第2話 誕生日にはメスシリンダーを
私は誕生日というものがあまり好きではない。
いや、より正確に表現するなら好きではなくなってしまった、と言うべきか。幼い頃は、無条件で他人にチヤホヤされ、好きなものを買い与えてもらえ、甘いケーキが夕食後のデザートに出てくるこの日が人並み程度に好きだった。なんなら毎日が誕生日になってくれれば良いのに、と願ったことも一度や二度ではない。
そんな素敵な日を嫌いだと感じるようになったのはいつからだろう。
別段、これといったきっかけがあったわけではないように思う。ただ、歳を取るにつれて徐々に苦手意識が増していったのは確かだ。それは三十路を目前にして、いわゆる結婚適齢期的な賞味期限が近づいて来るのを如実に感じていたからか、あるいは年齢というものが、日々の仕事に忙殺され社会の消耗品として人生が擦り切れてしまうまでのメーターのように感じられたからか。もしかしたらその両方かもしれないし、どちらもてんで的外れなのかもしれない。
けれど、明らかに焦燥のようなものが心を逆撫でする日のように思われたのだ。
だから、私は誕生日があまり好きではなくなってしまった。
うすぼんやりとした街灯の頼りない光の下、アパートの方へ角を曲がる。今日はせっかくの誕生日だというのに、お構いなしに残業は襲い掛かり、結局帰路に就くのは九時を回った頃になってしまった。辺りはすっかり暗く、並んだ住宅の窓からこぼれる明かりが無ければ、一人で歩くには心細いほどだ。
しばらく歩くと木造二階建てのアパートが見えてきた。まだ寝るには早い時間だが明かりが点いている部屋はまばらだ。当然私の部屋にも明かりは点いておらず、初夏の夜特有の夏に成りきれていない冷ややかさに一層拍車をかけている。
私が住んでいる1LDKの安アパートは幽霊が出ると近所の小学生の間で噂になっているらしい。実際に住んでいてそれらしきものを目撃したことはないので眉唾物であることは確かなのだが、アパートの外観を見ればそんな噂がたつのも不思議はないな、と思う。田舎特有の無駄に広い土地を活かして建てられたアパートのため家賃の割に間取りは抜群なのだが、いかんせん築年数が古すぎるので入居者が集まらないのだ。そのうえ建物の塗装が剥がれていたり、建付けの悪い窓が少しの風でもガタピシと嫌な音を立てるのを見れば、幽霊屋敷だと思われても仕方がないというものだ。
そんなバイブスの下がる家に帰るのは、あまり心の踊るものではない。それが残業帰りだったり、センチな気分に呑みこまれる誕生日の夜だったりしたら尚更だ。
実際去年の私は、この日の夜をネットカフェで明かした。こんな大人げない大人になれたら良いのに、と思いながら「美味しんぼ」を一気読みしたのはいい思い出だ。どうしてあの漫画の登場人物はあれほど自信に満ち溢れているのだろうか。自分の姿と照らし合わせると、何を間違ってしまったのかと泣きそうになる。
でも、今年の私は違う。今年はあの人がいる。
まだ仕事からは帰って来られない時間だけれど、今夜は同棲している彼が私を祝ってくれるだろう。今日はここ数年で最高の誕生日を過ごせるはずだ。彼と一緒にいると嫌なことなんて何も無いように思えるのだから。
アパートの外階段を二段飛ばしで駆け上る。錆がこびりついたステップがぐわいんぐわいんと、鈍くも楽しげな音を立てた。
ひび割れた雨どいの脇を通りながら二〇一号室の鍵を取り出す。数年前に流行ったゆるキャラのキーホルダーが付いた、あまり重みを感じない鍵だ。
最近はテレビなんかでも全然見なくなったが、このキャラクターは今何をしているのだろうか。死んでしまったわけでもなかろうに。
世の中から忘れられてしまうというのは死んでしまうのと同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に寂しいものなのかもしれない。木製のドアに鍵を挿し、建付けの悪さと悪戦苦闘しながら鍵を回しつつそんなことを思った。
ドアを開けるとその瞬間、パッとオレンジ色の照明が点った。続けざまに破裂音が玄関に響き、びらびらとしたカラフルな物体が頭に降りかかってくる。
「きゃっ!」
思わず悲鳴を上げ、目を瞑る。突然のことに事態が飲み込めない。
だが、目を瞑る前に一瞬だけ捉えた人影は実に見覚えのあるものだった。
「誕生日おめでとう――‼」
「あ、あなた‼」
目の前に立っていたのは、そこにいるはずのない、けれどいつだってそこにいて欲しいと私が願う、愛しいあの人だった。
ピエロのような帽子を被り、しなびた紙テープを吐き出すクラッカーを手にしている彼は、普段の真面目で温和な姿からはかけ離れていて、私にはそのギャップが可笑しかった。ドアを開けた時に一瞬だけ感じた恐怖は、流れ星のように瞬く間に過ぎ去っていた。
「あなたどうしたの? まだこの時間は仕事に行ってるはずでしょ?」
頭に乗った紙テープを取りながらそう問うと、ピエロ帽をかぶりながら奇妙な動きをしていた彼は、待っていましたとばかりにニコリと笑った。
「じゃっじゃ~ん‼ サプライズ大成功‼」
そう言ってはしゃぐ姿はまるで無邪気な少年のようだ。もう三十を優に超えているというのに、それを感じさせない幼さのようなものが彼にはある。私はそんなところもたまらなく好きなのだけど。
「はい! これ!」
と言いつつ、彼は後ろ手から一束の花束を取り出した。
「わー! 綺麗ー!」
赤、白、黄、橙。色とりどり大小さまざまな花が纏められたその一束は、パレードをしているかのようで目に賑やかだ。セロハンともビニールともつかない半透明のフィルムに包まれ、根元の方を可愛らしいリボンで止められたその束は、明らかに大切な人に贈るためのもの、という装いだった。
私はパンプスを脱ぎ家の中へ上がる。爪先までが解放され血の巡る感覚を覚える。
「ドア、ドア。閉め忘れてる」
言われて玄関の扉を開け放していたことに気づく。くるりとターンし、さっきまで履いていたパンプスを踏みつけ、足場のようにしてドアノブに手を伸ばした。
ノブを引きつつそのままの勢いで彼の方へ向き直る。肩まで伸ばした私の髪が慣性の法則で花束に触れ、その刹那、彼の手元の花々から甘く香しい風が漂った。
少し伸ばした彼の腕から花束を受け取る。軽くも重くも無い、独特の重量感だ。
花束を右手に持ち、そのまま彼の首元に抱きついた。がしりとしているのに優しい感じのする不思議な背中に腕を回す。
「ありがと。嬉しい」
彼の耳元で囁く。一語一語、一音一音、しっかりと伝わるように。
彼はいつものことで慣れているのか特に目立った反応はない。けれど、それでも私の背中に腕を回しぎゅうと抱きしめてくれた。優しい腕が心に沁みていく。
「君は抱き癖があるね」と、いつか彼が私に言ったことがある。私としてはそれほど過度なスキンシップをしていたつもりは無いのだけど、どうやら自分は彼にベタベタと触ってしまう傾向が有るらしかった。試しにある一日のスキンシップの回数を数えてみたらとんでもない数になってしまっていたのは今でも記憶に新しい。それ以来、自重しようとは常々思っているのだけどこれがなかなか難しい。彼が「求められるのは嬉しいことだよ」と言ってくれているのがせめてもの救いだ。
ま。でも私今日誕生日だし。少しくらい我儘でも罰は当たらないでしょ。
そんなことを思いつつ、いつもより心持ち長めに抱きしめあってから、私は腕を解いた。
「さ、中に入ろうか」
「うん」
彼に促されリビングに続く板張りの廊下を進む。その間、私は改めて花束をよく見ることにした。
だがしかし、私はあまり花には詳しくない。結局、薔薇とチューリップを見分けた辺りで、私は花の種類を当てるのを諦めた。とりあえず綺麗でいい匂いがしていれば、それでいいじゃないか。
なるほどそう考えると美人を花に例えるというのは的確な表現なのかもしれない。とりあえず綺麗でいい匂いがしていれば、それでいい。
そんな益体もないことを思いつつリビングに足を踏み入れた時、花束の端の方にいた真っ赤な花に目が留まった。ちょうど、神社にある白い紙がついた棒(大幣、と言うのだったか)のように茎から花弁が広がっている花だ。
私はその、蝋燭に灯った炎のような姿に見覚えがあった。小学生の頃に学校の花壇に植えられていたはずなのだけど、名前は何といったか。……だめだ。思い出せそうもない。
「ねえあなた」
「ん?」
リビングの照明をつけながら振り向く彼。
「この花って何ていう名前だったっけ? 子供の頃に良く見ていた気がするんだけど、名前がどうしても思い出せなくって」
「あれだよ、あれ。サルビアだよ」
「あー‼ そうだ! サルビアだ!」
そうだそうだ。サルビアだ。
私はその名前を聞いてようやく、小学校の周りに生えていたこの花の蜜を友達皆で根こそぎ吸っていたことを思い出した。子供にとってあの自然な甘さは最高のおやつだったのだ。何より無料だったし。「サルビアを飲んでるし、ここ文字通り庭だし、実質ビアガーデン」という名言を生んだ五ノ井さん。今は元気にしているだろうか。
「しかしあなた、よく覚えてたわね」
「あー、実はその名前今日聞いたばっかりなんだよね」
「へ? どういうこと?」
「いやそれがね、花屋さんにその花束を買いに行ったら『どなたにプレゼントなさるんですか?』って聞かれて。店員さんに」
「ふんふん」
「『同棲している彼女にです』って答えたら、店員さんが楽しそうに『じゃあサルビアの花、おまけしておきますね』って」
「ん? じゃあサルビアは最初から花束に入っていたわけでは無かったってこと?」
彼はこくりと頷く。
「というより『じゃあサルビアの花、おまけしておきますね』の『じゃあ』って何? 同棲している彼女とサルビアの間に何の繋がりがあるのよ」
同棲生活的な、夜の営み的な、そういった意味での甘い蜜とかそういうことですかそうなんですか。……卑猥だ。
「僕もそう思ってさ」
……そう思ったの?
「店員さんに訊いてみたんだ。なんでサルビアなんですか、って」
ああ、そっちか。
「そしたらどうやら花言葉が素敵だからってことらしいんだよね」
「花言葉」
「そう。花言葉。なんかね、『家族愛』とか『良い家庭』とかそういう意味を持ってるらしいよ」
「家族愛……」
まだ同棲しているだけだし、私と彼は正式な家族というわけではないんだけど。サルビアの花が意味する家族とは血縁関係的なものではなく、文字通り「家」を共有するもの的な意味での家族なのだろうか。それなら、まあ、家族か。
なんとなく腑に落ちない感じがするが、とりあえずその店員さんには感謝しておこう。この花の香りや見た目は割と好きだし、思い出も蘇らせてもらったし。さすがにこの歳になって蜜を吸ったりはしないけどね。
「花瓶なんてあったかなー」
花束をダイニングテーブルの上に置き、上着を脱ぎつつ私は呟いた。
「生けておくの?」
「だってすぐに枯れちゃったら悲しいし」
「それならコップで十分だよ。適当に持ってくるからちょっと待ってて」
そう言って彼はキッチンの方に歩いていった。
その時になってようやく、私は気がついた。部屋中が折り紙の繋ぎ輪で飾り付けられていることに。
「ねえねえ、あれもあなたがやってくれたの?」
「折り紙? うん、そうだよ。だって他に誰がいるのさ」
キッチンの戸棚をガサゴソとやりつつケラケラと笑う彼。そのキッチンの方も含め、部屋の上方にぐるりと一周折り紙の輪が張り巡らされていた。
薄緑色のカーテン、ちょっと背の低いテレビ台、あまり中身の入っていない本棚。普段から見慣れているはずの二人の部屋の景色が、まるで学芸会のような雰囲気に変わっていた。所々がテープで壁に止められ、ギリシア文字のオメガのように弧を描く色紙の輪は多少幼稚な印象を与えるけれど、彼が少年のような瞳でこれを作っている姿が容易に想像されて。私にはそれがたまらなく愛おしかった。
「はいこれ花瓶代わりに。細いし深さもあるしちょうどいいんじゃないかな」
そう言って彼が取り出したのは、
「メ、メスシリンダー?」
な、なぜこんなものが我が家のキッチンに?
「学生の時に研究室から間違って持って帰って来ちゃったんだよね、それ。捨てるに捨てられなくてさ」
ゴポポポと音を立てて水道からメスシリンダーに水を注ぎつつ、彼は悪戯っぽくそう言った。……だとしてもキッチンの棚に入れないでくださいよ。間違ってジュースとか注いじゃったらどうするつもりよ。
そんなことを思いつつ、私は花束を解く。サルビアの花が真ん中に来るように並べ替えてから、私は花束をメスシリンダーに生けた。
「あ、あとこれも」
そう言いつつ彼が冷蔵庫から取り出したのは白い箱。箱に描かれたロゴと独特な持ち手の形状を見るに、どうやら中身はケーキのようだ。
「じゃっじゃ~ん‼ 誕生日ケーキで~す!」
そう言ってニコニコと笑う彼に、私も思わず笑みをこぼしてしまう。
(予想はしていたけど、今日も盛りだくさんだったな……)
私は心中でそう呟いた。
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