2-5
例の橋のことが気になった。
果して来たときと同じように架かっているのだろうか。何か隠し事でもしているようで、無意識のうちに胸が烈しく鳴った。幸希の話しかけにもまともに応えることができない。
首を伸ばして遠くを見るが、ここからでは橋らしきものは見えない。やはり気のせいだったんだ、と言い聞かせた私は、前を走る幸希に追いつこうと思い切りペダルを踏んだ。
ところが、近くまで来ると橋を見たのは気のせいではなく、本当に架かっていた。私は夢でも見ている気分に見舞われた。
家に戻って早速調理に取りかかった。私が野菜を洗い、幸希がおぼつかない手で包丁を握り、恐るおそる野菜を切る。見兼ねて手伝おうとすると、いままでに見せたことのない顔で断固として譲らない。幸希の負けず嫌いの一面を垣間見た気がした。仕方なく鍋に水を張ったあと、フライパンで牛肉に火を入れる。すべての準備が整うと、あとは時間をかけて煮込むばかりだ。サラダは食べる寸前に拵えればいいので、カレーができ上がるまでオレンジ・ジュースでも飲んで時間を潰すことにした。
ときどき思い出したようにエアコンの心地よい風が頬を掠める。
橋のことが気にかかっている――。
幸希はグラスを口に当てたまま、黙って庭先を眺めていた。
キッチンに鍋の様子を見に行って戻って来ると、急に幸希が口を開いた。
「先輩、ちょっと訊いてもいいですか?」恥らいを込めて椅子に坐り直す。
「なに?」
「先輩、ボーイフレンドいますよね」
「はあッ?」
「チラッとウワサで聞いたんです、学校で」
「ウワサって?」
「カッコいいですよね先輩のカレシ」
「それって健斗のこと?」
「健斗さんっていうんですか? うちのクラスで評判なんです」
「へーえ、そんなことになってるんだ。確かに健斗と付き合ってはいるけれど、そんなに深くないよ。気が向いたら電話かLINEするくらいで、ほんとにたまに映画観に行ったり、ボーリングとかカラオケする、そんな程度」
幸希にいわれてすっかり忘れていた健斗の顔が浮かんできた。夏休みに入ったばかりのときにカラオケ・デートをして以来だから、二週間ほど連絡を取ってない。
西脇健斗は、私と同じ二年生で、私はE組で健斗はA組。切れ長の目に形のいい鼻。私がいうのも変だが、どちらかといえばイケメンの部類に入る顔立ちをしている。背がすらりと高くて一見するとスポーツ万能に見えるけれど、意外なことにそっちのほうはさっぱりだということがあとになってわかった。付き合いだしたのは一年生の終わりの頃だったから、そろそろ半年になろうとしている。
健斗と知り合ったのは、学校の購買にランチのパンを買いに行ったとき、急いで教室に戻ろうとした私と肩があたったのがそもそもの発端だった。
ぶつかったとき、私は気が動転して何が起こったのかまったくわからなかった。樹脂タイルの床に転がり落ちた私のコロッケ・パンを拾った健斗は、「ごめん」といいながらそっと手渡してくれた。私は健斗の手からコロッケ・パンを奪うと、黙ってその場から駆け出した。コロッケ・パンを見られたのがすごく恥ずかしかったのを覚えている。
正直なところ、その時点では健斗の顔が記憶になかった。しかし向こうはしっかりと覚えていたらしく、登校時や廊下ですれ違った際に私に「ウッス」と声をかけてくるようになった。
はじめの頃はどう返事をしたらいいのかわからなくて、ただ黙って軽く頭を下げるだけだったが、私が夕飯の買い物にスーパーに行ったとき、偶然健斗と出会った。
声をかけたのは健斗のほうからだった。ソフトクリームを食べようと誘われた私は、何となく健斗のあとについて行ってしまった。
それが私の前に立ちはだかっていた大きな壁を取り除くことになり、以来気分転換をしたくなったとき、健斗を誘うようになった。
キッチンから食欲をそそるいい匂いが漂ってくる。いつも思うのだが、カレーを拵えたときはこの瞬間がたまらない。思わず大きな声でいってしまった。
「幸希、できたみたいだよ、カレー」
スリッパの乾いた音を立てながら小走りにキッチンに行く。すぐ後ろを幸希が追いかけて来た。
「先輩、チョコレートってありませんか?」
「確か冷蔵庫に板チョコが入れてあったはずだけど、なに、食べたいの?」
「違います。カレーに入れるんです」
幸希は手を振りながら笑っていった。
「カレーにチョコレート?」
「ええ、隠し味にうちの母がよくやってるのを思い出したんです」
「何か面白そうね。やってみようか? こんなのでいい?」
私は冷蔵庫のドア・ポケットから板チョコを取り出して幸希に見せる。
「大丈夫です」
幸希は手早く包装紙を剥がすと、半分に折ってクツクツと音を立てている鍋の中に放り込んだ。
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