6-3

 ふたりの間に気まずい空気が流れている。私は健斗のしたことに対して腹を立てているわけではなく、こういう場合は健斗のほうから話しかけるのが常識だと思った。おそらく健斗もキスをするのがはじめてで、どう言葉をかけたらいいか戸惑っているに違いない。

 私は段々と腹が立ってきて、自転車にまたがると一目散に来た道を引き返した。橋のたもとまで一度も振り返ることはなかった。

「麻柚、ごめん。怒らないでくれよ。俺、本当は麻柚のことが前から好きだった。だから花火大会の日にはキスすると決めてた」

「怒ってなんかいないよ。でも、健斗はまだ女の子の気持をわかってないね」

 突き放した私だったが、内心コクられたことに悪い気はしなかった。そういう私だってはじめてなんだから……。

 橋を渡ると、健斗が自転車を置いて私に近付いて来た。私にはわかってる。両手をまっすぐに伸ばし、私の両肩を軽く掴むと、首を傾げて優しく唇を吸った。今度の私は自然と目をつむっていた。花火帰りのひとなのだろう、話し声が徐々に近付いて来る。いまの私は誰に見られても恥ずかしくないと思ってる。いま世界中に健斗しかいないと思いながら抱かれている自分が、まるでドラマのヒロインになっていた。

 夏草の匂いが爽やかに感じた花火大会の夜だった――。


 健斗と別れて家への道を急ぐ。ふたりでいるときはそうでもなかったが、ひとりになるとあのおぞましい光景が網膜に浮かび上がってくる。払拭しようとすればするほど鮮明になり、寒いはずもないのに躰がわなわなと震えた。

 家の前まで来ると明かりが点いていた。勢いよく玄関のドアを開け、スニーカーを脱ぎ捨ててリビングに顔を出すと、案の定お姉ちゃんが帰っていて、のんびりとポテト・チップを食べながらテレビの歌番組を観ているところだった。

「ああ、お帰り。花火どうだった?」

 お姉ちゃんはテレビから目を離さないまま、指先についた塩を払い落として私に訊ねる。

「うーん、とっても奇麗だったよ。こう夜空にいろんな色の花が咲いたみたいで」

「で、麻柚はどこで見てたの?」

「うん、ドロ川を十分くらい下流に行ったとこ」

 私はふいの質問にどぎまぎしながら答えた。本当のことは口が裂けてもいえなかった。

「ふうん。で、誰と花火に行ったの?」

「何で? 別にィ……。お姉ちゃん、そういうとこママにそっくりだよ」

 私は充分に嫌味を込めていった。

「あっ、麻柚、口元に何かついてるよ」と、私の顔を覗き込んだお姉ちゃん。

「ええッ」

 私は慌てて口元を手の甲で何度も拭った。

「嘘だよーっ。ちょっとカマかけてみただけ」

「うん、お姉ちゃんのいじわる!」

 私は、顔を赤くしてハンカチを口元に当てたまま二階に駆け上がった。

 ベッドに入っても健斗の姿が目蓋の裏側に張りついて離れようとしない。まだ唇に熱い感触が残っている。これまではそれほどでもなかったのに、いまでは健斗を意識してしまっている。私は本当に健斗を好きになってしまったのだろうか。正直なところ自分でもよくわからない。

 もんもんとした時間を過ごし、そして何度も寝返りをし、結局眠りに就いたのは空が白みかけてからだった。

 

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