漫画の恩恵
やはり上の学年の教室に行くというのは緊張する。
できることなら行きたくはない。
けれど、黒崎さんの連絡先は知らないし、昼休みや放課後にどこで何をしているのかなんて全く見当がつかないから、直接会うためには授業と授業の合間に教室に行くのが一番良いのだ。
うちの学校の二年生の教室は、一年生の教室の下の階にあり、二年生の教室の下の階には三年生の教室がある。要は学年が上がるほど教室のある階は下になっていき、教室に行くのが楽になる。若いうちには苦労をしろ方式だ。
びくびくしながら、下の階に行き、黒崎さんがいる教室に行くと、黒崎さんは他の男子と話をしていた。さすがに上級生の教室の中にずかずかと一人で入っていく勇気はないので、廊下にいる人に呼んでもらおうとしたら、声をかける前に黒崎さんが僕に気がついて僕の方に向かってきてくれた。
「おやおや、今日はきみのほうから僕のところに来るなんてどうかしたのかい?」
「黒崎さんに渡したいものがあるんです」
「渡したいものというとあれかな。待っていたよ」
黒崎さんは、一瞬だけ嬉しそうな素振りをした。と同時に、僕に周囲の視線が集まっているのを感じた。
各学年のスリッパの色は違うので、履いているスリッパの色で何年生かがわかる。2年生だらけの中に、一年生が一人いるのは目立つのか、通りかかる生徒たちが興味深そうに僕のことを見てくる。相手が黒崎さんだからなおさらだ。僕はそれが耐えられなくなっていた。
「あの、ここだと恥ずかしいので、ちょっと来ていただけますか?」
「いいよ。きみがそう言うのなら、どこへでも」
さっき黒崎さんの教室に行った時よりも明らかに多くの人の視線を感じる。ただでさえ下級生が上の学年の階に行くと見られるのに、黒崎さんと一緒にいるとなおさらだ。他の人達の視線を気にしながらも、人気の少ない場所に移動した。
「とりあえず、一つ漫画が完成したので持ってきたんです」
鞄の中から書き上げた漫画の入った茶封筒を取り出して黒崎さんに渡した。
「それは素晴らしいね。きみが描いたものを見ることができるのを待ってたよ」
「そんな良いものではないと思いますけど……」
「それは、読んでから決めるとしよう。他の生徒に見られないように、家でじっく
りと読ませてもらうよ」
黒崎さんは茶封筒の口を少しだけ開けて中身を確認すると、すぐに口を閉めてそれ以上見ることはなかった。
「ところで、探していた人物は見つかったかい?」
封筒を無事渡すことができたので、帰ろうかと思っていると黒崎さんが言った。
「はい。黒崎さんが教えてくれたヒントが役に立って、なんとかみつかりました。まぁノートの持ち主は女の子だって僕の考えは間違っていなかったわけですけれど」
黒崎さんが微笑む。
「ただ正解のことだけを言ってもつまらないからね。ちょっとだけ、ひっかけを入れてみたんだよ。もしひっかけに惑わされてばかりで見つからなかったのだとしたら、所詮君と彼女はそこまでの関係でしかなかったという事なんだよ。
でも君は見つけたんだからよかったじゃないか。また何か面白いことがあれば、教えてくれると嬉しいな。どうやらきみにも人を惹きつける才能があるように思えるからね」
「人を惹きつける才能?」
「いや、それはただの独り言さ。あまり気にしないでくれ」
黒崎さんがどうしてそんなことを言ったのかはわからないけれど、黒崎さんに褒められるとなんだか嬉しく感じる。でもその反面、なぜ黒崎さんが僕なんかのことを評価してくれているのかがわからなくなる。
「あのー、ずっと不思議に思っていたんですけれど、どうして、黒崎さんは僕なんかのことを気に掛けるんですか?」
黒崎さんは僕の肩に手を置いた。
「それは君が他の人とは違うものを持っている人間だと思ったからだ。前も言ったかもしれないけれど、僕は人の事を観察するのが趣味でね、見ていると分かるんだよ。他の人間にはないものを持っている人が。なにも気に掛けているのは君だけじゃないさ。僕は他の人間にはないものを持っていると思った人を気に掛けているだけさ。たまたまその中に君がいると言うだけ。だから悪いけどきみだけを特別扱いしているというわけではないんだよ。これで納得してくれるのかな?」
僕が頷くと、黒崎さんは満足そうだった。
「それにね、人は誰しも何かしらの才能を持っているものだ。大切なのはその才能を自覚しているか、その才能を伸ばそうと努力しているかなんだ。多くの人は自分自身の才能に気が付かずに一生を終えてしまうし、自分の才能に気が付いたとしても自惚れてしまって、必死に努力してまで伸ばそうとはしないものだ。
でもきみは違う。自分の才能を自覚し、常に才能を伸ばそうと努力している。それだけで、もう魅力的な人間なのさ。そういう人間に惹かれることは人として普通の事じゃないか? 僕はただ他の人よりもそういうことに関して嗅覚が鋭いだけさ」
別に僕は黒崎さんが言うように自分に絵の才能があるとか思って絵を描いていたことはないけれど、絵が上手くなりたいと思って努力していることは間違いない。
「じゃあまた、数日後。この漫画を読んだら、返しに行くよ」
そう言って微笑むと黒崎さんはどこかへ行ってしまった。
「おはよう、三善くんっ!」
黒崎さんに漫画を渡した数日後の朝、教室に入ろうとすると、水無瀬さんが勢いよく僕のところに駆け寄ってきた。そうして、人気のないところに連れていかれた。
けれど、その割にはなんだか申し訳なさそうな顔をしていて、話し出すのに躊躇しているようだった。
「こんな朝からどうかしたの?」
「あ、うん。あのね、さっき突然黒崎さんに廊下で渡されたの。大切なものだから、きみが三善くんに直接手渡してくれないかって」
水無瀬さんが鞄の中から取り出したのは、この前、黒崎さんに渡した漫画を入れた封筒だった。受け取って中身を確認すると漫画のほかに、たくさん文章が書かれた紙が一枚入っていた。ちらっと読むと、黒崎さんが読んで思ったことが書かれているようだった。
水無瀬さんは、僕が中身を確認しているのを不安そうに見ている。水無瀬さんの態度はぎこちない。それが何を意味しているのかはすぐに気がついた。
「ありがとう。確かに受け取ったよ。でも一つ聞きたいことがあるんだけど、いい?」
水無瀬さんは少し肩を震わせて、僕の言葉に身構えたのがわかった。
やっぱりそうか。
「もしかして、中を見た?」
「うん……」
水無瀬さんは体を縮こませ、顔を下に向けている。
「ごめんなさい。駄目だってわかっていたけど、どうしても気になって中を見てしまったの」
「気にすることなんかないよ。こんな風に渡されたら、僕だってきになってみちゃうし」
まぁきちんとした封もしていないし、こんな意味ありげな封筒を渡されたら中身が見たくなってしまうのはしょうがない。
しかも、渡してきた相手は黒崎さんだ。
少なくともこの学校に通う生徒だったら、絶対気になってしまうだろう。僕も水無瀬さんの立場だったら、絶対中を見ている。責めることなんてできない。
「あのね、でもね、見てよかったって思うの」
「えっ?」
水無瀬さんは、先ほどまでの態度と違って、すごく嬉しそうだった。
「私が書いた曲を聴いて、私のことすごいって言ってくれたけれど、私なんかよりも三善くんのほうがすごいじゃん。だって、こんなに上手な絵が描ける人なんて、そうそういないよ。プロの絵描きが描いたみたいに素敵な絵だった」
「そんなことないよ。僕は、作曲出来る方がすごいと思う」
絵なんて描こうと思えば誰だって描ける。
少し描けば、ある程度は上手くもなれる。
うまい人なんか世の中にたくさんいる。
でも作曲は簡単にできるようなことじゃない。中学の友達が有名なバンドのライブに行って感動して、自分もあんな曲が作りたいと作曲の勉強を始めたけれど、一カ月もたたないうちに「音楽なんてよくわからない」と言って諦めてしまったことがあった。それくらいに、作曲をするということは人を選ぶのだ。ましてや、人の心に訴えかけるような曲を作れる人なんてそうそういない。
「そうかなぁ。作曲なんて好き勝手自分の感性に任せて、ただ音を並べているだけだもの。全然すごくなんかないよ。難しいってイメージがあるだけだよ。まぁ、そんなことはどうでもいいの。とにかくね、今回のことで三善くんがこんなに上手い絵が描けるってこと知れてよかったなって思ったの」
ん?
水無瀬さんは何を言っているのだろうか。なんだかわけがわからないよ。
「というのもね、あのね、三善くんにお願いがあるの」
「お願い?」
お願いという言葉を聞いて、つい最近同じようなことがあったなと思った。そして、何の偶然か水無瀬さんの口から出てきた言葉も同じ言葉だった。
「うん。あのね、私のために絵を描いてくれないかな?」
「水無瀬さんのために?」
「あ、ごめんね、わかりにくくて。私の曲に合わせて絵を描いてくれないかってことなの。ボーカロイドの世界ではね、もちろん曲自体に魅力があることが一番重要だけれど、絵も大切な要素の一つなの。
本当に再生数が多い曲っていうのは、絵が素敵なものが多くてね、ボーカロイドの文化は、歌だけじゃなくてそれを支える絵の存在もあって成り立っていると思うの。そうじゃなきゃ、初音ミクっていう存在がここまで大きくはならなかったんじゃないかな」
確かにほとんどの曲に綺麗な素敵な絵がついていた。絵だけではなくて映像になっているものもあった。
「だから、私が作った曲のために、絵を描いてくれないかなってこと。私のために曲に合わせた絵を描いてくれる人を探していたの。描いてくれる?」
水無瀬さんは僕の目を真っ直ぐに見ていて、お世辞でも何でもなく真剣に僕に絵を描いてほしいと思っているのが分かった。
漫画を描いている事を知られてしまっている以上、断る理由は特に何もない。
「別に僕は構わないけど、本当に僕なんかの描く絵でいいの?」
「うん、三善くんの絵ね、とっても魅力的だったんだもん。私が好きな感じのタッチの絵で探していたイメージにぴったりなの」
「僕の描く絵でいいのなら、いくらでも描くけど……」
「本当に!? ありがとう」
水無瀬さんは嬉しそうだった。
そのあと、いろいろと話をしていると授業開始5分前のチャイムが鳴った。教室に戻ろうかと思ったけれど、水無瀬さんは何かが気になるのか考え込んでいるようだった。
「どうかしたの?」
「いやね、どうして黒崎さんは三善くんに直接この封筒を渡さずに、私に渡すように頼んだんだろうって思ったの。授業が始まるまでまだ時間はたくさんあったし、もう少し三善くんが来るのを待ってればよかったのに」
そう言われてみれば、黒崎さんの行動がなんだか不自然に感じた。そもそも普段は僕が漫画を書いていることを他の人に悟られないように、漫画の話をする時は色々と気にして話をしてくれているのに、僕が描いた漫画が入った封筒を他の人に渡すなんて時点でおかしい。
それに僕に封筒を届けてほしいなら、水無瀬さんではなく、このクラスの男子に頼む方が自然なんじゃないだろうか。何か水無瀬さんに渡す必然性があったのだろうか。そう考えていると、一つのことが思い浮かんだ。
「もしかして水無瀬さんは黒崎さんと交流あったりする?」
水無瀬さんはすぐには答えず、言うべきかどうか迷っているようだった。
「うーん、色々言われそうだから、あんまり他の人には言ったことないけれど、交流あるよ。会って話すことなんてのは滅多にないけど、たまにメールでやりとりするの。あの人だけは私が作曲していること知っているから、動画投稿すると曲の感想とか送ってきたりしてくれるんだよ。すごく参考になる意見ばかりくれるの」
やっぱりそうだったか。
そういえば黒崎さんは水無瀬さんが作曲している事を知っていたんだった。きっと黒崎さんは水無瀬さんが中身を気になって見てしまうことがわかっていて、水無瀬さんに封筒を渡したのだろう。
そうして、僕が漫画を描いていることを、わざと水無瀬さんに知らせようとしたのだ。漫画を描いていることを知れば、おそらく水無瀬さんが僕に絵を頼むと分かっていて。
だから、作曲した人を探していることを打ち明けた時に、なんだか楽しそうな顔をしていたのだろう。こうなるということがわかっていたんだ。
黒崎さんにはかなわないと思った。本当に底の見えない人だ。
「それがどうかしたの?」
僕は理由が分かったけれど、何も知らない水無瀬さんにはわかるはずもないので、まだ不思議そうな顔をしている。
「ただ、黒崎さんと交流あるなら他の人に渡すよりも水無瀬さんの方が渡しやすかっただけなんじゃないかなって思って。それに黒崎さんって色んなことで忙しそうだから、なんか他にも用事があったんじゃないかな?」
水無瀬さんに教えようかと思ったけれど、やめておいた。
おそらく黒崎さんが封筒の中を見ると見込んで水無瀬さんに渡したなんてとてもじゃないけど、言えないからだ。
それを言ったら絶対水無瀬さんは傷つくだろう。とりあえずは、それっぽい理由を言っておこう
「うーん、そうかもね」
まだ腑に落ちないような顔をしているけれど、とりあえずは納得してくれたようだった。チャイムが鳴って授業が始まってしまいそうだったので、二人して急いで教室に戻った。
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