夏の日・18
夢を見ると、いつもあの日から始まる――
*
ある日、乳母が死んでしまった。
閉じ込められていた自分は、乳母の葬儀に参加できず、それが悲しかった。
乳母の後任が決まらず、しばらく本当に白い部屋で独りになってしまった。
墓前に立ったとしても、乳母が生き返るわけでも、何が変わるわけでもない。むしろ、他の大人たちから叱りを受ける。分かっているのに、どうしても行きたかった。
墓所への道は大人たちの会話を盗み聞きして知っていた。
閉まった村の門を飛び越え、小高い丘をひた走る。
裸足に小石が刺さり、痛みに足を止めて空を仰ぐと、大くて丸い黄色い月が昇っていた。
再び走り出そうと視線を落とすと、”それ”があった。
月がそのまま地上に降りてきたような、だけど影の様に真っ黒な球体。
背筋に怖気が走った。アレが何かは分からないけれど、触れてはいけないものだと直感が叫んでいた。
逃げなければ――と踵を返す前に、黒い球体は物凄い速さで私に迫り、全身を飲み込まれる。そして目を一度、二度瞬いたら見知らぬ土地に居た。
森の中だった。針葉樹が沢山生えていて、青臭い土の匂いが鼻をつく。
手探りで帰路を探っているうちに、粗野な言動の男たちに腕を掴まれる。私の頭頂部から生えている耳に興味を持っている様だった。
戸惑っていると、男の一人がなにごとかを唱え、自分は意識を失った。気づけば堅牢な檻の中に閉じ込められていた。
「奇形か? それとも
「関係ねえ。まだガキだが、恐ろしく綺麗な顔をしてやがる。こういうのを集めてる好き物にはツテがあるんだ」
男たちの会話から、これから私がどうなるかなど、想像に難くなかった。
その時、絶望したのだろうか。分からない。肩から腕を流れる血が冷たく、痺れる様な感覚が首筋まで登ってきた事は覚えている。
それまでの事は、それしか覚えていない。何故なら次の瞬間、見惚れる様な出来事が起きて、全てそれにかき消されてしまったから。
「警告するわ。武器を捨て、手を頭の後ろで組みなさい。抵抗するなら斬るわ」
凛とした女性の声が響いた。
「貴方達、この辺りで暴れている傭兵ね。冒険者ギルドから手配書が出ているわ。誘拐、人身売買、婦女暴行、殺人……よくもまあ、ここまで悪事を働けたものね」
白金色の髪と、
突然の闖入者に男たちは色めき立ったが、女の美貌を見て、その貌はいやらしい笑みに変わる。
男の一人が、私を捕らえた時の様に闇魔法を唱えた。黒い霧が女に向かうも、白く輝く外套に触れた途端に魔法は霧散した。
「下衆め」
それを開戦の合図に、女は男たちに躍りかかった。
一瞬の出来事だった。私がひとつ、ふたつと目を瞬かせると、その度に男たちが血を噴いて地に伏していく。
舞うようだった。廻り、跳び、走り――薄暗い洞窟内に、白い花が咲いたようで、私はそれを、とても美しいと感じた。
*
助け出されてから、私は女の所属する冒険者団に引き取られた。"団"というものの、団員は総勢二名だったが。
団長である男は、私を親許に帰すと言った。私が居た邑の名前を言っても、女は首を傾げた。
「ええと……どの辺りかしら?」
女が地図を差し出して来たが、私が乳母から習った"世界の地図"とはまったく違っていた。
それに、この人たちは頭から耳も生えていないし、体のどこかに宝石が埋まっている。私とは、まったく違う。まるで異なる世界に来てしまったようで、私は黙り込むしかなかった。
*
数か月が経った。
結局、私は冒険者団について世界を回った。
旅は滞りなく、しかし私が元の場所に帰る手立ては一向に掴めなかった。
ある日、男が言った。
『お前さんさ、その
女が眉間に皺を寄せ、男の頭を叩く。
『なんてこと言うのよ、バカ。でもそうね、せっかくの美人さんなんだから、笑えたら素敵だと思うわ』
その時、私は『笑うにはどうしたらいいのですか』と聞いた。男女が自然に浮かべている笑顔の作り方が、本当に分からなかった。
『笑い方なあ⋯⋯こうして指で口角を吊り上げてっと⋯⋯うわ固っ! こいつの表情筋、固っ!』
無遠慮に私の頬をこねくり回す男。その手を、女が止める。
『やめなさい、形の問題じゃないでしょ。そうね⋯⋯例えばだけど、同年代の友達と話せば、感情豊かになるんじゃないかしら?』
『同年代の、ともだち⋯⋯⋯⋯』
それは"未知"だった。
生まれてこの方、接する人間は乳母のみ。『姫』としての教育だけをされてきた私にとって、年代の友人を作るなど、考えたことすら無かった。
『あのなあ、根無草のオレらがどうやって友達作るって?』
『そんなもの、立ち寄った村とかで作れば良いじゃない』
『はぁ⋯⋯そんで旅立つ時には、バイバイまた会えたらいいねーってか? そんなのちょっとカワイソーだろが』
『それはそうだけど⋯⋯』
夫婦喧嘩のように言い合う二人を眺めながら、私は女の袖を引く。
『どうしたの?』
『わたしが笑ったら、素敵なのですか』
『ええ、そうね。そう思うわ』
『嬉しいのですか』
女の顔をじっと見て問うと、女は難しい顔をして首を傾げた。
『……私が? うーん、ちょっと違うわ。嬉しいのはゼラ、あなたよ。嬉しいから笑うの』
『よく……わかりません』
女は「あー」とか「うー」と唸り、答えに窮してしまった。
男がやれやれと肩を竦めて、私の頭に手を置く。
『オレらの為じゃなくて、お前さんの為に笑うんだよ』
『笑うことが私のためになるのですか』
『ああそうさ。お前さんは美人だからなー。笑えば、もっと魅力的になれるぜ。それに笑顔は友好の証しだ。お前さんほどの美人さんがニッコリ笑えば、友達になりたいってヤツがわんさか寄ってくるぜ』
友好の証し――それも、"未知"だ。
乳母からは『周りは全て敵と思え』『信用すべきは己のみ』が絶対の理として教え込まれていた。
『⋯⋯⋯⋯⋯⋯』
良いのだろうか。わからない。ひとまず良しとしよう。
だけど、引っかかることがあった。
『ゼラ、どうしたの?』
『"笑うと友達ができる”と言いました』
男を指さし、次いで女を指さす。
『でも"笑うために友達を作る"とも。どうすればいいのですか。どっちが先なのですか』
私の指摘に、女は再び「あーうー」と唸った。
『……まあ、アレだ。世界は広い、お前みたいに不愛想なヤツでも、好きになってくれるヤツがいるだろ。そっから笑えるようになりゃいいさ』
男はそう言い、被っていた帽子を私の頭に載せる。
『現にオレらは、お前さんのこと結構気に入ってるぜ』
*
――夢の終わりは、いつもこの日だ。
自分が笑うのは素敵な事らしい。なら、やってみようと思った。
笑えるようになったら、あの人たちに見てもらいたかった。
それはもう、叶わない願いだ。
***
ゼラは『アリマ』の屋敷に運ばれ、外傷の治療と魔法薬の投与がなされた。
その際、『アリマ』専属であるという医者が治療に当たったが、猫耳を見ても驚いた様子を見せなかった。
それからゼラは眠り続け、数日経った今も目を覚まさない。
俺は『アリマ』の屋敷に泊まり込み、ゼラを看病した。
数日のうちに起こったことと言えば――
『アクアリムス』の公演は、主演女優が
閑話休題。俺は今回の件についてフリデリカさんに呼び出され、彼女の部屋を訪れていた。
「入ります」
ドアをノックし、開く。相変わらず葉巻とアルコールの匂いが充満した、呼吸するだけで中毒になりそうな部屋だ。
「来たか。座れ」
促され、ソファに腰を下ろす。
フリデリカさんは頷き、葉巻に火をつけ、煙と共に労いの言葉を吐き出す。
「まず、今回の件はご苦労だったな。偶然の会敵とはいえ、騒動を解決してくれた。約束通り褒美をやろう」
フリデリカさんが、こちらに何かを投げて寄越す。
掴み、見ると、それは金属製のカードだった。表面には三本の剣が『*』の字に交差している印章が彫られている。
「これは?」
「
「えーと……?」
いまいち理解していない俺に苛ついたのか、フリデリカさんは舌打ちする。
「お前を強くする、という報酬だ。マヌケめ。冒険者ギルドで手に負えない案件が『アリマ』に回って来るというのは知っているな。それをお前に任せてやる。勿論報酬も出そう」
「はあ、つまり『難易度の高い依頼をこなして強くなれ』という事ですか」
「端的に言えばそういう事だ。お前に足りないのは修羅場を潜り抜けた経験だ。何度も死ぬような目に遭って、もしくは何度も死んで、死地を脱する為の術を身に付けろ」
俺とカシムさんは"剣術"の修行の為に、フリデリカさんを訪ねた。
しかしこれでは剣術ではなく、冒険者としての修行になるのではないか。
この
「わかりました、やります」
「よかろう。それと、これを渡しておく」
更に何かを投げ渡される。金属製の鍵だった。
「これは……?」
「お前の
俺の実家とは、
果たして、今もあの屋敷は存在しているのだろうか。廃墟となったウォート村は、その後どうなってしまっているのか。
「これが……こんなものが? というか、なんで貴女が家の鍵を……」
「クリスから預かっていた」
「父さんから……俺の生家に、何があるんですか?」
「行けば分かる。これ以上は、私には話す
この鍵を持ってウォート村に行けば、確実にアンジェリカの居場所が掴めると言うのなら、是非行きたい。だが確証がない。
それに東大陸にまだ居るらしい『使徒』の事も気がかりだ。
俺が旅立てば追って来るかもしれないが、セナの様に俺の周りの人間を襲う計画を立てるかもしれない。
可能性を考え出したらキリがない。
俺は鍵を握り締め、ポケットにしまった。ひとまずは保留だ。
「⋯⋯⋯ありがとうございました」
「フン、儘にならぬが浮世の常よな。まあ好きにしろ」
報酬を受け取った俺は、その場を後にした。
その夜、ゼラが目を覚ました。
***
夜の海岸沿いの道を歩く――ゼラを背負って。
本人から『外の空気を吸いたい』との要望があり、しかししばらく寝たきりだった為かすぐには歩けず、やむを得ずこうなった。
そして煙臭い『アリマ』の屋敷を抜け出し、散歩に連れ出していた。
「⋯⋯⋯⋯」
俺の顔の横から腕が伸び、指先が砂浜を指差した。
「行きたいのか? ……痛っ」
頷いたのだろう、俺の後頭部に頭突きが当たった。
「ここでいいか?」
「はい」
波打ち際まで来て、ゼラを砂浜に座らせる。
隣に腰を下ろすと、ゼラは俺の肩に頭を置き、ぼそりと呟いた。
「まずお礼を。たすけてくれてありがとうございます」
「⋯⋯頭、大丈夫か?」
あまりに素直で、後遺症による錯乱を疑ってしまった。
思えば、こいつから感謝の言葉を貰ったことなど、片手の指で数えられるほどしかない気がする。
「まあ、今回みたいな危ない事は二度とするなよ。故郷に帰るんだろ」
非難に聞こえないよう、なるべく優しい声色を作って言うと、ゼラが俺の袖を引いた。
「それについて、聞いてほしいことがあります」
「なんだ?」
「まず、私がここに至るまでの話です」
少し驚く。ゼラが自分の過去の話をするなんて、と。
今までゼラは語らなかったし、俺からもあまり強く聞いた事はなかった。それが今になって、どんな心境の変化だろう。
「まあ、うん。ゼラが話したいのなら、聞くよ」
ゼラは頷き、語り始めた。
「私は、銀猫という一族の邑で生まれました――――」
ぽつりぽつりと語られた内容をまとめると、こんな感じだ。
乳母が死に、墓参りに行く途中で黒い球体に飲み込まれ、ウイングたちに拾われた。何年か旅を続け、俺とパティと出会い、今に至る――と。
長話を語り終えたゼラは、俺のポケットに手を突っ込んで飴を取り出し、口に入れ、カロカロと頬張った。
「えーと⋯⋯じゃあ故郷に帰りたいのって、乳母さんの墓参りをしたいから、なのか?」
「そうかもしれません」
「そっか。なら、ちゃんと生きて帰らなきゃな。⋯⋯それで」
そう、ゼラは故郷への帰還についての話をする前提として、自分の身の上を語った。帰りたい動機は十分伝わったが、それだけなのだろうか。
それに、気になる事もある。
「その、黒い玉って⋯⋯なんだ?」
「私が聞きたいくらいです」
「まあ、それはそうか。でも、離れた場所から転移するなんて⋯⋯"転移"?」
そう言えば、そんな魔法について纏めた
「もしかして『失われし転移魔法』ってやつなのか?」
「以前小屋にあったやつですか」
「ああ、そうだ。眉唾物と思っていたが、まさか⋯⋯うーん⋯⋯」
六大魔法の中には、移動速度を早める魔法はあれど、転移魔法なんてものはない。回復魔法と言い、ファンタジーお約束の便利魔法が無いのはどうなんだろうか。
さておき、あの
「そうだ、お前の家ってどこにあるんだ?」
今まで、詳しく聞いた事は無かった。
俺は砂浜に、東西南北の大陸図を描いて見せる。
「⋯⋯⋯⋯」
ゼラの人差し指が伸び、宙をさまよい、しかし、どこも指さなかった。
「――ないです」
「⋯⋯は?」
「この中には、私の故郷はないのです。ウイングとウェンディに連れられて世界中を旅をしていた時でも、私の住んでいた『ワストヘイム』はありませんでした」
少し高い波が大陸に押し寄せ、砂浜に描いた地図を消していく。
「……どういうことだ?」
『ワストヘイム』。それがゼラの故郷の名前。
しかし、無いとはどういう事だ。確かにそんな地名は聞いた事がないが……。
「それに、乳母から教えられた世界地図と、
「それって……」
考えられることがひとつ。
市販の地図は、北大陸の上半分が黒く塗り潰されている。
そこは人が未だ到らぬ未開の地であるらしいが、恐らくその先こそが――ゼラの故郷に繋がっている。
⋯⋯と仮定して、だ。
じゃあゼラを始めとした『半獣人』は、"北の先"から『黒い玉』によって転移させられた人々なのだろうか。
獣が混じった姿も、悪魔の使徒になったことによる変化ではなく、元々そういう種族であると。
もしこの仮説が当たっていたとして、『故郷に帰る手助けをする』なんて、かなりムチャな約束をしてしまったものだ。
「うーん……」
「シャーフ」
「……ん」
どうするかと思案していると、ゼラは海の先を眺めたまま黙りこくった。その横顔は、やっぱり無表情だったが、なんとなくだが何が言いたいか分かる。
「……心配するな。お前が故郷に帰る為に、俺も出来る限りの事はするよ。約束だからな」
俺がそう言うと、ゼラは海に向けていた視線を、上に向けた。
つられて視線を上げる。月が銀色に輝いていた。
「あてもない話です。それでも、手伝ってくれるのですか」
「ああ。どれだけ長い付き合いになるかは分からないが、覚悟するとしよう」
「なんですか"覚悟"とは。私と一緒にいられて嬉しいでしょう」
「あーはいはい、そうだな⋯⋯」
会話が切れ、しばらく無言の時間が流れる。
次に口を開いたのはゼラだった。
「死にかけていた時、不思議な夢を見ていた気がします。ですが内容が思い出せないのです」
「ふーん⋯⋯臨死体験ってヤツか? あんまり気にするなよ」
「気になります。何度も思い出そうとしているのですが、そのたびに……」
ゼラは胸に手を当て、俺を見た。
「胸がこう、なんというかこう……なんの夢だったのでしょう」
「いや、俺に聞くなよ……いまの情報だけで分かってたまるか」
「こういうとき、言語化するのがシャーフのやくめです」
「そんな役目を請け負った覚えはない。……けど、悪い感情じゃないんだろ?」
ゼラは頷く。
情報が断片的どころか粉末状すぎて、推察する事などできないが、おそらく悪い夢じゃなかったのだろう。
「ならいいじゃないか。多分、おいしいものに囲まれてる夢でも見たんだろ」
「私はそこまで食いしん坊ではありません。そういえばお腹がすきました」
「おお……一言で覆したな。じゃあ、そろそろ帰るか」
再びゼラをおぶり、月に背を向けて歩き出す。
こうして夏の日は終わった。バカンスなど微塵も楽しめなかったが、収穫はあった。
***
それから俺は地獄のような修行の日々を送る事になる。
そして、後になって知った話だが、俺が修行に明け暮れている間、与り知らぬ時間、場所で、様々な事が起こっていた。
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