黒の王子


 珍しく母親が寝坊したので、今日のお弁当がなかった。その代わりにお金を渡されていたので、購買部にパンを買いに行くことにした。

 教室を出ると急に寒さが襲ってくる。さすがにこの時期になると、廊下が寒い。教室の温かさとの差で、より寒く感じてしまう。思わず身震いしてしまうほどだ。


「やぁ、三善くん」


 購買部の近くの廊下を歩いていると、不意に後ろから声をかけられた。振り向くと、すぐ後ろには黒崎さんがいた。


「こんにちは」


 黒崎さんは別に部活や委員会が一緒というわけではないけれど、何かと話をすることのある一つ上の先輩だ。それにしてもいつの間にこんな近くにいたんだろう。


「久しぶりだね。漫画の方は順調かな?」


 すっと顔を僕の耳元に近づけて来て、他の人に聞こえないように囁く。

 不意なその行動に、一瞬身体がぞくっとした。

 僕が漫画を描いていることは他の人には秘密にしていて、この人以外では一樹しかそのことは知らない。だから、周囲の人に聞こえないようにわざわざ気を使ってくれたのだろう。


「はい、なんとか。でもまだお見せできるような形にはなってなくて……」


「そうかい。それは残念だ。まぁ短時間で出来るようなものではないから仕方ないね」


 黒崎さんは、声をかけてきた時よりも少しトーンが落ちていた。

 僕が漫画を書き始めるようになったのは、ある出来事がきっかけで、人に希望を与えることのできる人間になりたいと切に思うようになったからだ。色々と僕が出来ることはなんだろうと考えていって、思い当たったのが漫画だった。

 小さいころから絵を描くことが好きで、絵を描くことが得意だったから、漫画でなら誰かに何かを伝えることができるんじゃないかと思ったのだ。


 けれど、漫画を書こうなんて思ったことはそれまで一度もなかったから、いざ書こうと思っても何をどう書けばいいのかがわからなかった。

 だから漫画の描き方について知識を得るところから始めた。マンガ独特の表現もあるし、コマ割りなど普通の絵の描き方とは違って、考えなきゃいけないことは多いのだ。それで、最近になってやっと漫画の基本的な描き方を覚えて、描き始めた。だから、まだ人に見せられるようなものは描けていなかったのだ。


「出来上がったら見せておくれよ。楽しみに待っているから」


 男の僕でも思わず惚れてしまいそうな爽やかな顔をして微笑むと、足早に遠くへ去って行ってしまった。相変わらず、とても魅力的な人だ。


「いいなぁー黒の王子に親しげに話しかけられて。私も話しかけられたいわ」


「すごーい。もしかして三善くん、あの黒の王子と知り合いなの?」


 黒崎さんが行ってしまうと、近くでやり取りを見ていた同じクラスの女の子3人がはしゃぎながら駆け寄ってきた。


「え……あ、別にぼくは……」


 返事をしようとすると、僕を無視するような形で、


「やっぱりカッコイイわー。っていうか三善くん、黒の王子と接近し過ぎだったしー」


「そうそう、あんなに顔近づけられたらやばいよねー」


「だよねだよね、私もああいう風なことされたい! なんちゃって。きゃー」


 とか言って、女の子だけで勝手に楽しそうに盛り上がっている。ただでさえあれ以来女の子と関わることが苦手なのに、こんな風な扱いをされるとどうしようもなくなってしまう。

 結局女の子たちは僕のことなど忘れて自分達だけで盛り上がるだけ盛り上がっているので、さりげなく何も言わずにその場から離れた。もちろん、僕がいなくなったことに対する反応などまったくなく、女の子たちだけで話し続けていた。

 そもそも、いなくなったことにさえ気が付いていないのだろう。


 なんだか気分が悪い。

 女の子達の言う黒の王子というのは、もちろん黒崎さんのことだ。この学校には、女の子から絶大な人気を誇る人物が二人いる。

 一人がこの黒崎さんで、もう一人が白の王子と呼ばれている今のサッカー部の部長だ。白の王子は黒崎さんの一つ上の三年生で、黒崎さんが入る前には、女子の人気を一人で集め、女の子達から王子と呼ばれていた。けれど黒崎さんが入学をすると、女の子の人気は二つに分かれた。

 それで王子が二人になってしまったので、区別するために黒崎さんは紳士的な風貌と名字から黒の王子といわれるようになった。

 

 黒崎さんに人気があるのはやはり何と言っても容姿の素晴らしさだろう。背が高くて、すらっとしていて、眼鏡を掛けているのだけれど、その黒いフレームの下ぶち眼鏡が整っている顔にとても似合っていて、知的で素敵だ。


 そして実際に黒崎さんは賢い。この前の全国模試で5位だったほどだ。しかも、その試験の時には風邪をひいていて体調が悪かったと言うのだから、本来の実力を出せていたのならば、全国一位になっていてもおかしくない。


 部活に入っていない黒崎さんがなぜ学力で言えば中堅レベルのこの私立高校にいるのかは謎になっていて色んな憶測が飛び交っている。一番有力な説としては、恋人がこの学校にいるからだという噂だけれど、目撃談もなく、黒崎さんに彼女がいるというような話は聞いたことがない。

 とにかくこの人については色んな噂がありすぎて実際のところはよくわからないことがたくさんある、不思議な人なのだ。


 どうしてそんな黒崎さんと、学年も部活も違って、何のかかわりもないはずの僕が親しくなったのか。

 それは入学してから3カ月も経たないある日の出来事からで、本当に突然の事だった。


「漫画を描いているだろう?」


 入学して2か月ほどしたくらいのある日の放課後、部活に行こうと人気のない廊下を一人で歩いていると、前から歩いてきた黒崎さんに、すれ違いざまにそう囁かれた。その時、黒崎さんと僕は全く面識がなくて、こちらが一方的に噂で黒崎さんのことを色々と聞いて知っているだけだったので、突然そんなことを言われた僕は驚いて、足を止めて振り返った。

 当然、声をかけてきたのだから、すぐ後ろに立ち止まっていると思っていたのに、黒崎さんはまるで何もなかったかのように普通に歩き続けていた。こちらから何も言わなければ、そのまま何処かへいなくなってしまいそうで、わざわざ意味深に言葉を囁いてきた人の態度とは思えなかった。


「待ってください」


 そう言いながら追いかけると、黒崎さんは立ち止まってこちらを振り向いた。声を掛けられるのを待っていたかのように、その動きには何だか無駄がなかった。


「僕に話しかけてきたということは、やはり君は漫画を描いているんだね。それは良かった。期待していた通りだよ」


 黒崎さんは小さく微笑んでいた。その微笑んだ顔が爽やかで、この人はなんて良い表情をする人なんだろうと思った。


「あ、あの……確かに、僕は漫画を描いていますけど、どうしてそのこと?」


「きみの心の中を見たんだ」


「えっ……」


「そうしたら、漫画について考えているきみの姿が思い浮かんだのさ」


 さっきまで優しそうに微笑んでいたのに、急に真顔になってきっぱりとした口調で言われたので、どきっとした。

 普通はそんなこと言われても、ただの冗談だと思うけれど、真剣な表情の黒崎さんが言うと本当の事のように聞こえる。黒崎さんの言葉にはどこか不思議な重みがあった。


「君の描いた絵も心の中でみたよ。センスのある絵だと思ったから、どうしても声をかけてみたくなってしまってね」


「そ……そんなこと言われても……」


 至って真面目な顔をして、すごい内容のことを言っている黒崎さんにどう反応していいか戸惑っていると不意に黒崎さんがふふっ、と声に出して小さく笑った。


「まぁまぁ、そんな変な顔はしないでおくれよ。なぁに、冗談だから。そういう超能力者みたいなことは生憎できないさ」


 呆気にとられている僕に、黒崎さんは優しく微笑みかけた。


「で、ですよね……びっくりしすぎてもうどうしたらいいのかわからなくて」


 本当はそういう超能力があるんじゃないかなんて疑念は消えないけれど、なんだかその言葉に安心した。後になってから思えば、一連のやり取りは、黒崎さんなりにいきなり話しかけたことに対する気遣いだったのかもしれない。

 黒崎さんは少しずれてしまった眼鏡を右手で直すと、本当の理由を説明し始めた。


「超能力があるなんて冗談じゃなくて、本当はきみが美術の授業で描いた絵が展示されていたのを見てね。その上手さに感心したんだよ。あれは他の人の絵とは違う独特な雰囲気を持った作品だった。それでどんな人がこの絵を描いたのかが気になって、ちょっと調べたんだ。それできみの事を知った。だから、きみは絵が上手いって事を知っていたのさ。その後にきみが一時期、指に絆創膏をしているのを偶然見たんだよ。あれはただの絆創膏じゃなくて、ペンダコが出来た時に使う絆創膏だった。美術部じゃないのにペンダコができていて、絵が上手い人間。漫画を描いている人間じゃないかと思ったとしても、何ら不思議はないだろう?」


 高校の美術の授業は選択授業の一つで、他の選択肢の音楽や書道よりも圧倒的に人数が少ないために、美術室前の廊下の壁に生徒が描いた絵を全員分、一定の期間展示していることがある。当然僕の描いた絵も飾られていた。あんな展示をしていても見る人なんていないのにと思っていたけれど、まさか真剣に見ている人がいたなんて。


 それに確かに薬が塗ってあるペンダコ専用の絆創膏をしていた時があった。そのほうが早く治ると、インターネットで知って買ったのだ。ペンダコ自体は大きいものではなかったので、すぐに治ったからそんなに長い間絆創膏をつけていたわけではない。

 普通の人なら何も気にしないで過ごすようなことを、この人は気が付いていた上に、絵のことと結びつけて、漫画を描いているんじゃないかということを推察したということが凄過ぎて、返す言葉が何も見当たらない。


「おっと、変な誤解はしないでくれ。別にきみのことだけを追いかけて見ていたわけじゃない。僕は人を観察するのが好きでね。たまたま色んな人を観察していたら、絆創膏をしていたきみを見つけただけなんだ」


 色んな人を見ていたならなおさら、たった一人のそんな些細なことに気が付いて、色んなことと結び付けるなんて、この人はどれだけ勘が鋭いのだろう。


「自分でもよくは分からないけれど、遺伝なのかなぁ。才能のある人間を見つけることが得意なんだよ。こんなこと言うと笑われてしまうかもしれないけれど、他の人よりも輝いて見える気がするんだよ」


 黒崎さんが言った遺伝というのは、おそらく家系の事なんだろう。黒崎さんの祖父は大企業の創業者で、父親は社長だという話を聞いたことがある。だとしたら黒崎さんもいずれは父親の後を引き継ぐのだろう。どちらにしても人を使う側の人間で、才能を見抜くことが重要な意味を持つのだ。


「まぁ、そんな話は置いておいて、もしよかったらきみの描いた漫画を見せてくれないか?」


「あの……それが、まだ描き始めたばっかりで、漫画として見せられるようなものは描けていないんです。すいません」


 一瞬がっかりとした表情に変わったけれど、それを悟られまいと思ったのか、すぐににこりと微笑んだ。


「そうなのかい。それは残念だ。それならば、いつかできたらぜひ見せておくれ。僕は頑張る人間は応援しているよ。何か困ったことがあれば、手伝えることもあるかもしれないから、僕のところに来てくれ。それじゃあね」


 そう言って黒崎さんは颯爽と去ってしまった。なんだかとんでもない人に関わってしまったなと、僕はしばらく唖然としてその場に立ち尽くした。

黒崎さんが僕を見かけるたびに何か話しかけてくるようになったのはそれからだった。

 最初はぎこちなかったけれど、黒崎さんは長年の友人かのように自然に接してくるので、段々と違和感なく話ができるようになっていった。そうしていつの間にか、まるで同じ部活の先輩と後輩かのような親しい関係になっていた。

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