夏の日・12
***
「じゃあね、ゼラちゃん! シャーフに言っておいてねー!」
「分かっていますとも。それではまた」
辺りを夕闇が包む頃。顔を煤だらけにしたパティに見送られ、ゼラは小さく手を振り、踵を返す。
「おや、ゼラ君。夕食を食べて行かなくていいのかい?」
パティの背後から、これまた煤だらけの顔を出したマリア・ヴィスコンティにコクリと頷き返す。
そして――『アリマ』程ではないが――町の中でも一際大きな屋敷、ヴィスコンティ邸を後にした。
「⋯⋯⋯⋯」
少女はまるで体に油でも塗っているかの様に、人混みの中を苦もなく歩く。人の波が途切れた瞬間、路地裏へと滑り込んだ。
魔晶の街灯が届かない路地裏は暗く、人通りは無い。奥に進むにつれ、喧騒が遠のき、僅かな光すら届かなくなる。ゼラはそんな中を、立ち止まらずに進んだ。
「待っていたわ」
路地の突き当たり、背の高い女が佇んでいた。
「こんばんは、
「⋯⋯⋯⋯」
女――セナは、薄明かりが灯る魔晶のカンテラを掲げる。
「驚いたわ。まさかあなたほどの人が『ユノ・ボーン』と行動を共にしているなんて。お互い数奇な運命を辿ったものね」
「幻狼⋯⋯⋯⋯」
ゼラは一言だけ呟き、押し黙る。橙色の光に照らされた顔は、依然無表情のままだった。
しかし、前髪に隠された額からは、一筋の汗が流れていた。
「あら、分かるのね、なら話は早いわ。あなたと行動を共にしている金髪の男の子について、話を聞きたいの」
「⋯⋯⋯⋯」
「勿論、
交渉ですらない、ただの恫喝。
しかし、ゼラは知っていた。目の前の女は、眉一つ動かさずに人を害する事ができるのだと。
「――ふふっ。なんて、冗談よ。」
セナが柔らかな笑みを浮かべ、緊張の糸は弛緩させられたが、ゼラが握った拳の中には汗が滲んでいた。
「この話は、あなたに利益があるわ。銀猫のあなたなら分かるでしょう? 利己を是とし、他者は踏台でしかない――それが、あなたたちですもの」
「そうです」
「嘲っているわけではないのよ」
「知っています。それが
セナはクスクスと笑い、ゼラへ手を差し伸べる。
「可能性を提示するわ。私に付けば、あの子と一緒に居るよりも、
「…………ふむ」
「少なくとも帰還の目処が立つまで、生活に不自由する事は無くなるわ。そして、『力』を得る事もできる。私の様に……」
二人が言葉を交わしていると、大通りから人影がやってくる。
「うーい、ひっく……なんだぁ、こんな場所でぇ、あぶねえぞ、姉ちゃん」
酒に顔を赤らめ、覚束ない足取りの中年の男性だ。
「それともなんだあ? おれを待っててくれたンかぁ? へっへ、じゃあ⋯⋯」
セナはそれを一瞥すると、口を開き、喉を震わせた。小さな口から、単調な
「…………ぁ」
それが鼓膜に届いた瞬間、男のニヤけた顔は、精気を失った様に虚ろになる。そして壁に歩み寄り、躊躇なく自分の頭を叩きつけた。まるで『それをすることが当たり前だ』と言わんばかりに、何度も何度も壁に頭をぶつける。
セナは微笑みながら、ゼラは無表情で、その様子を眺めていた。
「ごっ」
男はやがて気絶したのか、短い悲鳴を上げ、力なく倒れこんだ。
「と、まあ……この様にね? 私もしばらく使っていなかったから、この町で『練習』を重ねていたのだけど、もう本調子よ。今なら誰が相手でも、操る事が出来る」
「それが力ですか」
「そう。これがあれば、
セナは「どう?」と言い、ゼラに手のひらを伸ばす。
「悪くない条件だと思うわよ? この力は、あなたがあっちに帰った後も、必ず役に立つ」
「⋯⋯⋯⋯」
「だから教えて? シャーフ・ケイスケイの、一番大切なものを」
ゼラは無言のまま、軽く俯く。しばらく沈黙が続く。
「どうしたの?」
セナは、駄々をこねる子供を諭すような口調で言う。
「
「ふふっ、余計な詮索はしない方がいいわよ。それともあなた、あの子に恩や情でも抱いているの? まさか
「……そんなわけ、ないでしょう」
「そうよね。なら⋯⋯」
ゼラは言葉を遮るように、手を突き出す。
「その前に。お前のその力は、一体なんなのですか。たしかに幻狼族は、悪趣味な
「ああ、これは幻狼の儀式とは違うわ。捧げ物の
「あの方、とは」
「それは、あなたが協力するなら教えてあげる。さあ、どうかしら」
それでもなお、首を縦に振らないゼラに、セナはひとつ息を吐く。
長身を曲げ、ゼラに覆いかぶさるようにして、耳元で囁いた。
「銀猫の姫、ゼラトリクス。この力を持って帰れば、銀猫の復権も夢ではないわ。彼の妖精王にすら、
「…………!」
ゼラの肩がピクリと震える。
「それとも、あなたと一緒に居た赤毛の子……彼女に聞いてみましょうか?」
「……パティ子は、関係、ありません」
ゼラの、僅かな声の揺らぎ。セナの耳はそれを捉えた。
「ふうん、そう、分かったわ、ありがとう。安心して、事が済んだらちゃんとあの方に取次いであげるから」
「パティ子は関係ないと、言っているでしょう」
「あら、随分と入れ込んでいるのね。そんなに他者が大切?」
「大切なわけ、ないです」
「目が揺れているわ。ふふっ、あなたのそんな姿を見れるなんて、貴重な体験ね」
セナはゼラから身を引き、ニコリと微笑んだ。
「三日後の夜、町はずれの海岸に二人を連れてきて」
そして、魔晶のカンテラを吹き消す。
辺りを闇が覆い、ゼラは、セナの気配が遠ざかっていくのを感じながら、その場に立ち尽くした。
「逃げても、逃がそうとしても無駄よ。私はどこまでも追いかけるから――」
最後に残された言葉に目を見開き、心臓の鼓動を早めながら。
***
結局、歌う幽霊は見つからなかった。
というか、俺が『歌姫』セナと会った翌日から、幽霊騒動がとんと止んでしまったのだ。
火のない所に煙は立たぬ。煙すらなければ火元を探すこともできない。捜索は迷宮入りし、フリデリカさんと交わした剣術の話も、もはや絶望的になっていた。
ついでに女神ユノが言っていた『使徒』についても探してみたが、こちらもなしのつぶてだ。
「まあ、師匠に頼むのは賭けでしたからな。あまり気を落とさずに」
庭での剣術修行が終わり、カシムさんは肩を竦めて、ひとつ溜息を吐き、笑った。
「もしかしたらサンディが剣術修行を怠るかもしれない。もしかしたらシャーフ君の眠れる才能が、ある日突然開花するかもしれない。ほっほ、まだまだ希望は沢山あります」
「絶望的じゃあないですか……」
サンディさんとの差を埋めるための
ひとまず別荘に戻り、汗を流すために風呂場へと向かう。ゼラやアルはすでに寝室に戻っており、広間内はしんとしていた。
「……」
怖い。なにがって、この屋敷に出るという幽霊が。
『歌う幽霊』を探していた時は昼間だし、どうせ何かしらのトリックがあるのだろうと思っているので、別段恐怖を覚えることは無かった。
しかしこのボロ⋯⋯趣のある薄暗い屋敷に、実際に白い影を見てしまった経験から、俺の中に恐怖心が根付いていた。
カシムさんはさっさと自室に戻ってしまったので、俺一人で部屋に向かわなくてはならない。
こんな事ならアルに広間で待っていて貰えば良かった。
「⋯⋯⋯⋯はあ」
情けない。前世からの年齢を合計すると、アラフォーにもなろう男が、なんと情けない事か。
こんなところをゼラにでも見られたら、生涯をかけて馬鹿にされてしまう。あいつと一生の付き合いがあるとも思えないが。
とにかく、恐怖心を押し殺して風呂だ。その後は全速力でアルの部屋に駆け込もう。
「⋯⋯」
風呂に行く道中、ウェンディの『剣』が飾ってある、廊下の突き当たりの壁を横切る。最初に白い影を見かけた場所だ。
恐怖体験がフラッシュバックする前に、急いで通り過ぎようとした瞬間、目の端に"白い何か"が映った。
「⋯⋯!!」
足が止まる。恐る恐る視線を動かすと、ウェンディの『剣』が掛けられた壁の前に、何かが立っていた。
「⋯⋯ふ、フラッシュ!!」
思わず光魔法を唱えていた。幽霊は光に弱い、という誰もが抱く認識から、咄嗟にとった防衛行動であった。
「おあ」
白い何かが呻き声を上げて
「フラッシュ! フラッシュ! 悪霊退散フラッシュ!!」
「やめてください」
サッと近寄られ、思い切り向こう脛を蹴り飛ばされる。痛みに悶絶し、俺は床に転がった。まさか幽霊が物理攻撃を仕掛けてくるとは。
「ぐぅぅ⋯⋯!」
「なにをやっているのですか」
聞き慣れた声に顔を上げると、闇の中に見慣れた顔が浮かんでいた。
「⋯⋯⋯⋯お前こそ、なにやってんだよ」
ゼラだった。頭からベッドのシーツを被り、それを捲って顔を出している。巨大な『てるてる坊主』を連想した。
「おばけです」
「オバケデス、じゃないよ。暗闇の中で紛らわしい扮装をするんじゃない」
脛を摩りながら立ち上がり、ゼラのシーツを剥ぎ、畳んで小脇に抱える。
「⋯⋯というかお前だったのか、ちょくちょく見た白い影は」
「まあ」
「なにがしたいんだ。俺やアルを怖がらせて、ほくそ笑んでいたのか」
「いえ」
「⋯⋯⋯⋯?」
⋯⋯なんだか様子がおかしいな?
いや、無味乾燥なのはいつも通りなのだが⋯⋯考えてみると、ゼラがこんな悪戯をするのは珍しい。
こいつの行動理由の八割は自身の食欲に繋がる事なのだが、この『おばけごっこ』が食にありつく為だとは思い難い。
それに――俺と全く目を合わせない。
いつもなら、俺と一対一の時は、無遠慮に真っ直ぐな視線を向けてくるが、今は床に目を落としている。
「⋯⋯なにかあったのか?」
ゼラは無表情ではあるが、無感情ではない。
なにか、嫌な事があったのかもしれない。パティと喧嘩したとか、買ったアイスを食べる前に落としたとか。
「なにもないです」
「そうか? なら良いんだが⋯⋯と言うか、そうだ、そのおばけごっこは何なんだ」
「おばけを探そうとしていました。おばけの格好をしていれば、向こうから寄ってくるはずです」
その理論はよく分からん。
それに、話好きの幽霊だったら良いが、悪霊だったらどうするんだ。
「はあ。おばけを見つけてどうするんだよ?」
「
「ああそう⋯⋯じゃあ、まあ、早めに寝ろよ?」
よく分からん奴の、よく分からん理論に付き合う必要もない。それにこの騒動で、すっかり恐怖心もどこかへ行ってしまった。そこだけは感謝して、風呂に向かおう。
「シャーフ、後輩」
呼び止められ、振り向く。
「どうした?」
「明後日の夕方、パティ子が『渡すものがあるから会いたい』と言っていました」
「パティが? ああ、分かった、ありがとな」
明後日――二日後か。
随分あっさりと接近禁止令が解かれたのには拍子抜けだが、セナさんに貰ったチケットを渡すのには良い機会だ。
「場所はどこだ? マリア先輩の家に行けば良いのか?」
「場所は……当日になったら教えます」
「そっか。じゃあ頼むよ」
幽霊騒動も解決できず、剣術の話も絶望的なので、せめて楽しい思い出で夏を、校外学習を締め括りたいものだ。
パティと一緒にアクアリムスの公演を見て、収穫祭は一緒に回れなかったから、町で食べ歩きしたり⋯⋯。
「ゼラも来るか?」
メッセンジャーをしてくれたんだ。財布が痛まない程度には奢ってやろうと思い、そう言ったものの――。
「私は
そう言って、ゼラは踵を返した。
向かった壁にはウェンディの『剣』が架けられており、ゼラはそれを見つめたまま微動だにしない。
「それ、ウェンディのだってさ」
その背中に声をかける。
ゼラは頷き、「知っています」と小声で呟いた。
知っていて、それを眺めて、どんな気持ちになっているのだろうか。俺より長く、『自由の翼団』で旅をしていた彼女は、二人の死にどんな思いを抱いているのか。
遺跡の時――二人を、俺を置いて逃げようとしたと告白したゼラの胸中には、いまだに悔恨が残っているのだろうか。
「ゼラ」
「⋯⋯⋯⋯」
「あー⋯⋯おやすみ」
「はい」
何か、声を掛けようとしたが、気の利いた言葉は思い浮かばなかった。
そうして俺は、ゼラと別れて風呂場へ向かった。
***
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