アイドル


 放課後、部室に行こうとしていると鞄を持った水無瀬さんが声をかけてきた。


「今日は何かこれから予定ある?」


「いや、別に決まってる予定はないけど……」


「それなら、朝にした話についてもうちょっといろいろ話がしたいんだけど、これから大丈夫?」


 大丈夫と言おうとして、一樹に借りていた小説を返すことになっていたのを思い出した。

 借りた時に特に期限は言われなかったけれど、昨日一樹から読み終わったならもう一度読み返したい箇所があるからなるべく早く返してほしいと言われていたので、今日返した方がいいだろう。


「あっ、ごめん、ちょっと部活の人に返したいものがあったのを忘れてた。先に部室に寄らせてもらってからでもいい?」


 水無瀬さんは口に手を当てて、何か考えているようだった。


「うーん、じゃあこうしようか。三善くんは駅の近くにコロラドっていう名前の喫茶店があるのは知ってる?」


 確か駅前の本屋の上の階にある喫茶店だった気がする。駅のホームから大きくコロラドと書かれた看板が見える記憶がある。


「本屋の上だよね。入ったことはないけど、そこなら場所はわかるよ」


「そうそう、本屋の上の喫茶店。なら用事が終わったらそこに来て。私は先にお店に行って待ってるから」


「じゃあそんな感じで」


 水無瀬さんと別れて部室に行くと一樹はまだ来ていなかった。仕方がないので他にいた先輩と話をして一樹が来るまで待っていたら、30分くらい経ってしまった。さすがにこれ以上水無瀬さんを待たすのも申し訳なかったので先輩に返すのを頼もうかと思っていると、一樹が来たので小説を返すと急いで喫茶店まで行った。


 お店の中は思っていたよりも広く、満席とは言えないけれど、半分以上が埋まっていた。チェーン店の喫茶店よりもお客の年齢層が高いのか、若い人はほとんどいなそうだった。水無瀬さんを探すと、2人掛けの席に座って本を読んでいた。先にカウンターのところでアイスコーヒーを買ってから席に着いた。


「ごめん、待たせちゃって。相手がなかなか部室に来なくて」


「ゆっくりコーヒー飲みながら小説読んでいたから気にしなくてもいいよ」


 水無瀬さんはホットコーヒーを飲みながら、微笑んだ。

 自分のアイスコーヒーにコーヒーフレッシュとガムシロップ1個を入れてストローでかき混ぜる。飲むとちょうどよい苦さだった。


 ホットコーヒーの傍らにはガムシロップの空ケースが2個とスティックの砂糖1個分の包みがあった。水無瀬さんは甘党なのだろうか。


「あ、これ気になる? 私ね、あんまり苦いコーヒー飲めないから、たくさんお砂糖入れちゃうんだよね。三善くんは大丈夫そうだね」


「うん、おいしい」


「私は普段あまりコーヒーを飲まないんだけど、よくここで歌詞とか考えたりしてるんだ、お店の雰囲気が好きで、家の中で考えるよりも集中できて作詞が捗るの」


 BGMにはクラシックが掛かっていて、店の中はなんだかおしゃれで落ち着きがある。椅子の座り心地も悪くない。なにか作業をするにはしやすい環境だろう。

水無瀬さんは読んでいた小説を閉じて、鞄の中にしまった。


「で、朝の話なんだけれどね、勢いで絵を描いてほしいなんて依頼しちゃったけれど、三善くんはパソコンで絵を描いたことはある? 基本的には動画で使うから、パソコンで描いたものが欲しいんだけど……」


 こちらも絵を描くことを引き受けたものの、そういうことはまったく考えていなかった。確かに動画用の絵なのだから、パソコンのデータにできないと意味がない。


「うーん、パソコンで描いたことはないんだよね」


「そっか……どうしよう。パソコンで描くにはペンタブとかお絵かきソフトが必要だよね」


 水無瀬さんは困った顔をしている。確か、ペンタブとソフトを買うくらいのお金は持っているはずだ。どのみち、パソコンで絵を描くことは漫画を描くことと同じくらい興味があったことだし、買っても損はない。


「大丈夫、いい機会だから思い切って買っちゃうよ」


「えっ、いいの?」


 水無瀬さんは僕が本心で言っているのか疑っているように見えた。


「前からパソコンで絵を描くってことには興味があったから気にしないで。お絵かきソフトはどれがいいか、ペンタブはどんなのが安くて使いやすいかとかは調べたことがあるからね。ただ、やっぱり高校生には高くて大きな買い物だから、思い

切って買う機会が今までなかったんだよね」


「なんだか買うように強要しちゃったみたいでごめんね」


「そんなことないから気にしないでいいよ。たとえ今買わなくても、どうせいつかは買ってただろうからさ」


 水無瀬さんがすごく申し訳なさそうに言うので、必死に弁解する。コーヒーを飲むと、さっき飲んだ時よりも苦く感じた。


「そういえば水無瀬さんは中学の時は吹奏楽部に入っていたって小野くんから聞いたけど、どうして高校では入らなかったの?」


 なんとなく流れを変えたかったので、音楽の話に話題を変えることにした。


「うーん……三善くんは気になる?」


「言いたくないなら無理に言わなくていいよ。ただ、少し疑問に思っただけだから」


 あんまり触れられたくはない話だったのだろうか。水無瀬さんは少し困った顔をしている。


「なんだろ、人間関係が面倒くさくなっちゃってね。男の子からしたら女の子ってみんな仲が良さそうで楽しそうに見えるかもしれないけれど、その裏では派閥争いみたいなのがたくさんあってね、特に吹奏楽部みたいな集団で作り上げる部活で、しかも上手いとか下手とかがあるから、自然と人間関係がどろどろしちゃうの。

 それで私も吹奏楽部で色んないざこざに巻き込まれた経験があるから、もうこりごりかなって思ったから入らなかったんだ」


 あまり女の子同士のことは女の子じゃないからわからないけれど、男の子と違って誰とでも仲良くしなきゃいけないみたいな空気があるような気はする。男の子は誰とでも仲良くするというよりは、好き嫌いが結構明確にわかったりするから、あんまり人間関係が面倒くさくなりにくいイメージがある。


「みんなで音楽を作り上げるのは確かに楽しいけれど、私はそこに格段のこだわりは持っていなかったから。音楽なら一人でもできるピアノがあるし、作曲している方が楽しいんだもん。そういうことに時間を使うのもありかなーって思ったの」


「そうなんだ。なんかこの前小野くんが高校でも吹奏楽部に入るように誘ったけど、入ってくれなくて残念だったって言ってたから、どうしてだろうなって思ったんだ」


「確かに小野くんには悪いことしたなって思ってるよ。小野くんってほら、面倒見が良いでしょ? だから吹奏楽部で女子同士の中がこじれた時に仲裁役とかをやってくれたりして、すごくお世話になったし」


 確かに小野くんだったら仲裁役とかしてそうだ。温厚な性格だから、相談もしやすいだろうし、しっかりしてるからちゃんと両方の言い分を聞いてくれそうだ。


「でもどうしても吹奏楽部に入っちゃうと毎日練習しなきゃいけないからたくさん時間とられちゃうし。やっぱり、私はせっかくボカロPとして活動を始めたから、そっちに集中したいってのもあったんだよね」 


「吹奏楽部の人は毎日練習してていつも大変そうだもんね。それなら仕方ないか。ところで水無瀬さんはどうして曲を書くようになったの?」


「あのね、私の家は音楽家の家系でね、祖父が作曲関係の仕事をしていて、父と母が演奏家なの。だから、生まれた時から私の周りは常に音楽であふれてた。他の人よりもね。私が音楽の道に入るのは当然だったし、祖父が作曲していたり、父が編曲をしているところを見ていたから、自然と曲を作るってことに興味を持ったの」


 音楽系の一家に生まれたってことは、ある意味家業みたいに、音楽の道に進まな

いといけないみたいな意識が生まれてしまうものなんだろうか。


「私の名前も、音楽に関係あるかずねって名前なの。『和音』と書いて『かずね』。和音ってわかる? 綺麗に響きあう音同士のことを表す音楽の用語だよ。親が言うには、他の人とも綺麗に響き合うような人間になるようにってつけたんだって」


「へーそういう意味があったんだね。自分の名前がどういう理由で付けられたのか、僕は知らないなぁ」


 確か祐一の「祐」という漢字には助けるって意味があるのは聞いたことあるけど、どうしてこの名前を付けたかは親に聞いたことがない。言われてみると気になってきたから、今度聞いてみよう。


「まぁとにかく、そんなこんなで作曲を始めるようになったわけね。前はインストルメンタル、簡単に言うとボーカルの入ってない楽器だけの曲を作っていたんだけどね、初音ミクの存在を知って、ミクちゃんの曲を作るようになったの」


 不意に、何かを思い出したように水無瀬さんが微笑んだ。


「雛鳥はね、私自身のことなの。私を雛にたとえて作ったの」


「あの曲が水無瀬さん自身の話?」


「うん、あのね、私ね……」

 一呼吸おいて恥ずかしそうに言う。


「私、本当はアイドルになりたかったんだ。こんな消極的な私がアイドルなんて似合わないよね。可愛くもなければ、踊りもできないし、歌もうまくないし。でも、本気でアイドルになりたいと思ってた。憧れてたの」


――アイドルになりたいの


 唐突に出てきたその言葉が、僕の心の中に、静かに突き刺さった。ちくりちくりと心の奥底にした蓋をついてくる。


「あ、別に有名になりたいとかそういう理由じゃないよ。ただね、歌うことで誰かを幸せにできる存在になりたいって思ったの」


 ダメだ。思い出してはダメだ。


 水無瀬さんのその言葉が、僕の心の奥底で誰かの言葉と重なり響く。


――私は、アイドルになりたいの。歌うことで誰かを幸せにしたいなって


 その楽しげな口調とは裏腹に悲しいほどまでに、僕の心の中に訴えてくる。


 あの時、瞳の中には何が見えていたのだろうか。


 どんな未来を描いていたのだろうか。


 何を夢見ていたのだろうか。


 夢から醒めさせたのは、僕だ。


 僕が彼女から奪った。


 僕が殺した。


「私にとっては一生無理な夢だと思っていた。でも、私は素敵なことに初音ミクっていう電子のアイドルに出会ったの。初音ミクは私の代わりにアイドルになってくれる存在なんだよ。私が夢見ていた歌姫になってくれる存在なの。だから、私は初音ミクっていう存在を通して、殻の中から外の世界に出てきたの。外の世界に羽ばたくことができたの」


 真剣に語る水無瀬さんの言葉も、僕の心には届かず、頭の中で虚しく通り過ぎて行く。


 今の僕には、曖昧に相槌を返すことしかできなかった。


「まぁ、ボーカロイドが歌う曲を作る作業ってずっとパソコンとにらめっこして、ひたすらクリックして音を打ち込んで調整しているだけですごく地味だし、孤独な作業でアイドルなんて華やかな世界とはほど遠いけどね」


 目の前で小さく笑っている女の子は、彼女とは違う。


 それはわかっているはずだ。


 もう彼女はいない。


 僕の前には二度と現れない。


 思い出せば思い出してしまうほど、胸が締め付けられてく。


「どうかしたの?」


 ついには相槌さえもできなくなり、ずっと黙っている僕の様子がおかしいのに気がついたのか、さっきまで生き生きと語っていたのに、急に曇った表情になって僕を見つめていた。


「ごめん、なんでもない。水無瀬さんの話を聞いてちょっと考え事してただけ」


 出来る限りの笑顔を作って、言葉を返すしかできなかった。


 なんとか誤魔化そうとして手を動かしたら、カップに手をぶつけてしまい、プラスチックのカップが倒れた。もう飲み干してしまったはずなのに、残っていた氷が解けて水になっていたせいで、水がカップからこぼれた。


 慌ててカップを立てるも、すべて水がこぼれた後で、テーブルの上はびしゃびしゃになってしまっていた。水無瀬さんがテーブルに置いてある紙でぬれたテーブルを拭いてくれた。


 そのおかげで上手く誤魔化すことができたのか、水無瀬さんはまた熱心に語り続ける。 


「それでね、なんて言うんだろう、初音ミクっていう存在はね、次世代の存在なの。例えば、売れている歌手が恋の歌を歌ったりする。そうすると、それを聞いている人は必ず、歌い手の背景にある恋を想像するでしょ? 

 あぁ、この人はこんな恋をしたのかなって。

でもね、ミクちゃんが歌うと変わるの。歌っている初音ミクには、背景がないから、自分の事のように聞こえるの。すごいよね。自分で作曲して歌っている人は別として、歌っている人じゃなくて作曲した人にフューチャーが当たるっていうのも、新しいことだと思うの」


 せっかく水無瀬さんが熱心に語っているのに、その言葉は頭の中を通り過ぎていくだけだった。


「そんなことを考えていたらミクちゃんにのめりこんじゃって。誰かに歌を届けられることがうれしくなったの。私の作った歌が誰かを幸せに出来たら素敵だと思わない?」


――私の歌が、誰かを幸せにできたら素敵だと思わない?


 熱心に語る水無瀬さんの姿が、無邪気に笑う彼女と重なってくる。


 頭がぼーっとして、熱っぽくなっていく。


 まるで目の前に彼女がいるように思えてきた。


 水無瀬さんの語る言葉は言葉として認識できなくなって、ただの雑音になり、意味をなさなくなっていた。


 もはや僕の前にいたのは、水無瀬さんではなかった。


 彼女との記憶が、走馬灯のように頭の中に浮かんでくる。


――全部あんたのせいなんだからっ!

あんたなんか死んでしまえばいいんだ。


 幸せな記憶を通り過ぎて、浮かんでくる切なく苦しい記憶。


――あんたがいなければ、あの子の夢は叶ったかもしれないのに。

あの子がいなくなることもなかった。


 取り返しのつかない過ちに対する罪の意識。


 石でガンガンと打ちつけられたように頭が痛くなってくる。


 こんなに苦しくなったのは久しぶりだった。


 あれからずっと心の中で考えないように、思い出さないようにしていた。心の奥底にしまい込んで、厳重に鍵をかけて、必死で忘れたようにしてきた。でも、こんなことでまたすべてを思い出してしまうなんて。


「……しくん……よしくん……三善くん!」


 突然水無瀬さんのよびかける声が頭の中に強く響いて、我に返った。水無瀬さんがそれまでより大きな声を出して僕の名前を呼びかけていた。


「どうしたの? だいじょ……」


 水無瀬さんの声に反応して顔をあげると、水無瀬さんが驚いた顔をして固まっていた。


「えっ……泣いてるの?」


 自分の頬に手を触れてみると、一筋の涙が肌を伝っていた。言われなければ気がつかなかったほど自分では泣いている感覚はなく、それ以上の涙は一ミリも出てきそうになかった。


「ごめんね、私なんか変なこと言っちゃったかな?」


 突然、目の前で何の前触れもなく人に泣かれるなんてことに遭遇するのはきっと初めてで、すごく動揺しているのだと思う、水無瀬さんは不安そうで、何も怖いことはないはずなのに怯えているような目だった。


 でも不幸なことに、その怯えている目が、あの日の彼女の目と重なった。


 お願いだ。


 僕のことをそんな目で見ないでくれ。


 口に出そうになる言葉を必死に呑み込み、頭の中の映像を振り払う。


「ご、ごめん……水無瀬さんは何にも悪くないよ。ちょっと昔の嫌な事思い出しちゃって。悪いけれど、もう今日は帰ろう。絵の打ち合わせはまた今度機会を作るから」


 きちんとした言葉が出せるように、変な言葉が出ないように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……うん。わかった。ちょっと待って」


 水無瀬さんはさっと立ち上がって僕のカップも一緒にテーブルのものをカウンターに片付けに行った。その間に僕は落ち着くことができるように、深呼吸をした。


 ――今一緒にいるのは水無瀬さんで、もうあれから一年は経っているんだ。大丈夫だ。なんでもない


 そう自分に言い聞かせる。


 水無瀬さんが戻ってきたので、これ以上心配をかけないように、頭の痛さをこらえて何の問題もないように歩いて店を出た。


 お店を出ると水無瀬さんと別れた。水無瀬さんは僕を気遣ってくれたのか、涙を流した理由を深く聞いては来なかった。今の僕にはそれがありがたかった。


 頭痛はひどくなり、ふらふらとする足を必死に動かして、帰り道を歩いて行く。頭の中には、手を伸ばせば届きそうな距離で楽しそうに笑う彼女の幻影が漂っていた。

 振り払ってもまとわりついて消えてくれない。


 できることなら、あのころに戻りたい。僕も彼女も無邪気に笑うことができた後の頃に。心の底で必死に押し隠していた本当の気持ちが湧き出してくる。



――会いたい。君に会いたいよ。

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