亜鉛が結ぶ二人の絆

  ワシントン州 ハリソン夫妻の自宅 二〇一五年八月八日 午後六時〇〇分

 今日は大学での仕事が早めに片付いたことをうけ、ハリソン夫妻は早めに夕食の支度をしている。いつもは午後六時過ぎから夕食の支度をすることも珍しくないのだが、この日は早めに支度が出来た。ケビンとフローラはそれぞれ、自分の部屋で休んでいる香澄たちへ“夕食の支度が出来たから、一階のリビングへいらっしゃい”と声をかける。


 同時に食卓には香澄・マーガレット・ジェニファー・フローラ・ケビンら五人がすでに集まっている。家族五人で揃うこの光景も久しぶりで、この時ばかりは堅苦しい話は抜きにして世間話に弾んでいた。

「どうかしら、今日のビーフシチューは? みんなのお口に合うと良いのだけど……」

一人不安そうにしながら、皆へ軽く視線を投げるフローラ。


 テーブルに並べられたスプーンを使い、さっそく一口味見をするケビン。いつも通りの微妙な味加減に満足したケビンは、その気持ちを表現するため左手の親指を上に向ける。同様の理由から、ビーフシチューを口に含むマーガレットとジェニファーもまた、フローラの料理に舌鼓したつづみを打つ。

 しかし香澄だけはどこか重い表情をしており、軽く眉間にシワを寄せながらビーフシチューを見つめている。そして何度かビーフシチューを堪能した後で、

「……フローラ。今日のビーフシチュー、いつもより少し気がしません?」

悪いとは思いつつも自分の率直な気持ちを伝える香澄。

「えっ、それ本当!?」

と不思議に思いながらも、フローラは自分の作ったビーフシチューをスプーンに一口すくい、さっそく味を確認する。


 しかし香澄が指摘するような味の薄さは感じられず、フローラにはその違いが分からない。軽く一呼吸置いてからフローラは、

「ごめんなさい、香澄。ちょっと気になって口にしてみたけど、私には味が薄いとは思わなかったわ。香澄の気のせいじゃないかしら?」

いつも通りのビーフシチューだと指摘する。その言葉を聞いた香澄は軽くため息をつきながら

「……やっぱり私の気のせいだったみたいですね。ごめんなさい、変なことを言って」

とすぐに謝罪するが、フローラの意見にどこかに落ちないという顔をしている。


 二人がビーフシチューの味について話している間、マーガレットは香澄の顔へ視線を移す。……ここ最近香澄の様子がおかしいと不審に思っており、いつになくマーガレットの心は不安を抱く。

 だがその一方で、悪い方向へ考え過ぎてしまうこともマーガレットの悪い癖。今回の一件だけで決めつけるのは早計すぎると思ったのか、

「ねぇ、香澄。それってもしかして、が不足しているからじゃない?」

とっさに助け舟を出した。“それってどういうこと?”と横にいるジェニファーが尋ねると、

「うん。劇団で一緒に仕事している子がこの間ね――偏った食生活をしたことが原因だと思うんだけど、一時期食べ物の味が分からなくなったことがあるの。そんな時に亜鉛サプリをしばらく服用していたら、症状も治まったのよ。ほら、最近の香澄って少し偏った食事を取っているでしょう? だから香澄もおそらく、亜鉛不足が原因じゃないかな?」

亜鉛が不足していることが原因だと、マーガレットは改めて強調する。


 亜鉛には新陳代謝を正常に保つ効果があり、体内のたんぱく質の代謝を促進させることが出来る成分。それによって美肌や美髪効果などが得られ、自分の髪に特別な思い入れがある香澄にはうってつけの成分。同時に免疫力を向上させる働きもあり、風邪や感染症予防などに絶大な効果を発揮する。

 そして亜鉛には味蕾みらいと呼ばれる受容器官を正常に保つ効果もあり、正常な状態なら食べ物の味をより詳しく感じ取ることが出来る。逆に亜鉛が不足してしまうと味蕾が正常に機能しなくなり、軽い味覚障害を発症してしまうことがある。


 自信ありげにマーガレットがジェニファーへ説明しており、そんな彼女の顔を見ている香澄の表情は穏やかだ。心理学に直結する内容ではないが、香澄は独学で薬学の勉強もしている。なので亜鉛という成分が体内にもたらす効果も、むろん香澄は知っていた。

 しかし今の香澄にとって、薬学の知識などどうでも良いことだった。普段はなかなか表に出さないマーガレットの優しさに触れ、香澄の心は少しだが平穏を取り戻しつつある。

「ありがとう、メグ。明日街へお散歩へ行った時に、亜鉛サプリを買ってみるわ」

「そんなことしなくてもいいよ、香澄。……私が普段から使っているので良ければ、食後に少しあげるから」

「えぇ、分かったわ。メグ、本当にありがとう」


 原因こそ分からないが、何故か微妙な味が分からなくなる香澄。どこか本調子ではないものの、リビングには屈託な笑顔を見せる香澄の眩しい表情がとても印象的。

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