確かな満足


 暇な時間があるとすぐに本を読みだしてしまうから、なかなか肥川さんに話しかけるタイミングがなかった。いつ見ても本を読んでいるし、なにせ本を読み始めたら話しかけても反応してくれないのだ。

 話しかけることが出来たのは、たまたま教室移動があって休み時間に移動している時だった。


 「司書の先生が図書委員会の仕事で話があるって言ってたから、放課後に図書室に来てくれないかな?」


 僕がそういうと肥川さんはくすっと笑って「わかった」とだけ言った。


 肥川さんは教室の掃除当番だったので、先に図書室に行くことにした。放課後になってすぐだからか、図書室には誰もいなかった。なるべく奥の方の席に座って流れているクラシックを聴きながら肥川さんを待っていると、案外すぐに来た。


 どうやら走ってきたのか、少し呼吸が乱れていた。


 「大丈夫?」と肥川さんに聞くとそれに対しての返事はなく、「早く見せて」と言われた。


 もしかして絵が完成するのを楽しみにしてくれていたのだろうか。あらかじめ鞄から出しておいたクリアファイルを席に着いた肥川さんに渡した。


「この前に渡した下書きとはポーズとかは変えてないから大丈夫だと思うけれど、これでどうかな?」


 肥川さんは絵を受け取ると特に何も言わず、じっと見つめていた。まるでいつも小説を読んでいる時の文学少女モードのようだった。もちろん、小説と違ってそこまで長い時間ではないのだけれど。


 「すごく満足」

 肥川さんの今まで見た中で一番の笑顔だった。こういう言い方は失礼かもしれないけれど、こんなに良い感情表現を表に出せるんだと思った。今回の表紙の依頼を通して今まで抱いていた肥川さんの印象が変わった。一樹が肥川さんと楽しそうにしているのもわかる気がした。


「どうしてわざわざ図書室に呼んだの?普通に渡してくれればよかったのに」


 肥川さんは鞄の中に渡した絵をしまいながら言った。


「教室だと誰かに見られたら嫌だし。ここなら人は少ないし、渡しやすいかなと思って。やっぱり描いた側としたら、直接相手の反応を知りたいでしょう」


「ふーん、そうなんだ」


 聞いてきた割には反応が薄かった。単純にちょっと気になっただけなのだろうか。


「何はともあれ、こうやって描いてくれてありがとう。お礼はまた」


 肥川さんは座ったままお辞儀したので、会釈をした。これで一旦ミクの絵を描く件は終わりだ。しかし二人からほぼ同時にミクの絵を描いてほしいと頼まれたのは偶然じゃなかったのかもしれないなと思った。


 肥川さんは鞄の中から本を取り出した。どうやらこのままここで本を読んでいくつもりらしい。文学少女モードに入られてしまう前にこれだけは言っておかなければ。


「描くって言ったときの約束は今後も何があっても守ってね」


「もちろん。任して」


 肥川さんは本のページを開くとそう言って僕に対して親指を立てた。


 帰ろうとしたら立ち上がったら、本を読んだまま小さな声で肥川さんが「これからもよろしくね」と言ったように聞こえた。


「ん?どういうこと?」


 思わず聞き返したけれど、何も反応はなかった。

 勘違いだろうか。

 肥川さんは文学少女モードに入ってるはずなのに、いつになくご機嫌のようだった。

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