。どうやら学生証のようだ。
落とし物じゃない、届けないと、と思い、私はあわててその人が姿を消した道まで出てみたものの、既に姿は見られなくなっていた。
「ハァ……」
私は本日の下校時、二度目のため息をついた。視線を落として、その人が落としていった学生証を見やる。
両耳が微かに隠れるショートカットに、少し口角の上がった薄い唇、春を写したビー玉のような瞳が、こちらをじいっと見つめている。その写真の横に、私は名前をみつけた。
「
まだ私の方がコーヒーが飲めそうな名前だな、と心の中で密かに思った。
私は藤白江里の学生手帳を胸ポケットにしまった。彼女の自宅の住所も載っていたし、高校名もわかっているし、近いうちに届けよう。
できれば、もう少しコーヒーが飲めるようになってからがいいけれど。
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