幻影

 河川敷に、他の木々からほんの少しだけ離れて、大きな木が一本生えていた。季節は春で、無数の新緑の葉が茶色い木の枝を覆っていた。


 空は青々と雲一つなく晴れており、時折、弱めの風が吹いて、葉が揺れて囁きあっていた。


 その木の太い枝の上に一人の少年が座り、絵を描いている。そこから見えた、向こう岸の風景だった。少年は夢中になってスケッチブックに鉛筆を走らせて絵を描いている。その姿はとても楽しそうだ。


 そこに少女が一人、遠くから歌を歌いながら歩いてきた。近づくにつれて、段々とその歌声が明確に聞こえてくる。少女の歌声は澄んだ川のように透き通った歌声で、少年はいつの間にか絵を描くのをやめ、少女の歌声に耳を傾けていた。


 少女は木の上に少年がいることに気が付いておらず、誰もいないと思っているからなのか、なんの恥じらいもなく、大きな声で歌っている。


 少女は歌っていた曲を最後まで歌いきると、無地の真っ白なトートバッグの中から楽譜を取り出して、木の下で歌の練習を始めた。


 少年も少女の邪魔をしないようにと、声をかけたりはせず、その歌声に酔いしれながら、スケッチブックの新しいページを開いて、鉛筆を軽快に動かし始めた。


 しばらくの間、それぞれがそれぞれの時間を享受した。


 ふと強い風が吹いて、木の葉が大きく揺れ、少年の気配が風に乗って少女のもとに届いたのか、少女は少年がいることに気が付いて、木の上を見上げた。


 少女の絵を描いていた少年と少女は目が合った。けれど、少年には少女の顔が見えなかった。逆光というわけではなく、少年には少女の顔が認識できなかった。少女の顔を見ることができても、どんな顔なのかがわからなかったのだ。


 けれども、なぜか少年には少女が悲しい表情をしているということが、感覚でわかった。その透き通った濁りのない歌声とは違い、悲しい表情をしているということがわかっていたのだ。


 見つめあう二人のところに生暖かい一筋の風が強く吹いて、葉を囁かせ、少女の長い髪をひらりと揺らした。


「このまま、歌わせて。私は歌いたい」


 たった一言。

 風がやんで少女が発した言葉は、爽やかで無垢な声だった。

 少年はその言葉の本質が、声質とは違って少女の悲痛な叫びなのだということを理解していた。だから、少年は何を疑うこともなく、少女に頷き返した。


 少女は、先ほどとは違い大きな声で、感情をこめて強く歌を歌い始めた。その歌声には先ほどの歌声にはなかった濁りがあった。深い悲しみがあった。

 少年は、懸命に体中の力を振り絞って歌う少女の姿を見つめていることしかできなかった。


 次第に少女の足元から暗い影が広がっていき、少女の体を蝕んでいった。足先から膝まで、段々と身体の上へ上へと浸食していった。浸食は止まらず、けれど少女の歌声の力は変わることなく、少女の全身を蝕んでいく。


 同時に、影に染まった部分が段々と消えていった。


 ついに影は顔にまで到達し、影に染まったその顔が、一瞬だけ眩く光って、消えていった。


 最後には、曲の最後のフレーズの歌声だけが辺りに響き渡り、少女の姿は完全に消えてしまった。


 その様子を見ていた少年は木から降りて、少女が消えてしまった場所に立って河川敷を眺めた。そして、少年は少女がどこか遠く、手の届かない場所へ行ってしまったことを悟って、その場に崩れ落ちた。


 少年は薄れていく意識の中、自分の罪を呪った。

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