24.検査と修理と短期観光編
「御髪は半分後ろへ流して…髪紐は何色がいいでしょうか?」
「この濃藍色はどうです?ほら、御髪の色が映えてとても綺麗ですわ」
「大変愛らしい紳士になりましたわね」
「まぁ、とてもご立派でございます」
「…ドーモ、アリガトウ、ゴザイマス」
面前にある大きな鏡には、ヒラヒラ系お貴族様風の礼服を着た美少年が映っていた。
残念、中身は三十五歳俺ですどうも。
お風呂タイムと全身ケアプレイを耐え忍んだ後、俺を待ち受けていたのは怒涛のお着替えタイムだった。
涼やかな寒色系で揃えられたジャケットにベストとズボン、とどめのヒラヒラ袖のシャツ。 細やかな装飾が施されたタイがなんともお貴族様っぽい。
メイドさん達が用意してくれた服はもう一着あったのだが、如何せんビラビラのキラキラ豪華すぎて俺が尻込みしてしまったので、手持ちの服で着てもいいかとメイドさんにお願いするとすんなりとOKが出た。
フラーウさんに買ってもらったおニューのヒラヒラ服の出番となった訳だ。買ってもらってよかったよ。
髪飾りはどうだの装飾品がどれがいいだの聞かれても、ファッションセンスが死滅している俺にはどう答えればいいかわからない。 好きなようにしてくれと言わんばかりに曖昧な返事で流し続けた。
(ガワの見目が良いから服に着せられてる感はないけど。 …うん、いつもより男らしい…この髪型かっこよくね?)
いつもうなじ付近で纏めるだけだった長い髪の毛も、左半分後ろへと香油で撫で付けられてビシッと男の子感が出ている。
平素の時からデコ丸出しにすれば女の子に間違われなくて済むかもしれないな。…いや、髪の毛を後ろへ引っ張り続けたら生え際が後退するしな…髪型は悩むなぁ。
側に使えている二人のメイドさんは満足そうな笑顔を無表情へと切り替え、静々とお食事会の場所へと誘導し始めた。俺も黙ってメイドさんの後ろをついていく。
長い廊下を進んだ先には大きなドアがあり、手を触れる前に自動ドアのようにゆっくりと開け放たれた。
ドアの先には豪華で煌びやかな長い食卓が見え、俺の胃がきりきりと痛み始める。
そう、これから領主様との初対面で夕食を共にするのである。
メルカートルの領主様はオルディナ現国王の王弟にあたる純ロイヤルの人だ。
脳内では天皇陛下と名誉一般市民が握手している場面が再生された。 あのイベントに似た場面ということ。 名誉もネームバリューも無い俺が一生かかっても遭遇できなさそうなお食事会。 やばい、出版社に作品を見せに行く時より変な緊張感がある。
「お、サクマ。 どこかの貴族の坊ちゃんに戻ったな」
「ほんと! 礼装もとっても似合うわ」
「あ、フィエルさん、オネットさ――」
ん、を言い終える前に俺は固まる。
後ろを振り向くと、そこにはお貴族のようなお嬢様が二人立っていた。
鮮やかな赤毛の癖っ毛を後ろに結い上げ、首から胸元まで大胆に露出した淡い若草色のタイトなドレスに身を包んだオネットさん。そして、
ヘーゼルナッツ色の髪をハーフアップにし、白藍色のふんわりと広がるドレスを纏ったフィエルさんだった。
細やかながらお化粧とアクセサリーも相まって別人のように見える。まるでどこかのお姫様のようだった。女の人って化粧を一つだけでもイメージがガラっと変わるんだなぁ。
街でおニューの服を買った時にも言いそびれてしまったのだが、ここでさらっと服装の感想のひとつやふたつを言わねばマナー違反だろう。
「お、お姫様みたいで綺麗、ですね」
「ふはっ、褒め慣れてないな。そこでどもるなよ」
あたりまえだろう、こんなセリフ言い慣れている訳がない。 肝心な所で言葉が突っかかってしまったのをすかさずオネットさんに笑われてしまった。
「ありがとうサクマ。ふふっ、サクマもどこかの王子様みたいよ」
「ど、どうもありがとうございます…」
礼服を身にまとった俺らは、メイドさんに案内されるままそれぞれの席へと腰を下ろした。
細長い食卓を挟み正面左にフィエルさんとオネットさん、その正面に俺がちょこんと座っている。
豪華な食卓を囲む俺達を監視するかのように部屋の壁沿いにはメイド数人、そして、イロアス隊長率いる女騎士のおレフィナド副隊長、キエト隊員も控えていた。警護&護衛のお勤めご苦労様です。
食卓の装飾に目を奪われそうになった時、別方向の扉がきしりと音を立てて開いた。思わず視線を動かすと、
「――すまないね。待たせたかな、諸君」
パトリオティス・エヴィエニス・メルカートル。 メルカートルの領主様だ。
四十代ぐらいだろうか、長身でがっしりした体躯に長いくすんだ金髪が渋かっこいい。
そんな領主様は艶やかな美女をエスコートしながら食卓へと歩む。
「パトリオティス様、今夜は御呼び頂き…」
「ああ、そのままで構わない。 無礼講というやつだ、礼儀など気にせず食事を楽しんでくれたまえ」
「――はい、パトリオティス様」
フィエルさんとオネットさんが静かに席を立ち頭を下げようとした瞬間、領主様が片手を上げて微笑んだ。
二人の動作を真似、慌てて立ち上がった俺はほっと吐く。割とフレンドリーな雰囲気のようだった。
「オネットちゃん、フィエルちゃん、ドレス姿も綺麗ね。似合ってるわ」
「ドーモ」
「フラーウ技師も素敵です」
「うふふ、ありがとう」
領主様にエスコートされている艶やかな美女、大きな胸元を上品に魅せるドレスに身を包んだフラーウさんだ。
うーん、ドレス一つで雰囲気がガラリと変わってなんともいえない妖艶な雰囲気がある。とってもお美しいです。
ドレスアップしたフラーウさんはエスコートされるまま、俺の隣の席へと腰を落ち着かせた。
「あら、わたしが選んだ服ね。やっぱりサクマくん似合うわ」
「ありがとうございます。フラーウさんもとても綺麗です」
「うふふ、ありがとう、嬉しいわ。――パトリオティス様、この子がお話した魔術士です」
フラーウさんの紹介もあり、俺は再び席を立った。 領主様とは悲しいぐらいに身長差があるゆえ、見上げると地味に首が痛いしなんとも言えない威圧感を感じる。
頭を下げようとした瞬間、目の前に大きな手が差し出された。
「貴君が結界を越えてきた魔術士殿だな」
「は、はい、コウ・サクマと申します、この度は御相伴に与らせて頂きとても光栄です。パトリオティス様」
「堅苦しい挨拶は無しだ、サクマ殿」
薄い灰色がかった青い瞳が細まる。差し出された手を握り返すと、とても大きくがっしりとした手だった。
「しかし、話には聞いていたが…こんな小さな魔術士だったとは思わなかったな」
領主様はにこやかに微笑まれた。なんだかこちらのメンタルにぐっと訴えかけるような感動を覚える握手だった。純ロイヤルオーラがすごい。
「我が国、メルカートルの街を見て回ったとも聞いた。外の大陸と比べる物はないだろうが、なかなかに賑やかでいい街だろう」
「はい。とても色んな物で溢れていて…目移りしてしまいました」
「そう言ってもらえるとは嬉しい限りだ、自慢の国だからね」
領主様が着席すると、音もなくメイド達が流れるような動きで配膳をし始めた。
「さあ、自慢の料理人に作らせた料理だ。遠慮なく食べてくれたまえ」
食卓の上にどんどんと料理が乗せられていく。 フランス料理のような芸術点がありそうな料理ではなく、どかんと盛り付けをされた具材が大皿にのっかっている迫力のある料理だった。 港街らしく魚料理が多い。
俺の担当給仕らしいメイドさんが音もなく小皿へと切り分けてくれた。 盛り付けすらとても綺麗でメイドさんすごい。
用意されている銀製の食器をみるとフォークとナイフはそれぞれ一種類だけ置かれてあった。
地球のように長さと形状が少し違うナイフとフォークを数本並べられ、外側から順々に使うということはないようだった。
「人族の料理は大陸外の種族からも評価は高いと聞く。…サクマ殿の口に合うといいが」
「お、お気遣いありがとうございます。 おれ…私は美食家という訳でもないので…港で売っていた甘味もとても美味しかったです。アンコォチィという名前の甘味でした、パトリオティス様はご存じでしょうか?」
「ああ、港の食堂がある所で売っている菓子だな。 私も何度か城を抜け出して食べたことがある」
おちゃめな領主様のようだ。
何ともない会話を続けることに必死で料理の味すら堪能できない。フィエルさんやオネットさん達に会話バトンを飛ばしてくれないかとそわそわしてきた所で、領主様の声のトーンが少し変わった。
「…ところで、サクマ殿は結界を飛び越えてこの大陸にやってきたそうだね」
ばくり、俺の心臓が飛びあがる。
「知ってはいるだろうが、このゲシュンク大陸を囲うように結界がある。外界門を通らず飛び超えられる者はそうはいない。 転移術式が使えたとしてもそれすらも跳ね返す結界だ。 そういう風に作られたのだよ、七百年以上前に森人族と山人族の名のある魔術士らがね」
領主様はまるで今日の昼飯は何を食べたんだい?というフランクさを含んだ声で痛い所を聞いてきた。 ナイフとフォークを音も立てずに白身魚を食べてらっしゃる。なんともお上品で洗礼された動きだ。流石王族というべきなのか。
「サクマ殿が所持していた魔道具の報告書も見た。どれも複雑な術式が込められているそうだね。 我々には理解しがたい術式だったそうだ」
「……っ」
食事会とは名ばかり。 俺は交渉の場の席に座っているらしい。
(よく考えてみりゃ仲よく食事するだけ、なんてことにはならないわな…!)
油断していた分、唐突な話題に耐えられずにうっかりフォークを皿の端にぶつけて甲高い音を立ててしまった。
「…サクマ殿はこういう場に慣れてないと見える」
その通りです。
「単刀直入に聞こう。…貴君がこの大陸に来た理由を知りたい」
「――パトリオティス様」
遮るように凛とした声が上がった。オネットさんだ。
「その話題をお続けになるのですか? せっかくの料理がまずくなってしまいます」
「ああ、オネット嬢、これは失礼した。 だが、こちらも結界を任されている身だからね。 飛び超えられない筈の結界を飛び越えたとなれば対策を考えねばなるまい」
「ですがサクマは国境門で経緯をお話したはず。 まさか報告されてないとおっしゃるのですか」
「報告は受けている。私が直接サクマ殿の口から聞きたかったのだ」
「なら、何もこの場で持ち出す話題では…」
オネットさんが俺に考える時間を稼ぐ為にか、果敢に領主様と水面下で静かな舌戦をし始めた。オネットさんの敬語口調にものすごい違和感を覚える。
彼女の横を見るとフィエルさんはきょとん顔で料理を頬張っていた。 静かにオネットさんと領主様のやり取りを静観しているようだった。 フィエルさんのマイペースな所とてもかわいいと思います。
(…いやいや、何をビビることがあるんだ、俺)
フィエルさんの癒し効果で我に返った俺は浅く空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
このままではせっかくの食事会が言葉の探り合いになりそうなのは避けたい。
そもそも俺は世情と観光目的で大陸に来ただけなのだ。 やましい事は――多少あるけれども。
「私の目的は――人族の大陸がどんな生活をしているか知りたくて来ました」
「ほう、見聞を広げる為と?」
「…はい、それもあります。 あまりにも孤島暮らしが続いていたので侘しくなったというのも本音です。 そして世情も気になりました。 実際に自分の目で見て確かめたかったんです」
これは本音だ、隠す必要もない。
「私の身でも落ち着ける場所があるのなら、そこで仕事をして暮らしたいとも考えています」
出来るだけ真っ直ぐに、領主の顔を見つめた。
「…なるほど」
グラスの淡い飲み物を口に含み、領主様が間を置く。
「偽りはないと見える、だが」
それだけでは不十分だ、そう口元が声も無く動いた。
「…ツオン」
「は」
領主様が後ろに控えていた錆色の髪の男性へと目配せすると、錆色の男は俺の側へとやってきた。その手には一枚の羊皮紙がある。
「…これは…」
「血の契約書です」
血の契約書――特殊な製法で作られたインクで綴られた術式と、特殊な羊皮紙で作られた契約書。
(…フラーウさんが昼間、約束がどうのって言ってたのはコレのことか)
たしかに俺は国境門で血の契約書にサインするよとは言ったが…ガチで用意するとは思わなかった。
血の契約書を作るにも特殊な技法とインクで作られる物だ。 用意するにも時間はそれなりにかかる。
国境門から移動に二日。フラーウさんが疾風馬を他の誰かに貸し、一足先にメルカートルに用意するよう通達していたのかもしれない。
「サクマ殿は契約すると国境で言ってくれたようだね? その案を採用させてもらった。 この大陸に来た以上、他種族だとしても契約に縛られる事になっているのだ。 …古く強力な契約書を持ち出すのは気が進まないが…これも我々人族に課せられた契約に関わる事でね、署名してもらいたい」
もはや完全にNOとは言わせない空気が食卓を包んでいた。
「組み上げた国境の結界を防ぐ術式…その情報を第三者に知られるわけにもいかぬ。それに…」
「パトリオティス様…!そんな話、あたし達は聞いてな…」
「オネットちゃん、領主のパトリオティス様が会話をなさっているのよ、今は抑えて」
「…っ」
オネットさんが感情的に声を上げた途端、フラーウさんがにこやかに止めに入った。
一触即発とまではいかないが、場の緊張度が上がった気がした。
これ以上はオネットさんが俺を庇う訳にもいかない。
「オネットさん、大丈夫です」
「けど、サクマ!こんな真似…!」
「いいんです。…やましいことはありませんから。署名すればいいんですね?…その前に契約内容を読ませてもらいます」
「ああ、しっかり目を通すといい」
ツオンと呼ばれた執事っぽい人から契約書を受け取ると文面に目を走らせた。
その一、結界の魔道具の情報を口外することを禁じる。
その二、ゲシュンク大陸にて、人族(混血児含み)に対し、殺害、洗脳、幻惑、呪術、大規模な魔術の使用を禁じる。
その三、オルディナ王国が認めた物以外、魔道具、魔術札を作ることを禁ずる。
その四、殺傷能力の高い魔道具、魔術札を第三者に譲ることを禁じ、魔術文字や術式の知識を口外、並びに記録、文章として残す事を禁ずる。
ざっとこういう内容だった。
「…随分と制約が多いですね」
「ここは人族の大陸だからな。我々も似たような契約に縛られているのだよ、未来永劫、末代までな」
領主様がさも当たり前のように呟く。
(…禁止事項だらけじゃないか)
その一はいいとして、俺の強みを半分以上を封じる内容だ。それに引っかかる事もある。
「たとえば、私が人族…他者に攻撃された時はどうすれいいのですか」
黙って袋叩きにされろと言うのかとばかりに領主様へと視線を向ける。だが、領主様はそんなことはありえないと苦笑していた。
「
「抵抗や反撃をしても構わない、…そう考えていいんですか」
「そういうことになるな」
正当防衛で反撃はしてもかまわないが、致命傷や重症を負わせて殺すのはアウトとおっしゃる。
「…ですが、可能性はゼロでない限りこの制約はあまりにも理不尽です。私から魔術を奪えば丸腰も同然ですよ」
「貴君の命を奪おうと考える愚か者はいないと断言できる。 それはオルディナ王国の王族、引いては国民にも関わる重罪であり、公然とした法律だからだ」
大陸外の他種族を殺してはいけない、その重罪を犯せば王族引いては人族すべてに罰が下される、と。
「…王族…人族も血の契約を…?」
「そうだ。 戦争に負け、大陸に渡った頃に交わされた契約だね。 契約を破れば人族は種の存続が断たれる重い罰が下される」
人族まるごと根絶やしという極刑ということらしい。なにそれ重い。
「ドミナシオン祖先はその制約から逃れる為、北へと移動した訳だが」
そして、国境門を隔てて北の大地に閉じ込められたということか。
「…あなた方も契約で縛られている事はわかりました」
とりあえず、俺を安易に暗殺や殺そうという考えるヤツはないってことで今は信じよう。その一、その二、その四も理解できるし納得できる内容だ。だが、その三の一文がひっかかる。
「オルディナ王国が認めた物以外、魔道具や魔術札を作ることを禁じるとありますが。…逆に、オルディナ王国が認めた魔道具や魔術札…それらを私に作れと命令をすることはありませんか」
「それも安心していい。 人族が他種族に求めていい物は生活魔道具に関わる物と、ある程度の身を守る魔道具を買う事、又は作る事をしか許されていない。…街を見て回った時に見なかったか?」
たしかに、街に並ぶ魔道具はどれも生活魔道具に関するもので複雑な物や物騒な物は何一つなかった。
(サインをすれば俺の
「…もし、署名後に契約違反をすれば私はどうなりますか?」
「勿論、五体満足で大陸外へ追放となる」
命を奪うことも捕まえることもしない。それが人族に課せられた制約だと領主様が話した。
(無条件で大陸外に締め出されるだけ、か)
血の契約書の文面をつらつらと読んでいくと、契約を破った際にペナルティ欄に大陸外追放と確かに書かれてあった。その際には血の契約書の効力により身動きできなくなるとも。
ふっと肩から力が抜ける気がした。何も怖がる事はないじゃないか。
(人族に随分とえぐい制約をかけてるんだな…)
大陸外から無法者たちが国内で暴れまわったとしても、抵抗する手段がかなり限られてくるのではなかろうか。
「わかりました、署名します」
血の契約書は実に簡単でシンプルな署名方法だ。 自筆で
「これをお使いください」
「…どうも」
ツオンと呼ばれた執事が特殊インク壺と羽ペン、小さなナイフが乗った銀のトレーを俺へと差し出してきた。
術式が囲うように描かれている羊皮紙の下側、空いた余白にはすでに領主様の長い名前があった。俺が書く所はその下側になるのかな。
ふと、日本語で書くべきなのか共通語で書くべきなのかと迷った。
「…サクマくん?」
「あ、いえ…」
フラーウさんが俺のペンに触れようとした手が止まったことを不自然に思ったのか、彼女は手元を覗き込んできた。
血の契約書はたしか、真名は種族ごとの言語で署名するんだった。
だけど日本語はダメだ。 この大陸のどこかに転生者か転移者、又は前世記憶持ちの人がいる前提として考えると危険だと思った。
その人らが文章を残していたとして、俺の名前の文字が同じだと気づかれればややこしいことになるかもしれない。 共通語か竜人語か森人語…うーん、竜人語にしとこう。
さらさらと羽ペンをうごかし、竜人文字で「コウ・サクマ」と署名す。俺の脳みそには森人族の言葉と竜人族の言葉もインプットされているのだ。 難なく書くことはできる。
次に血判を捺すために小さなナイフを持ち上げた。 それは綺麗な刃先のナイフでとても良く切れそうだった。
「……」
「…サクマくん、もしかしてナイフが怖い?」
フラーウさんが俺の手元を覗き込みながら小首を貸してげてくる。
先ほどから俺の隣でじっくりと見つめているが、どうやら何か不正をしないかどうかの監視役にフラーウさんが抜擢されたのだろう。
「いや…あの…指先って神経多いから切ったらとても痛そ、っだっ!」
「あら、痛かった? ごめんなさいね」
指先にナイフをかざしていたら、柄をフラーウさんに容赦なく押されて刃先が刺さった。ぷつりと指先から血の雫があふれる。痛い、その不意打ちひどくない?
隣のフラーウさんをじと目で見ると、彼女は悪びれもせずにうふふと笑ってらっしゃった。
逆にさくっと押してくれたからよかったかもしれない、と思う事にしよう。自分から指先にナイフとか数分はモダモダしていたかもしれないし。
「サクマ様、こちらに血判を」
「っ、ひゃい…」
ツオンさんが指し示す場所に、ぽんと血があふれた指先を押し付ける。
「うう…これでいいですか…」
指先が離れた瞬間、羊皮紙に綴られた魔術文字が光を放った。その契約書の効力が俺の全身を拘束するように包み込み――
「……?」
するりと解け、中途半端に引っかかった気配を僅かに感じた。
「…ええ、しっかり署名も血判も押され、無事に契約が成されました」
署名をした羊皮紙をフラーウさんが真剣なまなざしで眺め、銀のトレーへと預ける。
「――サクマ殿には不躾なことをしてしまったね。 この場を借りて詫びよう、すまなかった」
「いえ…」
ふと、領主様や場の空気が緩やかなものに変わった気がした。
――ここで俺がサインを断ればまた別の騒動に発展したかもしれない。
「サクマくん、指の傷見せて。術式で直してあげるわ」
「あ、いいえ、お構いなく…」
フラーウさんが俺を気遣ってか、指先に滴る血をハンカチで拭こうとしていたのをさっと避けるように遠ざけた。 途端、フラーウさんの紫色の瞳がちょっと悲しそうに揺れる。
いや、嫌ってわけじゃないんですよ、嫌って訳じゃ。ただ、俺のボディは普通の治癒促進の術式じゃ直らないので!
誤魔化すように笑って指先の傷を手持ちの布で押さえた。 血はすぐに止まったようだし、放置していてもその内に自然と直るだろう。
「さあ、料理が冷めきってしまう前に食べようか」
領主様の穏やかな声を皮切りに、それぞれ食事が再開された。
食卓を挟んだ向かい側にいるフィエルさんとオネットさんが心配そうに見つめていることに気づき、俺は大丈夫だと笑い返すしかできなかった。
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