アネモネ



 冷たい雨が降る日、わたしは見てしまった。


 それは二月の中旬のお昼を少し過ぎた頃だった。


 自宅近くの公園は、雨で灰色に染まっていた。少し奥まった所には広葉樹に隠されるように東屋がある。屋根は蔓が絡みつき、その下にはログ風のテーブルと椅子がしつらえられている。


 雨を遮るその屋根の下で、わたしの姉と道子さんは、キスをしていた。


 ドクン、という鼓動の後、わたしの時間は壊れてしまった時計のようになった。


「――おーい」


 目の前で手をぱたぱたと振られ、わたしは夢から覚めたてのおぼろげな世界の中心に、道子さんを見出した。ぼんやりとした意識が続いていく。


「またどこかに行ってたよ」


 うん、と無意識に道子さんの声に答える。


 じいっとみつめられていると、次第にクリアになっていき、はっとしてわたしは身を後ろに引いた。目の前に道子さんの顔があったからだった。


「近いです」


「ああ、ごめんごめん」


 頬を掻きながら、道子さんはわたしから離れる。自分で言っておきながら、なんだか寂しい気持ちになった。


 光沢のある黒髪はポニーテールに結ばれ、耳やうなじはなまめかしさを感じさせる。筋の通った鼻と仄赤い潤ったくちびるは美少女の特徴を詰め込んだようで、わたしは恍惚と道子さんの横顔に見入っていた。


 わたしの視線に気がついたのか、道子さんは少し頬を赤らめて、なに? と訊いてきた。


「いえ。特には――綺麗だなって思って」


「いつもそればっかり言うよね。まるであなたのお姉さんみたい」


 道子さんは目を逸らしてそう言った。そしてカバンから一冊の小説を取り出す。照れくさい時はいつもそうして活字を眺めているのだ。その姿もまた絵になる。


 道子さんは、今、わたしのものになっている。そういう言い方をすると、いささか不謹慎な気もするけれど、間違った表現でもない。わたしと道子さんの関係は、一時的なものなのだ。


 わたしが高校一年生になるのと同時に、姉は高校を卒業していった。


 姉より年が一つ下の道子さんは、新入生のわたしを見るなり、その姿に姉の面影を見たようで、道子さんは急激に接近してきた。わたしの鼓動はドクンとなり、いつしか、あの冷たい雨の降る日を思い浮かべるようになっていた。


 この関係は一時的なもの、そう言われたのも最近のことだった。あの日の道子さんの声が、今もピッタリと耳にこびりついている。


 嫌だったのだ。そう言われたことが。姉の代用品であると突きつけられているようで。


 今も小説のページに目を落としている道子さんの横顔を盗み見て、わたしは彼女の顔の下の方、端麗な道子さんを形成するくちびるに視線を向けた。


 ゆったりとした濃密なキス、制服をそっと脱がせる優しい手つき、妖麗な舌使い。それらを思い出す。


 道子さんの全てに、わたしの身も心も落ちてしまっていた。今まで姉が道子さんとそんなことをしていたと思うと、姉に嫉妬の心を抱いてしまう。


 ずっとこのまま、わたしの道子さんでいてくれればいいのに。


「どうかした?」


 わたしの視線に気がついたのか、道子さんは読んでいた小説から目を離していた。不思議そうに向けられる瞳が、わたしをみつめている。


 欲しくてたまらなくなった。


「……どうもしてないですよ」


 けれど、わたしには道子さんの心をつかむ術はない。きっと、これまで通りわたしは姉の代用として扱われ、折りが来れば勝手に捨てられてしまうのだろう。


 嫌なことばかり考えてしまう。だからわたしはだめなのだ。


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