宿屋にて

 ***



「スン……スン……」


 男が鼻を鳴らしながら、砂岩の城下町を歩く。


「臭いますねえ。懐かしい、これは賤しい猫の臭いですねえ」


 賑わう大通りを、独り言を呟きながら歩く男に、屋台の店員が声を掛けた。


「おっ! マウロ様じゃあねえですか! こんな下町くんだりまでどうしたんで?」

「ああどうも。いやはや、懐かしい匂いに惹かれましてねえ」

「ほほー、そりゃあもしかして、こいつですかい?」


 店員は屋台の商品――酒樽を叩く。

 食用サボテンの樹液を発酵させた蒸留酒、南大陸の名産品である。

 度数が非常に高く、通常は水や果汁と割って飲まれるが、この地に暮らす人々は仕事中の水分補給、栄養補給としてそのまま飲んでいる。


 マウロは微笑みながら首を横に振った。


「それも良いですが、少し野暮用がありましてねえ」

「さいですかい……。あれ、今日は砂漠の戦姫さまは?」

「お元気ですよ」

「それは重畳! タバサが怪我したって聞いて、心配しとりましたわ! アーリア様も、もう少しで十五歳、成人ですからねえ⋯⋯そしたらこの店で一緒に飲みましょうや!」


 タバサとは、アーリアのお付きの魔法師である。


「ええ、是非に。アーリア様も喜びましょう」


 頷くマウロ。


「では私はこれで――」

「ああでも――」


 店員は話し好きなのか、用があるといったマウロに構わず、続ける。


「成人になったらもう冒険者なんてやってられねえんですかねえ? なんたって、王様ももうかなりの歳ですし、王位継承候補が実質一人しかいねえようなもんですからねえ」

「ジンダール王子がおりますよ」

「まったまたあ、マウロ様も分かってるクセに。あんの王子ときたら……」


 マウロは自分の唇に人差し指を当て、店員に黙る様に促す。

 その一瞬後、鎧を着こんだ兵士が、屋台の傍を通り過ぎて行った。


「ひえっ、あぶねえあぶねえ」

「それでは私はこれで。また伺いますよ」

「引き留めちまってすいません。待っとります!」


 店員が頭を下げ、マウロは微かに口角を上げ、再び鼻を鳴らしながら歩き出す。


「スン、スン……ここですかねえ」


 そして町の、とある宿に辿り着いた。

 門戸を開き、宿内に踏み入ると、夕食を摂る冒険者や旅人でごった返している食堂だった。


「おやマウロ様、いかがしました?」


 宿屋の主人が、豪奢な装いのマウロに気づき、配膳の手を止めて声を掛ける。


「旧い友人がここにいると聞きましてねえ。差支えなければ――――はどちらの部屋か教えていただけますか?」

「ああ、それでしたら二階の突き当たりの部屋ですよ。尋ねてみては?」

「それはそれは。ありがとうございます」


 マウロは食堂を抜け、階段を上がる。

 店員は『突き当たり』と言ったが、二階の通路は左右に開けていた。


「スン⋯⋯こちらですねえ」


 どちらに行くか――マウロは一度鼻を鳴らし、迷うことなく片方の通路を選んだ。

 そして辿り着いた部屋の扉の前に立つと、中から響く声が、マウロの耳朶に届いた。


「パティ子、いまからごはんを取りに行ってきます。お金は大丈夫です、ウイングのお財布があります」

「んー!」

「まぬけなウイングが忘れていったようです。シャーフ後輩から貰った夕食代は、おかしでも買いましょうか――」


 扉が開き、帽子を被った銀髪の少女が現れる。吊り上った赤眼は、部屋の前に立ちふさがるマウロを見ても、表情を変える事は無かった。


「オジサンは誰ですか。そこにいると邪魔です」

「こんばんは。ああ、やはりそうでした。あの少年から微かに香った匂いは、貴女のモノでしたか」

「なんですかいきなり。私の様ないたいけな美少女の匂いを辿って来たとか、変態ですか」

「――――銀猫ぎんびょう族」

「――――ッ」


 マウロが一言、そう言った瞬間、少女――ゼラは表情を変えないまま、細い身体を震わせた。


「⋯⋯なにを言っているのですか」

「室内で帽子を被るのは感心しませんねえ。暑い国ですから、蒸れますよ?」


 マウロは、少女が被るキャスケット帽を指差す。


「オジサンには関係ないでしょう。これは私のオシャレです。オシャレには我慢が必要なのです」

「まだ歳若いので、完全に耳が隠せないのですね。いやはや、私もこちら・・・に来た当初は苦労したものですよ」

「わけのわからないことばかり言わないでください。人を呼びますよ。私の後ろには、とても強い女剣士がいるのです」


 ゼラはわずかに後退り、それを見たマウロは可笑しそうに首をかしげる。


「見たところ、貴女の後ろには、少女しかおりませんが?」

「んー⋯⋯むー⋯⋯?」


 室内には、ベッドの上でシーツに包まり、不安そうに事の成り行きを見守っている赤毛の少女しかいなかった。


「あれはパティ子です。私の友達です。手を出したらただじゃおきません」


 それを指摘されたゼラは、腰に提げた鞘から、緑色の魔晶が嵌め込まれた短剣を抜く。

 その小さな殺意を受けたマウロは、意外そうに眼を見開く。


「銀猫が他者を庇う……。いえいえ、私はなにも、貴女に危害を加えるつもりはありません。勿論、そちらの子にも」

「ではなぜ、私を訪ねて来たのです。それも変態的手法を使って」

「久しぶりに同胞の気配においを感じたもので、顔を見ておこうと思いましてねえ。貴女はこちらにきて何年ほどですか?」

「……」


 ゼラは無言で右手の親指を曲げ、四本指を突き出す。


「四年ですか、ほうほう、それはそれは。ちなみに私は五十年とちょっとです」

「結局オジサンはなんなのですか。なんの人なのですか」

「私は炎狗えんくですよ。不慮の事故でこっちに来てから色々ありました」

「やけにきらきらした格好ですが、お金持ちなのですか」

えにしに恵まれましてねえ。最初はこの国で奴隷同然の扱いだったのですが、助けてくれた女性がいたのですよ。貴女もそうですか?」

「…………」


 ゼラは表情のない顔を、天井に向ける。


「……まあ。ウイングとウェンディには、これでも結構感謝しています。ついでに、あの顔が良いだけの男にも」

「そうですかそうですか。居場所が出来た様で、良かったですねえ」

「居場所……オジサンは、あっち・・・に帰りたいと思わないのですか」

「こっちでの暮らしも長くなりましたしねえ。ですが、それももうすぐ終わります」

「終わり……帰る手段があるのですか」

「ありますねえ。ただし一度きりの手段ですが」


 それを聞いたゼラは再び、ビクリと身体を震わせ、マウロの顔を見た。


「これは転移の魔法石」


 マウロは懐から、拳大の石を取り出して見せる。琥珀色をした、土の紋章が刻印された魔晶だった。


「こっちにある魔法というものは大変高性能ですが、離れた場所と場所を繋げる、転移の術は無い。ですので、これはそれを模した魔法を込めた魔晶と言いますか⋯⋯」

「帰れるのですか、むらに」

「ええ、ええ。知り合いの高名な魔法師に頼んで造ってもらいました。貴女一人程度でしたら共に運べますが、いかがします?」

「私は――」


 ゼラはその魔晶に手を伸ばし掛け、


「え、あ……えあ・・……?」


 不安に満ちたパティの声に、手を止めた。


「パティ子……言葉が……?」

「ん、んん……えあ!」

「――私はゼラです。えあ・・ではありません」


 ゼラは踵を返し、ベッドの上のパティに抱き着く。


「んー!」


 パティは嬉しそうに身を捩らせ、ゼラの頬に頬ずりした。


「⋯⋯オジサン、私はまだこっちに残ります。友達を見捨ててはおけませんので……あ、この台詞かっこいいですね」


 マウロは残念がる様子もなく、笑顔で頷いた。


「それもまたよいでしょう。ちなみに、これは興味本位でお聞きするのですが、貴女がその少女に入れ込む理由はなんですか? 銀猫族は他者を信じず、利用する事を憚らない恥知らずの一族と聞いていたものでして」

「パティ子はよく笑い、よく泣きます」

「……? そうですか、よく分かりませんが、分かりました」

「質問を返しますが、オジサンはなぜ、わざわざ私を誘ったのですか」


 その問いにマウロは、懐かしむように目を細める。

 やがて閉じられた瞳から一筋の涙が流れ、頬を伝った。


「いきなり泣かないで下さい。気色が悪いです」

「これは失敬。いえね、私も、すぐにでも発つつもりだったのですよ。ですが、義理を果たさねばならなかったのです。今日、ようやく義理を果たしたので、出発の目途が立ったのです。そこに、懐かしい同胞の気配がしたものですから、せっかくだからとお誘いした次第です」

「ギリ……よく分かりませんが、分かりました。お元気で、オジサン」

「ええ、貴女も……!?」


 細められたマウロの瞳が、急激に見開かれる。

 部屋に入り、窓を開け、顔を外に突き出し、せわしなく鼻を動かす。

 その様子を見たゼラは、ぽかんと口を開けた。


「なんですかオジサン。パティ子が怖がるので奇行は止めてください」

「……同胞の臭いがする」

「は……またですか。意外とこっちに来ているヒトは多いんですか」

「……いや、これは違う! 同胞などでは無い! ……アーリア様!」


 マウロは窓を閉め、部屋から出て行こうとする。

 ゼラはその袖を引き、引き留めた。


「なにが来たと言うのです。一人で勝手に盛り上がって出て行かないでください。それに、アーリがどうしたと言うのです」

「……血の臭い。それに、幻狼げんろう族、と言えば理解していただけますか?」

「――――!」

気配においは南へ向かっています。恐らく、アーリア様のいる遺跡へ……クソっ、どうして奴らが……!」


 マウロはゼラの手を振りほどき、早足で部屋から出て行った。

 取り残されたゼラは、表情こそ変わらなかったが、その顔からは血の気が引いていた。


「幻狼……逃げなくては」

「んー、むー?」

「パティ子、逃げましょう。幻狼族はとても危険な連中なのです。ここにいたらどうなるかわかりません。私は団のみんなを集めて……あつ……めて……」


 ――『アーリア様のいる遺跡へ』。マウロが言い残したその言葉が、ゼラの動きを止めた。

 遺跡には、今頃ウイングとシャーフが向かっており、幻狼族と鉢合う可能性は高い。


「いや、死にますねこれは。間違いないです。今から向かったところで手遅れです」

「んー、むー?」


 ゼラの額から汗が流れ落ち、肩に落ちた瞬間、宿屋の店員が開きっぱなしの扉から顔を覗かせた。


「お客さーん? いまマウロ様がとんでもない形相で出て行ったけど、なにかありましたかー?」


 店員は怪訝な表情で言った。

 ゼラの目が店員に移り、部屋内を見渡し、手に握ったウイングの財布を見て、最後にパティの顔に向かった。


「⋯⋯パティ子は私が守ります」


 ゼラは、もう一度パティを抱きしめ、そして、店員に向かって言った。


「――宿を引き払います。外に停めてある団のマナカーゴに、荷物を運んでください」

「はあ⋯⋯? お連れの方は?」

「⋯⋯もう、帰ってきません」

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