episode 6 初めてのキス
きょうは花火大会の日。
打ち上げがはじまるのは七時からなので、健斗との待ち合わせは少し早めの六時にドロ川の堤にした。昨日のうちにお姉ちゃんには話してあったので、インスタント焼ソバで簡単に夕食をすませた私は、健斗に会うのを愉しみにして家を出た。
真夏の六時はまだ眩しいくらいに明るい。花火大会を見に行くのであろう、母親と手を繋ぐ浴衣姿の幼子のつまずきながら歩く姿が可愛らしかった。
少し短めのカーキ色のカーゴ・パンツに白いTシャツ。その上にブルーと白のチェックの綿シャツを重ね着した健斗が必死で自転車をこいでこちらに向かって来るのが見えた。私はリレーのバトンをもらうときのようにじりじりとしながらあの橋のたもとで待った。
「ごめんなァ、カアさんがちっとも飯を作ってくれないもんだからさァ」
「いいよ、だってまだはじまるまで時間はたくさんあるから。それよりすっごい汗だよ」
健斗の額を指差しながら笑った。
「そうかァ」健斗は腕で額を拭う。
「ふふふ」
「なに?」
「ううん、何でもない。ただ健斗の子供みたいな仕草が面白かったの」
「なに大人びた言い方してんだよ。いいから花火が見えるところに急ごう」
健斗はペダルに足をかけ、いまにも走り出しそうな恰好を見せる。
「大丈夫だよ。きょうは健斗のために取って置きの場所を捜してあるんだから」
「取って置きの場所?」
「黙って私のあとについて来くればいいから」
私は何も説明しないまま橋を渡る。中程でやはり気になって振り返ると、健斗は気にかける様子もないままのんびりと橋を渡っている。
「何か奇妙なとこだな」橋を渡り終えたとき、ぽつりと呟いた。
「ああ、あのうっとうしい蝉の鳴き声がないからそう思うんだよ、きっと」
「そういえばそうだなァ。きっとそうかもしれないな」
深くこだわりを持たない健斗に安堵し、ふたりでママの家の前をとおり過ぎると、まっすぐな道を河口に向かってひた走る。この間夕方この街に来たときと同様に人影がちらほら覗える。これなら健斗も疑うこともないだろうと思いながら五分ほど走った頃、健斗が背中から大きな声で訊いた。
「おーい麻柚、まだかよーォ。何かが背中から追いかけて来るみたいで、薄気味悪いんだけどォ」
振り返ることもなく、もう少しだよと、平然を装いながら走りつづけた。
右手に三階建ての古ぼけた建物が見えてきた。いまは廃墟と化しているが、昔は病院であった建物だ。
「ここよ」
「ええッ!」
「なに、ビビってんの?」
「ビビってなんかねえよ」
自転車から降りた私は、鉄骨の屋外階段を昇りはじめる。
手摺りといい、ステップといい、いたるところに赤錆が浮き出て、ざらついた感触と悲鳴のような軋み音が伝わってくる。二階まで昇り終えたとき、首を伸ばして健斗を見降ろすと、ここからでははっきりと覗うことができないが、どうも深刻な顔付きで必死に私のあとをついて来ているみたいだ。
まだ充分に明るさを湛えた夕空だったが、さすがにフェンスの影は長くなっている。周りは住宅ばかりでここより高い建物は見当たらない。家々の瓦が眩しく光っているのが見えた。
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