夏の日・15


 ***



 町外れの海岸。街灯も届かず、月明かりだけが辺りを照らしている。

 波が当たる音が辺りに響く。高く飛び出た岩礁の天辺まで飛沫が届き、その上に立つセナは素足が濡れるのも気にせずに月を眺めた。


「月とは不思議なものね。満ちては欠け、消えては現れ、追えど逃げども、絶対に届かない――この歌は月を、恋になぞらえているそうよ」


 そう言い、一拍置いてから歌声を紡ぎだす。

 美しい歌声は波音に掻き消される事なく、潮風に乗り、観客の耳へと届けられる。


「お姫様。あなたにとって、彼は月なのかしら?」


 歌姫から少し離れた先。波が押し寄せる砂浜に立つは、銀髪の少女。その両手には二振りの剣。


「そんなわけ、ないでしょう」


 少女――ゼラは無機質に返す。


「ふふ⋯⋯なら、なんで言われた通りにしなかったのかしら?」

「言われた通りにしましたとも。シャーフの一番大切なヒトを連れてきました」


 紅い瞳が月明かりの下で光る。


「それはつまり私です」

「ふうん、そう」


 挑発とも取れる発言だが、セナは困った様な微笑を浮かべるだけだった。


「あら? でもそうすると、結局あなたは彼のことを想っているのではなくて? ひとりでここに来たのがその証拠でしょう」

「ほう、私がひとりだと思いましたか」


 ゼラの視線が逸れ、セナの背後に向けられる。それに釣られたセナは、僅かに後方に意識を向けた――瞬間、ゼラの短剣から放たれた風が襲い掛かった。


「あら」


 不可視の速攻かぜはしかし、セナが突き出した手によって受け止められた。暴れ狂う空気の塊はセナの指に触れた瞬間に勢いを弱め、髪を揺らすだけに留まる。セナは不安定な足場に立っているにも関わらず、その身は微動だにしない。


「卑怯な子ね。それに何か勘違いしていないかしら? 人間の魔法なんかで、私たちに傷を負わせられるとでも?」


 しかし、語りかけるセナの視界から、ゼラの姿は消えていた。夜の帳、そして波音と潮風に紛れ、気配も消え失せている。


「闇に乗じてやる気かしら⋯⋯愚かね」


 セナは岩礁から飛び降りる。同時に飛来した短剣を手で叩き落とす。

 此方の僅かな隙を見逃さず、急所に向けられた投擲。飛来した方向にはゼラの姿は無く、少女の姿は闇に消えたまま。


「出ていらっしゃい。私も暇じゃないのよ。明日には公演があるし、今日はすっきりした気持ちで、ぐっすりと眠りたいのよ」


 困った様に整った眉を潜めながら、セナは頬に手を当てて溜息を吐く。

 変化が起こった。女の頭頂部から灰色の耳が突き出す。鼻口が隆起し、溜息を吐いた口からは大きな牙が覗く。頭部全体を、彼女のものと同じ銀褐色の体毛が覆い――狼頭へと変じた。


「あまり騒ぎを起こしたくはなかったのだけど、仕方ないわ。あなたを殺してから、あの少年の元に向かいましょう。まだ手はあるもの」


 牙の隙間から漏れた声は、歌姫の美声そのままだった。しかし、月明かりの下で異形と化した身体から放たれるのは、純然たる殺意だった。



 ***



 白く広い、殺風景な部屋。

 中央に置かれた簡素な造りの椅子に座るゼラは無垢な瞳で、隣に立つ乳母を見上げていた。


『――よいですかゼラトリクス。西の沼地の幻狼とは関わってはなりません。奴等は人をさらい、臓物や、苦痛の叫びすらも喰らい、糧とするおぞましい生き物です』


 乳母から伝えられた、幻狼の所業。それはまだ幼く、表情を無くす前のゼラの心に恐怖となって染み付いた。

 ゼラはその年老いた乳母の事を特別好いていたわけではなかった。

 しかし、独房にも似た白い部屋の中で、『姫』として育てられる中で、ただ一人言葉を交わせる存在でもあった。


 そして人の形をした怪物と教えられた幻狼は、ある日ゼラのむらにも被害を及ぼした。

 ゼラに幻狼の事を語って聞かせた乳母が、翌日隣町まで買い物に出掛けた。往復で一日程度の距離のはずがいつまで経っても戻らず、数週間後にその『残骸』が邑の入り口に届けられたのだ。


 部屋の窓から見下ろす邑が騒めいている。ゼラは少しだけ窓を開け、小さな耳を澄ませる。大人達の苛立ったような、恐怖したような声色を聞いてしまい、心臓を握り潰されたような感覚に陥った。

 かつて乳母だったものが、いかに凄惨な仕打ちを受けたのかが聞こえてしまった。添えられた手紙の内容も――


『壊れてしまったのでお返しします。次はもう少し頑丈なのをいただきたく存じます』



 奴等は深い沼の底に人間性を置いて生まれる。この世における、生まれながらの異端。そう教え込まれ、そしてそれは間違っていなかった。

 闇に紛れ、音もなくかいなを這い寄らせ、幻の様に姿を眩まし、残虐の痕跡だけを残していく。

 子供を戒める寓話にも似た悪夢の様な話。しかし真実。それが幻狼族やつら


「すぅ――――」


 遠い過去の記憶を想起していた。


 岩陰に身を潜めながら、ゼラは静かに、深く息を吸い、波音に紛れさせて吐く。表情を凍りつかせているものの、少女の心には紛れもない恐怖がこびりついていた。身近な人間を二度も奪われた事への恐怖が。

 それでも、自分を恐怖へと向かわせる感情ものは、一体何なのか。


 その感情の名を答えられるほど、ゼラはまだ多くを知らない。幼い頃から多くを封じられていたからだ。

 生まれながらにして、一族の『姫』という称号を与えられた。それと引き換えに、感情を表に出す自由を奪われた。その呪縛は故郷を離れた今も深く根付いている。


「っ!」


 ゼラは短剣を構えて岩陰から飛び出した。

 少なくとも、思い浮かべる二人の笑顔には、恐怖と対面するだけの価値がある。その想いを推進力ちからに変え、ゼラは標的の背に向けて疾走する。

 砂浜を蹴る足音は無音。潮風に紛れて匂いを消す。

『姫』として教育を施された。その全ての技術を用いて気配を消し、標的の心臓に向けて、ただただ疾く。



 ――――殺った



 そう確信した瞬間、狼頭が振り返り、その口を大きく開けた。


「甘い香り。いい香油を使っているのね」


 気づかれた。

 それはパティから貰った香油の匂いを、セナの嗅覚が鋭く嗅ぎ分けた事による失敗だった。皮肉にも、守ろうとした者からの贈り物が、自身の枷となってしまった。ゼラはそれを知る由もない。

 咄嗟に回避しようと身を捻るも、セナの口が大きく開かれた。


 ゼラには何が起こったか理解できなかった。

 それほど一瞬の隙に、文字通り、音速で起きた出来事だった。


「…………っ!!」


 開かれた口から放たれたのは『声』だった。空中のゼラに向けて発射された音波は、特に敏感な聴覚器官にダメージを与え、平衡感覚を喪失させる。ゼラは着地もおぼつかず、しばらく砂浜の上を転げて滑り、うつ伏せの状態で止まった。


「驚いた? こんな事もできるのよ」


 セナの嘲る様な声が頭上から響くが、ゼラの鼓膜は既に破壊されていた。耳孔と鼻腔から生温かい液体が漏れ、目は大きく見開かれ、体は小刻みに痙攣を起こす。朦朧とする意識の中で、これ以上の戦闘は不能だと、逃げなければ死ぬと、警鐘が鳴り響いていた。


「その気になれば、物体や生体を破壊することもできるけど……ああ、聴こえていないわね」

「は……ふ、ぅっ……」

「ふふ、これを人にぶつけるのは久々だけど、誰もが顔中の穴から血を噴いて即死したわ。やっぱりあなたはこっちの人間と比べて随分と丈夫ね」


 ゼラは荒い息を吐きながら這いずり、取り落とした短剣に右手を伸ばす。

 その手を、セナの足が容赦のない力を込めて踏み抜いた。ゆっくりと足を上げると、ゼラの右手の指はあらぬ方角を向いていた。

 セナは満足げに息を吐き、ゼラの腹の下に足を差し込み、蹴り上げて仰向けにする。


「か、はっ…………」

「力の差を見誤ったわね、お姫様。あのお方から授かった『力』がある限り、私は誰にも負けはしないわ。それじゃあ、死んで頂戴?」


 ゼラの耳にその言葉は届いていなかったが、これから逃れられぬ死が訪れる事は分かった。ゼラは目を閉じる。その瞼から、血に混じって一筋の雫が頬を伝った。


 守りたかった。しかしそれも果たせそうにない。自分の死を知ったら、二人はどんな顔をするだろうか――……


 多分、パティはわんわんと泣くだろう。あの子は普通の女の子だから。だからこそ、そばにいたかった。


 そして、シャーフは泣くだろうか。自分の死に憤ってくれるだろうか。

 考えてみれば、彼の笑顔を見たのはほんの少しだけだった。


 ほんの少ししか見ていないのに、ここで終わってしまうなんて――……


「…………ぃ、ゃ」


 ゼラの唇が弱弱しく動き、掠れた声を絞り出す。


「ふうん?」

「いや、です……死にたく、ないです」

「晩節を汚すものではないわ。矜持を抱いて逝きなさい」


 セナの口が大きく開き、鋭利な牙が迫る。頭を噛み砕かれるのか、それとも間近で『声』を撃たれるのか。

 どちらにせよ逃れられぬ死が近づき、ゼラは――生まれて初めて、声を涙で濡らしながら、名を呼んだ。


「たす、けて……シャーフ」


 何も聞こえないはずなのに。


「ゼラ――――!」


 少年の声が、聞こえた気がした。

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