リング・リンク・サプライズ
おぎおぎそ
第1話 二つの結婚指輪
皿に乗せたスポンジから、ふわりと甘い香りが漂ってきた。あとはクリームを塗ってイチゴをトッピングすれば、あの人の大好きなショートケーキの出来上がりだ。
「ねえママー」
結婚記念日、というものはどこか特別な感じがする。結婚するまでは何の変哲もない普通の一日だったはずなのに。それが瞬く間に一年でもっとも大切な一日に変わるのだから、なんだか不思議だ。
とはいえ、それだって所詮は内輪ノリみたいなものだ。自分達以外の人間にとっては、仕事が休みになるわけでもなく野菜が半額になるわけでもない普通の一日なわけだし。身も蓋も無く言ってしまえば、一組の男女が勝手にワキャワキャやってるだけの日なのだ。
でも。
それでもやっぱり私はこの日が好きだ。初めて夫婦を名乗った日からもう四年が経つが、今でもその結びつきをしっかりと保てているという単純な事実に、どうしようもない幸福を感じてしまうから。
「ねえーマーマー」
薄緑色のカーテン、ちょっと背の低いテレビ台、あまり中身の入っていない本棚、食卓に飾られたサルビアの花。この部屋で私たちと同じ時間を過ごしてきた品々だ。何の気なしに眺めているだけで、二人で過ごした日々が鮮明に蘇ってくる。思い返してみれば、この隙間風の吹く1LDKの安アパートは幸せそのもののように温かかった。
「ママってばー!」
キッチンのカウンター越しに、背の低い娘がピョンピョンと飛び跳ねながらしきりに私を呼んでいた。
「え? あーどうしたの?
「どうしたの、じゃないよ! ママったらボーっとしちゃって。もうパパかえってきちゃうよ⁉」
言われて時計を見る。
「え、嘘! もうこんな時間⁉」
「ママさっきから全然手が動いてなかったよ。いつも瑠花がお片付けする時は、手を動かしなさいって言ってくるくせに」
「うぐふっ……」
最近おしゃべりが得意になってきた四歳児にクリティカルを決められてしまった。
我が娘の瑠花は、どこで習ってきたのか、まだ幼いのに憎まれ口もお手の物である。他の家の子もこれぐらいは普通なのだろうか。不安だ。将来小言の多い姑とかにならないだろうか。かなり不安だ。
しかし、手元を見ると四歳児のお姑さんの指摘はピタリと的を射ていた。小さめの紙パックに入った液状のホイップクリームは、ボウルに注がれたそのままの状態を保っていた。右手に持ったハンドミキサーは全く仕事をしておらず、左手に至ってはもはや何のためにボウルを押さえていたのかわかったものではない。
「ねえママー」
急いでクリームを作らねばとハンドミキサーのスイッチを入れた私に、再び瑠花からのカウンター越しの声が飛んできた。
「ん~?」
ビチビチビチビチと跳ね返ってくるクリームと格闘する私を、カウンターに身を乗り出しながら瑠花は興味深そうに眺めていた。
「ママはどうしておなじ指に二つも指輪をつけてるの?」
私の左手、薬指のあたりを指さしながら、瑠花は首を傾げる。
ああ。ついに来たか。この質問が。
まあいつかは尋ねられると分かっていたことだし、いつかは話さないといけないことだし。
私は点けたばかりのミキサーのスイッチを切り、左手に輝く二つの結婚指輪を掲げた。
「それはね、瑠花。瑠花が生まれる前の話なんだけど……」
今日は結婚記念日だし、ちょっとは話してあげても良いかな。
私は僅かの間目をつむり、過去に想いを馳せる。
テーブルの上のサルビアの花が、少し揺れた。
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