episode 4 ママの家

 いつものように家事をすませ、ママとの約束のために家を出る。あまりにも強烈な陽射しに、まともに太陽を見ることができない。太陽の匂いがしていた。

 あたりに気を配りながら橋を渡り、ママの家の前まで来ると一瞬ためらいが生じた。いまでもこの家にママが住んでいるとは思えない。左右の様子を覗ったあと、思い切って玄関のガラス戸を開け、押さえた声でママを呼ぶ。返事がなかった。不安が過ぎる。もう一度前よりも少し大きく呼んでみる。やっとひとの気配が伝わってきた。

「着てくれたんだね。さあ、遠慮することないから上がりなさい」

 私はママのあとについて六帖の座敷に入った。中央に座卓が置いてあり、部屋の隅に目をやると粗末な仏壇が据えられてあった。

「あれって仏壇だよね?」とママに訊く。

「そうだよ。お爺ちゃんとお婆ちゃん、それに私が入ってる仏壇。麻柚お参りしてくれる?」

「うん」

 私は何の抵抗もなくロウソクに火を燈し、経机の上に置いてある線香を一本手にすると、ロウソクの火を移した。立ち昇った線香の匂いを嗅いだとき、はじめて橋を渡った場面が脳裡を掠めた。私は家でお供え物をするときくらいしかロウソクや線香を燈さない。いつも火を点けるのはもっぱらパパかお姉ちゃんで、私は火の後始末が多かった。

 りんを叩いて合唱したあと、私が座敷を振り返ると、そこにママの姿はなかった。エアコンはなかったが、開け放たれた縁側からのひんやりとした風が心地よかった。そのまましばらく待っていると、ママがお茶を持って部屋に戻って来た。

「お参りしてくれたんだね、ありがと。ごめんね、ここにはお茶しかないから……」

 ママは私の前にお茶を薦めながらいった。

「いいよ、別に」

 私は、昨日ママに会ったときからまともに顔を見ることができない。まるで初対面のひとと接しているみたいな自分がとてもまどろっこしく思えた。

「そういえば、あさってパパの誕生日だよね」

 ママは湯呑を手にしながら目を細めて私を見た。

「覚えてたんだね。こっちに来ちゃったからすっかり忘れてしまったのかと思った」

「忘れるはずないわよ。夕子のも、麻柚のもちゃんと覚えてる」

「みんなで焼肉に行くことになってるの。ママも一緒に来れたらいいのにね」

 私はママの置かれた立場を忘れてつい本心を口にしてしまった。

「残念だけど、ママはあの橋を渡ることはできないわ。遠くから麻柚たちのことを見てるしかないの」

 ママの心惜しいばかりの言葉を聞いたとき、私は泪をこらえることができなかった。


「昨日声をかけられたとき、私の頭の中にいるママとは随分違っちゃったから、すぐにはわからなかった。声には聞き覚えがあったけど、あまりにも感じが……」

 私は話を変えたかったこともあって、思い切って訊いてみた。

「ここは麻柚のいる世界と違って、犬や猫みたいな動物と同じように、時間の経つのが十倍くらい速いの。大袈裟ではなくて、自分の姿が毎日変わっている気がするわ」

「……?」

 そう説明されても私にはピンとこなかった。

「この街は、歳をとってから亡くなったひとは住むことができないの。だからこの街に住んでいるひとはみんな若くして他界したひとたちばかり。でも、いまいったように時間の流れが速いから、ここで歳をとってしまうとまた別の場所に移らなければならないの。ママが思うには、ここにいられるのもお盆までのような気がするわ」

「うそォ、お盆っていったらもうすぐじゃん、どうして? ずっとここにいられないの?」

「だめなの。ママだっていつまでも麻柚の傍にいたいと思うけど、こればっかりはどうしようもないわね」

 ママの決心はすでについているらしく、恬淡とした口調で話す。

「行かなくてもいい、何かいい方法はない?」

「うーん、ひとつだけあることはあるんだけど、これはほとんど不可能だわ」

「ひとつだけって?」

 私はママのためにできることなら何でするつもりだった。

「麻柚がどうしても訊きたいというんなら話すけど、正直なところあまり聞かせたくはないわね」

 ママはそういってから唇をきつく結んだ。

「いいから、話して」と、身を乗り出した。

「――以前この近所にもそういうひとがいてね、そのひともいってたんだけど、若いひとの『気』を躰の中に入れることによって、永久とはいかないけど、別の場所に行くのが多少延ばすことができるらしいの。でもそんなこと夢物語みたいな話だから……」

「『気』を入れるって、具体的にはどういうこと?」

「もうやめよ、麻柚にはとても話せそうにないし……」

 ママは強く目をつむって何度も首を横に振った。これまでのママと違ってえらく歯切れが悪い。

「いいから話して。だってママは私によくいったじゃない。人間諦めたら先に進めないって」

「そうだけど、こればっかりは……」

「だって、ここまで聞いてすごすごと帰れないよ。それに、このままママに二度と会えなくなったら、それこそ一生悔いが残るんだからね」

「麻柚がそこまでいうんだったら、いいわ、思い切って話すわ。――躰に若いひとの『気』を入れるってことは、つまり命をもらうっていうことなのよ」

 私はママの話を耳にするまでは軽く考えていた。ところが、それはすぐに方法の見つかる問題ではなかった。でも、私はママのために何とかしたかった。

「それって、ひょっとして、私でも……」

「バカなこといわないの」

「でも、もしそうなっても、ママと一緒にいられればいい」

「麻柚のママを思ってくれる気持は、泪が出るくらいに嬉しいけど、一時の現実からの逃避に、まだ将来のあるあんたを犠牲になんかできるわけないじゃない。それに、もし仮に麻柚がそうなったとしたら、あとに残ったパパと夕子はどうするの? また悲しさに胸を痛めることになるでしょ。麻柚までがいなくなったらパパどうなると思う? きっとパパは気が触れるに違いないわ。それでもいいの?」

 とても真夏の白昼に話すような話の内容ではなかった。

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