第4話 身辺整理は手短に

 決して日当たりが悪い部屋というわけではないのだが、真昼間にも関わらず、部屋の隅の方は心もとない。部屋に面した道路からは、時折通る車が水たまりを弾く音が聞こえる。その車に罪があるわけでもないのに、今はその音が忌まわしい。

 電気の消えた室内。その中でひときわ明るい笑顔を浮かべる彼の写真は、いつまでたっても現実味を与えてくれることが無かった。

 彼の遺したものを整理する手も先ほどから全く進まない。それでも、押入れから彼の欠片を掻きだしていく。

 ふいに、手が止まった。

 押入れの中で萎れたように佇む、あの箱が目についたのだ。サンタの帽子やパーティーサングラスが持ち主を探すかのようにはみ出していた。

 何も最期までサプライズにすることはないじゃないの。私はそう思わずにはいられない。

 箱の隣に落ちていた折り紙の輪は、色を失って見えた。


 数日前、彼はこの世を去った。

 帰宅途中、居眠り運転のトラックに轢かれ、そのまま帰らぬ人となった。彼の手に握られていたサルビアの花束は周囲に花弁を散らし、茎まで赤く染まっていたらしい。

 彼の死は、思考回路を断ち切るほどの衝撃を伴って私に降りかかった。葬儀を終えた今となっても、彼はもういないという簡潔な事実は私の喉を通ろうとしない。ひっかかって不安定な、夢を見ているような感覚が続く。


 あの箱をぼんやりと眺めていると、突然、背後からガタリと物音が聞こえた。おおかた積み上げておいた彼の本でも崩れたのだろう。

 そう思い振り返ると、そこにいるはずのない、けれどいつだってそこにいて欲しいと私が願う、愛しいあの人が立っていた。

「じゃっじゃ~ん‼ どう? 驚いた?」

 楽しげに笑う彼は、目をしばたたく私を見て実に満足そうだ。

「…………あ、あなた?」

「そう。僕です」

 どうも~なんて言いながらふざけて一礼する彼。私は目をゴシゴシとこすってみる。彼の姿は消えない。

 私の様子を見て、ほんの少し眉を下げながら彼は口を開いた。

「まあ、実際の所は幻なんだけどね。残念なことに」

 そう言うと彼はスーッと壁にめり込む。目の前の事態に、脳みそが付いていかない。

「え、え、ちょっと待って。どういうこと? わけわかんない。なんであなたがここにいるの? 幻? じゃあなんで今会話できてるの? というか本当にあなたは――」

「待って待って。そんなに一気に質問されても答えられないって。とりあえず落ち着いて」

「落ち着いてなんかいられないわよ! ねえ、本当にあなたなの……? 戻ってきてくれたの⁉」

 信じられない。

 信じられないけど、今目の前にふわふわと漂っているのは間違いなく彼だった。幻だって? そんなの知ったことか。彼は彼だ。たとえどんな姿をしていようが――。

 きゅんと温かい光が胸の中に差し込んでくる。

 その胸の締め付けに急かされ、私は色素の薄い彼の身体に飛びついた。

 しかし私の腕は彼をすり抜け、そのままアパートの薄い壁にぶつかった。指先からじんわりと痛みが拡がっていく。

「……ごめん。もう君を受け止めてあげられないんだ。僕はもうこの世界の存在じゃないから」

 彼は申し訳なさそうに俯く。

「……もっとしっかり抱きしめてあげてれば良かったな。こんなことになるなら」

 続く彼の呟きに、私はハッとする。そうだ。私よりも彼の方が何倍も辛いはずなのだ。

「ごめん。わがままだった。あなたの気持ちも考えずに……」

「え、ああそういうつもりじゃ……!」

 その言葉を最後に、私も彼も沈黙してしまう。窓を叩く優しい雨音が室内を支配する。

 空中に浮かぶ彼は、ほとんどモノクロームだ。湯気のようにすぐ消えてしまうほどの儚さは見受けられないが、うっかり目を離しでもすればどこかへ溶け込んでしまいそうで。私の瞳は彼を捉えて離そうとしなかった。

「せっかくサプライズで登場したのになー。今回は失敗かもなー。アハハハ……」

 気まずい空気を変えようとしたのか、彼は苦笑いをした。きまり悪そうに頭を掻く姿は今まで私が見てきた彼となんら変わりない。

 一度そう感じると、自分の目の前で起こっている出来事の不可思議さがぐんと蘇ってくる。私は彼の登場に対する根本的な疑問を再びぶつけることにした。

「幻、ってどういうこと?」

 私の質問に、彼は楽しそうな笑みを取り戻す。

「簡単に言えばアレだよ、アレ」

「アレ?」

「幽霊、ってやつ」

 うらめしや~とおどける彼。謎にテンションが高い。

「へー。実際いるんだ、そういうの」

「あ、あれ? なんか反応薄くない? もうちょっとこう、うわぁ~びっくり~みたいなの無いの? 怪奇現象だよ? 非科学的な存在だよ?」

「いやまあ、予想通りっちゃ予想通りだしね」

 よくよく考えたら彼が生き返ってるはずなんてないんだし、そしたら私の脳がおかしくなってるか、世の中がバグってるかの二択になる。「実は君の脳みそ、イカれちゃってるんだよ」なんて言われるより、幽霊ですと言われた方がまだ素直に受け止めることができるというものだ。

 すると、どうやら私は思ったよりも冷静に目の前の不思議体験を捉えられているようだ。だんだんと心臓の鼓動も緩やかになっていく。

「それで? 非科学現象さんはどうして帰ってきてくれたの?」

 まさか幽霊になっても同棲するつもりだ、とは言うまい。まあ、それはそれで嫌ではないけれど、彼のことだ。そのつもりならもっと早くに帰ってきているだろう。

 思えば、そもそも昔同棲を切り出したのも彼だった。付き合ってからまだ日が浅い頃だったものの彼が誠実な人間であることは十分に分かっていたし、何よりデートの別れ際に見せる子犬のように寂しげな彼の瞳に、私は耐えることが出来なかった。二つ返事、とはいかないまでも結論を出すのにそう時間はかからなかった。

「あっちの世界へ旅立つ前の身辺整理、ってとこかな。やり残したことの解消。在庫処分セール」

「へー。死んだ時ってそういうことさせてもらえるものなんだ?」

「いや、僕の場合は特殊らしいよ。あっちの世界の常識的には」

「あっちの世界っていうのは霊界とかそういう?」

「そうそう。普通は死期が近づいている人の所には、あっちの世界から事前に通告が行くみたいなんだけどね。身辺整理しといてくださいよーって」

 ペラペラと饒舌に語る彼。真実味の無い話のはずなのに、疑いの気持ちは一向に立ち上がる気配を見せない。

「ただ、僕みたいに事故とか事件に巻き込まれて死んじゃう人の所には通告に来れないみたいなんだ」

「……どうして?」

「この世から事件とか事故が無くなってしまうから」

「良いことじゃない」

「そう? 誰もが完璧で誰にも迷惑をかけない世界なんて、欠陥品だと思うけど」

 私は思わず口を閉ざしてしまった。いつも通りの無邪気な声色のはずなのに、今の彼の言葉には何かゾッとする響きが感じられたからだ。これが、これが事故で命を失った者の発する言葉だと、いったい誰が思えようか。あの事故さえなければ幸せな暮らしが続いていたというのに……。

「まあとにかく。事故とかを回避されちゃうと色々困るらしいんだよ。歯車がかみ合わなくなるっていうかさ」

 彼は別段変わったところも見せず、話を続ける。

 私も今のことは深く考えすぎないようにしよう。そもそもあっちの世界のことなんて、こっちの世界の人間が軽々しく知るべきではないのだろう。そう思うことにしよう。

「いつまでこっちにいられるの?」

「そんなに長くはいられない……というかあと三十分くらいしかいられないんだ」

「え……」

「ほら、あれ、よく言うじゃん。死後七十五日? は魂がこの世に残ってるって」

「ん? 四十九日?」

「あー、それそれ」

 七十五日は人の噂だ。勝手に伸ばすでない。

「実際はあんなに猶予無いらしいよ、あれ。大抵は長くても一週間くらいであっちの世界での戸籍が出来上がるから、それまでの間しかこっちには残れないんだって」

「……じゃあもう少し早く会いに来てくれたっていいじゃない」

 つい、言葉が洩れてしまう。わがままだとはわかっていたが、私とて二か月以上他人の噂をべらべら喋る生物の端くれ。口に戸を立てるのは不可能というものだ。

 彼は困ったように頭を掻く。

「そうしたいのは山々だったんだけどね。職場とか両親の所にも顔を出したかったし、読みかけの漫画の結末が分からずじまいなのも嫌だったからさ。山岡と雄山の対決とかね。とにかく、色々やってたら遅くなっちゃった」

「何よ。私は漫画以下って言いたいわけ?」

「そういうことじゃないよ」

 拗ねた私の口調に、スッと冴えるような彼の声が重なる。彼の真剣な瞳が私を貫いていく。

「本当は一番最初に来たかった。残りの時間全てを君と共に過ごしたかった。でも……」

 彼は言葉を切る。

「でもだからこそ怖かった。君との別れがより苦しく辛いものになるのが目に見えていたから。君が引き留める声を振りほどくのがより大変なものになるって分かっていたから。その未来に進むのが怖かった」

 彼は深く頭を下げた。

「僕の臆病を、赦してくれ」

 ……嗚呼。私は愚かだ。

 赦すどころか、彼は私のためを想ってくれていたというのに。共に過ごす時間の長さが未来に受ける傷を深くすることを知っていて、私を運命の刃から遠ざけてくれていたというのに。

 彼は頭を上げ、再び真っすぐに私を見つめる。

「もう、あまり時間が無い。早く目的を果たしてしまわなきゃいけない」

「目的?」

「さっき言ったでしょ、身辺整理だって」

 そう言うと、彼は深く息を吸った。自然と、私も背筋が伸びる。

「あっちの世界に旅立つ前に、どうしても君に伝えなきゃいけないことがある」

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