調声
昨日のことがあったからなのか、教室に行っても水無瀬さんは声もかけてこなかった。僕から話しかけるべきなんだろうけれど、なんとなく気まずくて、結局話しかけることができたのは授業が終わり、放課後になった後だった。
「昨日は心配かけてごめん」
「あのね、私は別に気にしてないからいいよ。それより体調はもう大丈夫?」
「うん、もう平気。ありがとう」
なんだか微妙な間ができてしまった。
どうしようかなと思っていると、水無瀬さんがボーカロイドの話がしたいから人気のない屋上に行かないかと言われたので、二人して屋上に移動した。
吹奏楽部の人がいるかもと思ったけれど、屋上には誰も人がいなかった。荷物を置いて屋上のフェンスの縁に並んで座った。
「面白い音源を作ってみたの。ちょっとこれ聞いてみてもらえる?」
水無瀬さんがポケットの中からスマホを取り出して僕に渡した。
画面にタッチして再生をする。音楽か何かかと思っていたけれど、流れてきたのはミクの声だった。
「はじめまして。私は初音ミクです、マスターのお願いを叶えるために、今日は特別にゆういちのために歌います」
元々喋らすためのソフトではないし、調教をあまりしていないからか機械音っぽさが十分に残っている声だけれど、まぎれもなくミクの声で、僕の名前をはっきりと言ってくれている事になんだか感動した。
喋り声の後には、「ハッピーバースデートゥーユー」のミクのアカペラが流れた。もちろんあて名は僕の名前だった。こちらはきちんと調整されているのか滑らかに歌っていた。
「どう? 面白かった? 昨日作業の合間に面白そうだから作ってみたの。名前を呼ぶ歌なんて誕生日の歌くらいしか思い浮かばなかったから、誕生日でもないのにあれだけど」
水無瀬さんがニコッと笑った。
昨日あんなことがあったからって僕を元気づけてくれるためにわざわざ作ってくれたのかもなと思うと、水無瀬さんの優しさに胸がいっぱいになった。
「面白いし、とっても嬉しかったよ。ありがとう」
自分ができる一番の笑顔を返した。水無瀬さんもまた笑い返してくれた。
水無瀬さんにスマホを返すと、「はい、これあげる」と言って、スマホと入れ代わりに不織布に入ったCDを渡された。
「今のミクちゃんの音源と、私が今までに投稿していないものも含めて作った曲を入れておいたから、聞いて感想くれるとうれしいな。あ、使い捨ての安いCDだから、別にお金のことは気にしないでね」
CDの表面は真っ白で、おそらく何度も書き直しができるものではない、何十枚もセットで千円もしない、大量に安売りしているたぐいのものだろう。遠慮なくもらっておこう。
「ありがとう。家で聴かせてもらうね」
CDを無くさないように、いつも配られたプリントを入れているクリアファイルの中に入れて鞄の中にしまった。
「あーっ、忘れてた。昨日連絡しようと思って気が付いたんだけど、私たちって連絡先知らないよね? メールアドレス教えてくれる?」
水無瀬さんはスマホの画面をいじるとまた僕にスマホを渡した。僕はスマホではなくてケータイなので、ケータイを取り出して水無瀬さんのメールアドレスを登録した。空メールを送って、スマホがメールを受信したのを確認してから水無瀬さんに返した。
「そういえばさっきのミクの喋る音源で思い出したんだけど、晃が『雛鳥』は、まだ調教が不十分だって言ってたよ。改善できる余地がまだまだ残っているって」
それを聞いた水無瀬さんは急に口を膨らませた。
「もーっ、調教なんて言葉はだめだよ、三善くん。ミクちゃんに失礼だよっ。調声って言わなきゃ。それにしてもそんな言葉を使っているなんて、佐伯くんって結構最初の頃からミクちゃんのこと追いかけているんだね」
調教が不十分と言う意見に怒ったのかと思ったけれど違った。晃に調教の話を聞いたときはなんの疑問もなく調教という言葉を自然に受け入れていたけど、なるほど調声のほうが適してる。
「ごめん。調声なんて言葉を使うんだね。知らなかったよ。でもどうして晃が最初の頃からミクを追いかけているってわかるのさ?」
「今は調声って言う人がほとんどなんだけれどね、最初の方はみんな調教って言葉を使っていたの。だけどね、段々とボーカロイドがみんなに浸透して行って、電子の歌姫であるミクちゃんに調教って言葉を使うのは倫理的にどうかって議論が起こった時があったの。
その時にね、調声って言葉が提案されたの。
元々は仏教的な用語で、ちょうしょうって読み方の言葉だったらしいんだけどね、ミクちゃんの歌声を整えるから調声って言葉がぴったりなんじゃないかって提案されたみたい。
それでね、人気にあるボカロPの一人がね、新しく上げたミクちゃんの心情を歌った曲の歌詞に調教って言葉じゃなくて調声って言葉を使ったの。その曲は凄く再生数が多い人気の曲になってね、そのおかげもあってか、次第に調声って言葉の方が使われて行くようになったの。
まぁ、いまだに神調教って本当に人間が歌っているかのように聞こえる曲を作ったボカロPを讃える言葉があって、調教って言葉が使われているけれどね」
淡々と説明をしている水無瀬さんを見て、ボーカロイドに対しての愛は結構深いんだなと思った。ただ一つの言葉の違いについてだけでここまで熱弁できるのはすごいと思った。
「まぁ、そういうわけだからね、ちゃんと調声って言ってあげなきゃ」
「うん。歌姫初音ミク様の調声という神聖な作業ってことだね」
わざとらしく言うと、水無瀬さんが笑ってくれたので、二人で笑った。
「それでさっきの話なんだけど、実はあの曲は投稿したけど、調整やアレンジ含めて自分でもあんまり納得いってないところがあるんだよね。だから、あの曲を再構成し直してもう一度投稿したいと思ってるの。本格的に私の新しい曲の絵を描いてもらう前に、簡単な絵でいいから2、3枚くらいあの曲のための絵を描いてくれないかな?」
「僕の絵でいいなら構わないよ、やっぱり水無瀬さん的にもあの曲に不満があったんだね。それじゃあ……」
やり取りの途中でメールの着信があったので、ケータイを見ると一樹から待ち合わせに少し遅れるかもとメールが来ていた。時間を見ると15時半を過ぎていた。
この後、16時に一樹と駅で待ち合わせをしているんだった。
水無瀬さんにそのことを伝えると残念そうだった
「予定あったのに長々とごめんね。このままもう少し話せるかと思ってたんだけど……じゃあ詳細の話は、この次だね」
次に放課後が空いてる日にちを確認して、約束をしてから水無瀬さんと別れた。
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