気持ちが上の空な香澄

   ワシントン州 ハリソン夫妻の自宅 二〇一五年八月八日 午後四時〇〇分

 マーガレットと一緒に発声練習の相手をした香澄と、その姿を静かに見守っていたジェニファー。そんな彼女たちの練習は一時間ほどで終了し、三人は一階リビングへと向かう。香澄が冷蔵庫からミネラルウォータを取り出し、人数分のグラスを用意して順番に注ぐ。

 そしてグラスを先にソファーへ座るマーガレットとジェニファーに渡すと、“香澄、ありがとう”と二人は返す。その言葉に優しい笑顔で返した香澄は、部屋のソファーへ一人静かに腰を下ろす。香澄がソファーに座ったことを確認したマーガレットは、

「ジェン、香澄。今日は練習に付き合ってくれてありがとう。……お疲れさまでした!」

一言お礼の述べると同時に、若干枯れ気味の喉を水で潤す。そして一足遅れて、香澄とジェニファーも順番に喉を潤していく。


 リビングで軽く一息ついたところで、マーガレットが香澄へ世間話を持ちかけようとした。だがそこへちょうど、

「ただいま。……みんな、いるかい?」

中年男性の元気な声がリビングまで聞こえてきた。そして間もなく声を出したであろう中年男性と、品の良さそうな中年女性がリビングへ姿を見せる。

「あっ、ケビンにフローラ。おかえりなさい。……まだ午後四時ですけど、今日はもうお仕事終わったんですか?」

「ただいま、ジェニー。えぇ、ようやくお仕事も一段落したところだから、新学期が始まるまではいつもより早く帰れると思うわ」


 ジェニファーにそう答えた女性は、ワシントン大学で心理学の講師を務めるフローラ・S・ハリソン。フローラは現職の臨床心理士でもあり、アメリカ国内で多数の著書を出している著名人でもある。同時に性格も穏やかで温厚ということもあり、フローラの人柄に憧れる人も少なくない。

「メグ、練習の調子はどうだい? もうすぐ次回公演の重要な役決めに向けたオーディションがあるけど、その点は大丈夫かな?」

「もちろんよ、ケビン。ついさっきまで、香澄とジェニーたちと一緒に発声練習していたんだから」

「……そうか、だったら大丈夫だね」


 この家の持ち主で大黒柱でもあるケビン・T・ハリソンは、ワシントン大学で英語と日本語の二ヶ国語を教えている教授。時折ユーモアや冗談を言いながらその場を和ませるその姿は、マーガレットとは別のタイプのムードメーカーだ。

「今日は僕とフローラが夕食の準備をするよ――久々に僕らが腕を振るうから、今日の夕食を楽しみにしてね」


 いつものように陽気な声がリビングから聞こえてくる中で、香澄はただ一人どこか浮かない顔で外を眺めていた。そんな香澄が少し心配になったフローラは、

「香澄、どうしたの? ここ最近、何だか元気がないようだけど……」

優しく彼女の横に歩み寄りながら声をかける。

「えっ? 私は大丈夫ですよ、フローラ」

フローラの問いかけに一瞬瞳孔どうこうが大きく開くものの、いつものように淡々と言葉を返す香澄。

「そう、なら良いのだけど……」


 香澄の心の傷が再発したのではないかと、一人言葉にするフローラ。しかしフローラが知る限りでは、今のところ香澄の外見や言動などに大きな変化は見られない。また自身の臨床心理士からの経験を踏まえても、現状においては様子見が妥当だと判断したようだ。

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