episode 7 新聞記事

「ただいまァ」

 誰もいないのはわかっていたが大きな声をかけた。当然返事は返ってこない。  ちょっと拍子抜けした気分で自分の部屋に向かう。ドアを開けたとたん、生ぬるい空気が顔をめがけて押し寄せてきた。急いでエアコンのスイッチを入れる。机に戻ると、パソコンの電源を入れた。OSが立ち上がるまでスマホをチェックする。 LINEも着信もなかった。やっとのことでパソコンのメールを開いてみると、全部迷惑メールばかりで、友だちからのものはひとつもなかった。ちょっと寂しい気分に見舞われる。

 ふとママが洩らした「……大事なひとならなおさらのことね」、といった言葉が胸のどこかに引っかかっている。

 誰も告げ口をする人間などいないはずなのにどうしてだろう……。

いや、きっとただ言葉の綾でいったに違いない。だってわかるはずがないもの。

 それ以上に気がかりなことがある。健斗の記憶消滅についてだ。

あの花火の晩、嵐のようにとおり過ぎて私の胸の中を掻き乱したキス。

朝方まで私を眠りに就かせなかった健斗のキス。

もしこれらの事実(私はそう思っている)が健斗の記憶からなくなっていたとしたら、この私の気持はどこに向ければいいのだろう。 

 私は机に向かって両肱をつき、掌に顎を載せたままどうしたらいいのか真剣に悩んだ。いますぐに健斗のところに電話してそれとなく聞いてみようか。でも、もしママがいうように記憶がなかったとしたら、自分があまりにも惨めでならない。胸が痛くなった。こんなとき、都合よく健斗からかかってこないものかと淡い期待をかける。しかしすべてが自分の思いとおりにいくはずはなかった。


 日曜日の朝早くに、パパが運転して郊外の墓地に三人で向かった。

 パパの会社にはお盆休みというものがなくて、夏期休暇はみんなが交代で休みをとる。パパは毎年この時季を部下に譲って、自分はもう少し涼しくなってからとることに決めているようだ。だから、お盆の墓参りは昨日か今日しかなかった。生憎土曜は別の用事があったためにきょうが墓参りになった。

 家を出るとき、私はもっとゆっくりと家を出ればいいのにとこぼしたら、お盆の道路は、比較的市街地は走りやすいが墓地に近付くにつれて渋滞がはじまるのと、それに加えてきょうが日曜なことがあって普段よりも人手が多いから早く向こうに着かないと、今度はいつ帰って来られるかわからない、とパパに諭された。

 確かにパパがいったとおり、墓地に入ると駐車場はもちろんのこと、敷地内の道路も両側に車がびっしり停められていた。車から降りたとたん、街路樹として植えられた桜の木からアブラ蝉のけたたましい鳴き声に一瞬気おくれする。

 墓まで歩きながら、この前ここに来たのが霙まじりの雨と冷たい風の吹きすさぶ最悪の日だったのを思い出した。

 墓の周囲にびっしりと背伸びをした雑草をむしったあと、途中の花屋で買った花を対の花立に差し、御影石の墓石を奇麗に掃除をした。パパは木陰に入ってタバコを喫いながらのんびりと私たちを見ている。風を避けながらロウソクの火を線香の束にまんべんなく移す。夏の光りに負けないほどの白い烟が揺れながら立ち昇り、やがてどこかに消えてゆく。周りの墓石のあちこちからも烟が上がっていた。

 私はママがどこにいるのか気になってしかたがない。

「麻柚、何そわそわしてるの? トイレでも捜してるの?」と、姉。

「ううん、そうじゃないわ。あまり陽射しがきつくて涼しいとこがないか捜していたの」

 目を合わさずに白いハンカチで顔のあたりに風を送る。

 線香がすべて燃え尽きるまで見守って車に戻ったから、かれこれ四十分ほど炎天下にいたことになる。結局ママの姿を見つけることができなかったが、車に乗るまでの道すがら、電柱のてっぺんに留まってこちらを見ている一匹のハシブト鴉が目についた。ひょっとして、黒い羽根を艶やかに見せたその鴉がママではないかと思った。


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