第5話 我儘を君に贈ろう

「あっちの世界に旅立つ前に、どうしても君に伝えなきゃいけないことがある」

 そのしっかりとした口調のせいか、先ほどまでよりも少しだけ彼の色が濃くなった気がした。ふわふわと波間に漂うようだった彼の姿は、いつのまにか楽しげな上下運動を止めていた。

「言いそびれるのが怖いから、まずこれを最初に言わせてほしい」

 私は少しの覚悟を胸に、こくりと頷く。

「今まで本当にありがとう。お別れがこんな形になってしまって残念だけど……。僕の人生の最後の一年間は僕の人生で最も鮮やかな一年間だった。とても幸せだった。何もかも君のおかげだ。本当に、本当にありがとう」

 くっ、と喉の奥が熱さを覚える。いろんな気持ちが混じり合っているのを感じる。感謝、安堵、後悔……とりあえず、涙が溢れそうだ。

「こちらこそ、ありがとう」

 彼の旅立ちを邪魔すまい、と必死に涙をこらえる。声を震わさずに伝えるには、これが精いっぱいだった。

 彼は嬉しそうに微笑んでから再び口を開いた。

「僕の所持品は自由に処分してくれて構わない。アルバムとか捨てづらいものがあれば僕の実家に送ってくれればいいし、食器とか雑貨とか使えそうなものはそのまま使い続けても良いよ。売ろうが捨てようが君の好きにしてくれ。あ、メスシリンダーも好きに使って」

「それはあなたのものじゃないでしょ」

「じゃあ大学に返すっていうのかい? 今さら?」

「はあ……じゃあ仕方ないから、とりあえず花瓶として取っておくわ」

 勝手に捨てて後々返還を求められたりしたら厄介だ。あり得ないとは思うが。

 まあどちらにせよ彼との思い出の品を捨てるなんていう選択肢は今の私には無い。それを捨てることで彼との記憶が消えるわけではないが、彼がこの世にいたことの証が失われてしまう気がするから。

「そんでさ。遺品整理で君が困ってしまいそうなものが一つだけあるんだ」

「メスシリンダーじゃなくて?」

「あーそいつも入れたら二つかも。まあとにかく、それの処分について今君に決めて欲しいんだ」

 そう言うと彼は押入れの中のあの箱を指さした。

「このサプライズボックスの中に入っているんだけど」

 あ、それサプライズボックスっていうんだ。安直。

「この箱を開ければいいの?」

「うん」

 私は押入れの薄暗がりに手を伸ばしがさごそと箱を引っ張り出す。ほんのりとかびくさい臭いがした。

 処分に困るものとは一体何なのだろう。正直、この箱になら何が入っていてもおかしくはないが……。分別が紛らわしい系のゴミとかじゃないといいなあ。

「サンタの帽子があるでしょ? その中、見てみて」

「う、うん。わかった」

 蓋がされていない箱の中からピョコリと飛び出す赤い帽子に、私は恐る恐る手を伸ばす。

「あ、中身落とさないように気をつけてね」

 もとより十分注意はしていたが、そう改めて言われると指先が強張る。ますます何が入っているのかわからなくなってきた。正直怖ぇ。

 そっと取り出した帽子の中にゆっくりと腕を突っ込む。すぐに指先に何かが当たる音がした。

 そのまま手のひらサイズのそれを取り出す。しっとりと手に吸い付くような立方体だ。

 見ると、その小箱は海のように深い群青色をしており、中段に引かれた一すじの切れ込みは、それが口のようにパッカリと開けられることを意味していた。

「え、嘘……‼」

 私はその小箱に見覚えがあった。

 けれどそれはドラマや映画の中での話であって、実物を見るのは初めてのことだ。

 中身を見るまでも無く、今自分の手中にあるものがどれだけ大きな意味を持っているかに気づく。突然小箱が重くなったように感じた。片手で持っているのが辛くなり、支えるように左手を伸ばす。

「じゃっじゃ~ん‼ どう? びっくりした?」

「……これって」

 弾けた笑みを浮かべる彼は、しかしその笑みのつまみをすぐに下げ、柔らかな微笑を湛えて私の瞳を見つめた。

「……うん。指輪だよ。もちろん、特別なね」

 彼は食卓の方に目を向ける。その視線の先にはダイニングテーブルの上に寂しげに佇むメスシリンダー。いつかのサルビアの姿は、もう無かった。

「あの日、君の誕生日に買ってきたんだ。本当はそのままその日に渡すつもりだったんだけど、緊張して結局渡しそびれちゃってさ。それが心残りだったんだ」

 まあまさか死んでから渡すことになるとは思ってなかったけど、と彼は笑う。「……笑い事じゃないわよ」なんて言ってみたりもしたが、声が掠れていたのでもしかしたら彼まで届かなかったかもしれない。

 私は唐突にサルビアの花言葉を思い出した。もしかしたら花屋の店員さんは、彼の手にあったこれを見て、だからあの花を――。……まあ今となっては些末なことか。

 今はそんなことより、彼がこれを渡そうとしてくれていたことへの深い喜びが胸を支配していた。

「……嬉しい、嬉しいよ」

 小箱をぎゅっと抱き寄せる。

 嬉しいのに、嬉しくてたまらないのに、上手く笑えない。一番欲しかった〝モノ〟が手に入ったのに、本当に欲しかった〝モノ〟は指の間からすり抜けてしまっていた。

「……つけてみてくれないか」

「……へ?」

「一目でいい。一目でいいから見てみたかったんだ。君がそれ、つけてるところ」

 手を合わせる彼の姿に、私はこくりと頷く。

 紺碧の箱を静かに開ける。手触りの良い蓋は、その小さな見た目に反し、意外なほど重かった。指先に上手く力が入らないせいだろうか。

 どうにか蓋を開けると、その先には真夏の天の川のように白に近い銀色をしたリングが私を待っていた。光沢が幾筋も走り、滑らかな曲面はシルクを思わせる。中央に一つ輝く小ぶりなダイヤが、潤んだ瞳で私を見つめていた。

「綺麗……」

 そう呟く私の横で、彼はほっとしたように胸を撫で下ろしていた。

「気に入ってくれたようで良かったよ。買ってからずっと、もしもお気に召さなかったらどうしようってビクビクしてたんだ」

「ううん。とっても素敵」

 私はかぶりを振りながら答える。その言葉に嘘や世辞は一ミリも無く、本当に心の底から湧き上がってきたものだった。

 箱に詰まった柔らかなクッション素材から、おぼつかない手で指輪を取り外す。ひんやりとした感触は指先に心地よかった。

「……つけるね」

 本当は断りなんていらないのに、つい彼の方を確認してしまう。彼がニッコリと頷いてくれたので、私も覚悟を決めることにする。

 ピンと伸ばした左手の指に銀輪を近づける。深く、息を吐く。

「どう……かな……?」

 輝く輪はすんなりと私を受け入れてくれた。

 窮屈ということもなく、かといって緩すぎることもなく。再び離れてしまうことを拒むかのようにしっかりと私の指で落ち着いている。

「うん、うん……。とっても似合ってるよ……。良かった……」

 涙をこらえるように顔をくしゃくしゃにしながら彼は満足そうに笑う。

 けど、それは今までで一番下手くそな笑顔だった。

 たまらず私は彼の影に飛び込んでしまう。触れることは出来ないと分かっていても、彼の温もりを感じたくてたまらなかった。

「ごめんな。独りぼっちにしてしまって、君を幸せにしてやれなくて……」

「そんなことない! 絶対そんなことない! 私あなたのおかげで幸せだった! ショートケーキのレシピも覚えたし、家に帰るのが楽しみになった! あなたのサプライズのおかげで毎日笑顔でいられた! だから……だから……‼」

 顔のありとあらゆるところから液体が流れ出るのを感じる。床にポトポトと雫が落ちて、水たまりを作っている。

「戻ってきてよ‼ 全部嘘だって‼ サプライズだったって‼ 言ってよ‼ 戻ってきてよ‼」

 ああ、もうダメだ。

 ダムが決壊したように、言葉が、想いが溢れてしまう。

「ごめんな。ごめんな……」

 涙を頬に伝わせながら、彼は両腕を私の背中に回してくれた。

 当然その腕は私の身体をすり抜けてしまう。だけど、その時ほんの一瞬だけ、何とも言えない温かさが私を包んだ。

 幻になってしまっても、いつもと変わらぬ、優しい腕だった。


 二人でひとしきり泣いたあと、部屋には外の雨音だけが響いていた。

 涙を流した後特有の、あまり心地よくない疲労感に包まれ、私はぼんやりと彼の姿を見つめていた。

「……そろそろ、時間かな」

 赤く腫らした瞳をゴシゴシと擦りながら、彼はそっと呟いた。

「最後に、最後に一つだけ、僕のお願いを聞いてくれないか」

 何事かと首をひねる私を、彼は真っすぐに見つめている。

「指輪を渡してから言うのもなんなんだけど……」

 彼は一つ息を吸う。その間が私を少し不安にさせた。

「僕よりも素敵な人を見つけて、幸せになってくれ。そしてあっちの世界から君の笑顔を、君の家庭を、見守らせてくれ」

 私には、頷くことも首を横に振ることもできなかった。ショートケーキならいくらでも作ってやれるのに、お風呂ならいつでも一緒に入ってやれるのに。このお願いだけは、どうにも叶えてあげられそうにない。

 なぜなら彼より素敵な人間なんてこの世にいないのだから。

「これが最後の我儘わがままなんだ。頼んだよ」

 それでも。私が家庭を持つことで彼が心穏やかでいられるのなら、それが少しでも彼への恩返しになるというのなら。

「しょうがないわね。ま、確約はしかねますけど、それでよろしければ」

 私は少しだけ首を縦に振ってみせる。

 すると、まるでその瞬間を待ち受けていたかのように、彼の影が一段と薄くなり始めた。

「あ、あなた……!」

「あー、もう本当に時間みたいだ」

 彼は自分の手のひらを見つめながら、どこか自嘲ぎみに笑った。

 私はがむしゃらに、彼の姿をした霧のようなものに手を伸ばす。しかし、何度掴もうとしても私の指は虚しく空を切るだけだった。

 彼はそんな私を制止するように、目をつぶって首を横に振る。

「そんな姿見せられたら、ますます辛くなっちゃうでしょ。せめて最期くらい、笑って送ってくれよ。君の一番可愛い顔で」

「……さっきあれが最後の我儘だって言ってたくせに」

「ははっ。確かに」

 彼は楽しげに声を上げる。

 その表情のまま、どんどん溶けていく腕を前に伸ばした。

「じゃあ、またいつか、な」

 彼は私の頭をぎゅうと抱き寄せる素振りを見せながら、私の背中のほうへすり抜けていく。

「ちょっと!」

 私は慌てて振り返る。

「…………そんなこと言うなら、せめて、笑顔に、なれるまで、待っ、ててよ……」

 彼は、消えていた。

 窓を叩く雨は、少しだけ、小降りになったようだ。

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