アオイロ空気



 わたしはスマホの振動で目を覚ました。


 電話? 誰だろ。ていうか、今何時?


 時間を確認しようかと思ったけれど、電話の相手を待たせるのも悪いな、と律儀な良心が働いて、わたしはスマホを耳に当てた。


「……もしもし」


 寝惚け眼に回らない呂律と脳みそ。そういえば誰からか確認もしていなかったと脳内でわたしの声がしたのとほぼ同時に、電話越しの相手の声が聞こえてきた。


「起きてる?」


 問われた声をヒントに、誰だっけ、と数瞬考えて、電話をかけてきた相手が、わたしの友達の秋御月智衣あきみづきともえであることがわかった。


「なんだ、智衣か。起きてるよ……」


「なんだとはなにさ。……眠そうだね」


「そりゃそうだよ。今何時?」


「三時五十分」


「普通の人なら寝てる時間だよ」


 わたしの返しを聞いて、智衣は小さく笑った。


「なによ?」


「ううん。きづはいつでも変わらないなって思って。カーテン開けてみて」


「え、今?」


 うん、と智衣は言った。その頃には、わたしの思考もはっきりとしていて、彼女は何が目的なんだろうかと考えながらカーテンを開けてみると、


「わあ、すごい……」


 外の世界は空気までもが露草色に染め上げられていた。全くの無音と、透き通るような清らかさは、どこかソーダアイスに似ていた。


「さっきまで雨が降ってたんだ。今から出られる?」


「今から? わかった。どこに行けばいい?」


 智衣から集合場所を聞いたわたしは、薄手のカーディガンを一枚羽織って、親に気がつかれないようにこっそりと家を出た。外の空気に触れるとひんやりして、地面はまだ雨に濡れたままだった。どこかで新聞配達のスクーターのエンジン音が聞こえてくる。それ以外、わたしの五感を邪魔するものはなかった。


 自宅から北に五分ほど歩いていくと、護岸に挟まれた小川に突き当たる。いつもはなだらかな流れも、先ほど降っていた雨で水嵩が増して流れも多少強くなっていた。


 上流から下流の方へ視線を動かしていくと、距離のない向こう岸に、智衣の姿をみつけた。向こうもわたしに気がついたようで、胸元で小さく手を振っている。手のひらは袖に隠れていた。


 右手側にあるアスファルトの橋を渡って、わたしは智衣の下に近づいた。


「ありがと。来てくれて」

 智衣が言った。


 わたしは首を横に振った。


「ううん。ちょっとビックリしたけど」


「こんな時間だもんね。ごめんね。でも、きづに見せたかったんだ」


 わたしたちは並んで小川を見下ろした。暗ぼったい川面に生物の気配はしない。うねうねと川波の音だけがわたしの耳の奥に響いていた。


 智衣もしばらくの間、川の流れに耳を傾けていたようだったが、思い出したかのような静かな声が沈黙を破った。


「あのさ、私たち、いつまでこうしていられるかな」


「え? んー、今日学校あるし、登校前か朝ごはん前までかな」


 わたしの返事を聞くと、智衣は眉根を下げて困ったように笑った。


「違う違う。今じゃなくて、私たち自身のこと」


「わたしたち自身?」


 智衣は何を伝えたいのか、わたしにはさっぱりわからない。彼女はそんなわたしの顔を見ると、小さく息を吐いた。


「ほんと、きづは鈍感だな」


「鈍感? なんで? 智衣が難しいこと言うから、わからないだけだよ」


「天然の方が合ってるかも」


 そう言うと、智衣はからかうように軽く笑った。


 こっちは困っているのになんで笑ったりするんだ、と内心で頬を膨らませるわたし。智衣は一瞬わたしの顔を見たが、すぐに背けてしまった。


「きづはさ……」


 正面を向いたまま智衣が呟くように言った。その声は、天然とか鈍感とか言われてしまったわたしにでもわかるほど、ぎこちなく揺れていた。


「何?」

 わたしは問う。


 智衣が細く息を吐く音がわたしの耳に聞こえてきた。


「……きづは、私のこと好き?」


「智衣のこと? もちろん好きだよ」


 なんでそんなこと訊くのだろう。疑問に思っているわたしの表情を一瞥した智衣は、諦めたように肩を落とした。


「いや、そういうことじゃなくて……。ま、いっか。きづには一生わかんなそうだし」


 智衣は自分の両手を絡めて、身体の前に持ってきて伸びをした。手の甲が袖からちらりと顔を出す。


「え、どういうこと?」


 訊ねるわたしの声は彼女に届いていないのか、智衣は顔の辺りで手をぶらぶらとさせた。


「さ、寝直そ。来てくれてありがとね。きづも早く帰んな」


 そう言うと、彼女はゆっくりと歩き始めた。


「ちょっと、智衣? どうしたのよ。わたしなんかした?」


「何もしてないからだよ」


 智衣は向こうを向いたまま淡白にそう答えた。


 益々わからなくなって一人取り残されてしまったわたしは、無抵抗のまま、その場に立ち竦んでいた。


 ふと、智衣は歩みを止め、くるっとこちらを振り返る。


 怒っているのか、悲しんでいるのか、嬉しいのか、そんな捉えどころのないいつもの彼女の表情がわたしを見返していた。


「私も好きだよ。きづ」


 瞬間、わたしの心がドキンと脈打った気がした。


 智衣はにこりと笑みを浮かべると、優雅な動きで踵を返してまた歩き出す。


 さっきのは一体何だったのだろう。わたしは胸に手を置いて彼女を目で追った。


 青く透き通った空気に包まれる智衣の後ろ姿が、なぜだかいつもと違うように見えた。そう遠くない未来、太陽は空へ上ってくる。


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