第四幕 隠蔽都市

 赤い鷹と名乗る一団と警務官に、マルク達は連行された。最寄りの診療所に居た魔術師を一人緊急で呼び出し、総督府へと続く軌道船に乗せた中で治療を施している間、タウロは警務官に拘束されていながら気が気ではなかったらしい。椅子に座って両手を支柱に拘束されていたにも関わらず、何度も立ち上がっては応急診察台の上で眠るイェウルの様子を伺い、その度に警務官に無理やり座らされていた。

 少し離れた別の支柱に、同じ様に拘束されて床に腰を下ろしていたマルクは、一切動きを見せなかった。今自分がそれをする意味は無いと、良く理解していたのだ。

 タウロと違い、マルクの周りに警務官は居なかった。すぐ隣に立っている、シーリーンと名乗るあの女が「必要無い」と宣言したのである。警務官はそれでもトン族であるマルクを警戒していたが、一切抵抗する素振りを見せない彼に興味を無くし、やがて誰も彼の方を見なくなった。軌道船を動かす魔術師も、魔力と船の操作に集中している事だろう。

 船の稼働音に紛れ、傍に立つシーリーンが話し掛ける。

「何処を目指していたの。逃げる場所なんて無いのに」

 落ち着いた、しかし暗い声だった。そう言われると弱いね、と呟いてから、マルクは答えた。「喜びの壁って場所だよ。聞いた事は?」

「無い」

「そうか。俺達の世代だと、結構噂で話す事が多いんだけど」

「噂?」

 本当に知らない様子だったので、簡単に喜びの壁について話した。許されない恋、特に他部族間での恋愛の末、通常の社会で生活に困窮した恋人が最終的に行き着く場所だと話す。「多分、総督府の庇護するこの社会で生活に困らない人には、無縁の話なんだよ」

 言うと、シーリーンは「そうかもね」と短く答えて、それきり口をつぐんだ。それまで、情報交換を兼ねてこうして近距離での会話をしていたのだが、今の話の何処にシーリーンの気にする要素があったのだろう。

 シーリーンが、影からこうして手を貸すと言った事に関して、実はマルクはそれ程懐疑的ではなかった。それは二週間前に、彼女が下層民階級階層の子供の為にした事を知っているから、というだけではない。先程見せた、仮面の上からでも分かるあの追い詰められた様な表情は、狙って容易に偽れるそれではないと直感的に理解したのである。

 無論、イェウルにした事自体は決して許せるものではない。だがそれでも、タウロの様にシーリーンを強く憎むという事も出来ない。ただ、マルクは許せてしまうのだ。

 家族やタウロ以外の誰かに対して、こうまで心を許そうと思える事は無かった。何故だろう、と考えて、そのままマルクは沈黙する。

 ややあって軌道船は遂に、中流階級階層を遥か眼下に臨む、この社会の最高地位の人間が住まう階層・中央区へと到着した。

 下層とは比較にならない量の魔術燭台が設けられ、目が眩む程に明るい。中央区画敷地内を隔てる城壁と門戸前の広場には、飲み水や沐浴以外に使われる事が滅多に無い水が、凝った意匠の水桶に意味も無く注がれている。道を歩く人の恰幅は皆良く、いかに食物が潤沢であるかを如実に物語っていた。

 呆気に取られているマルク達を引き連れ、警務官は二人を囲み、乱暴に連れ回した。巨大な門戸をくぐり、大広間入り口すぐ手前の階段を下っていく。上流階級らしい市民や貴族が、蔑む目付きでマルクとタウロを見て笑っていた。イェウルは担架に乗せられた状態で魔術師と共に別の場所へと向かう。タウロが彼女の姿を見て一度暴れたが、警棒で強く叩かれ、抵抗を止めた。

 しばらく道を進み、何度も角を曲がり階段を降りていくと、やがて燭台の光も弱くなっていった。そうして連れて来られた薄汚れた扉の向こうには、鉄格子の檻が幾つもある監禁部屋だ。それぞれの檻にマルクとタウロが収監されたのを確認し、シーリーンは警務官に言う。

「下がっていて下さい。こいつらに聞く事があります」

「しかし、警備を怠る訳には……」

「総統の特命による特権です。立ち聞きも介入も無用。逆らえば、今度は貴方がたがここで監視される立場になるんですよ」

 冷たい、淡白な言葉だった。体を震わせて「失礼しました」とだけ答え、警務官は皆牢を出て扉を固く閉ざした。

 ふう、と息をついて、シーリーンは仮面を外す。

「堂に入った演技だね」

 平坦な口調でマルクは言う。間髪を空けず、タウロが噛み付いた。

「おい! あの子は……」

「魔術師の手に掛かれば、命に別条はありません。そこだけは本当に信じてもらいたい。それと、貴方達に会わせなければならない人が……」

 言い終わらない内に、その声は牢の中で大きく響いた。

「マルク? マルクか!」

「父さん?」

 石壁と牢の位置の所為で顔は見えないが、間違い無くそれはイシオの声だった。タウロが収監されたのとは逆方向の壁に向かって体を付け、格子の隙間から腕を伸ばす。それを握り返す手は、驚く程細かった。その瘦せ細り具合に少なからぬ衝撃を受けたが、それでもマルクは安堵する。ははっ、とイシオも笑い声を上げ、強気な口調で叫んだ。

「もう大人しくしてる必要は無くなったぞ、リン族の女! こうなったら暴れて……」

 だがそんな彼を、他でもないマルクが止めた。「駄目だよ。彼女は協力してくれる」

 思えば、こうして父に対して民族差別に対する反抗の言葉を静かに口にするのは、初めてだったかも知れない。一週間前に言い合いをした時は、ただ怒鳴ってしまっただけという感覚があったからだ。と、意外にもイシオは口ごもって話を止めた。一週間の牢獄生活で、少しは丸くなったのだろうか。

「僕は信用してないぞ」

 即座にタウロの声がする。彼に関しては現状、マルクが強く言える立場には無いので何も言えない。それでも、シーリーンはゆっくりと話した。

「信用して貰えないのは分かっている。それでも、何とか命が助かるように最大限の努力をする。何処まで出来るかは分からないが……」

「俺らが死ぬのは前提なのか」

 思わず問うと、シーリーンは残念そうに答えた。「大手企業社長の令嬢を拉致したトン族の貧民、というだけで、総督府は貴方達の命に何の執着も無いだろう。一応、形式的な裁判は行われるだろうが……意味なんて無い」

 じゃあどうしろと言うんだ、とイシオが怒鳴る。シーリーンは顔を伏せ、その質問には答えなかった。答えられないのだろう、という事は容易に理解出来る。嘆息し、マルクはイシオから手を離し、壁に背を預けて脱力する。「せめて、ここから抜け出す道は教えてもらえないかな」

「ここは中央区総督府の地下最深部で、基礎地盤階層の下側に位置してる。逃げるには上へ行くしか無いが、私達が入ってきた一階の大広間まで、他の建物へ行く道は無い。道も入り組んでいるから、単純に貴方達が脱走しても逃げ切れない」

 沈黙が降りた。自分達の追い込まれた状況を、改めてじっくり理解してしまう。マルクは最後の確認として、「裁判はいつ開かれるんだ」と訊く。

「多分、明日に休みの鐘が鳴る頃には、そこから最終判決まで、半日と掛かるまい」

 シーリーンは最後に、死刑だけは何としても止めさせる、と口にして仮面を再度被った。だがそんな彼女に対し、タウロは冷たく、重く、吐き捨てる。

「イェウルともう会えないなら、僕だけでも殺せ」

 驚き、マルクは格子越しにタウロの方を見た。向かいの牢でシーリーンを睨む彼の目は、本気だ。「あの子が居ないなら、誰も僕に付き合う必要は無い。僕一人を主犯に仕立て上げて、マルクと親父さんは釈放するように言え」

「おい!」

 マルクとイシオは同時に声を上げ反対する。シーリーンも、タウロの提案に反対した。

「それはきっと、イェウルさんが一番望んでいない事だ」

「それでも、無駄に誰かが死ぬ必要は無い」

「どうしてそこまで命を張れる?」

「理由が要るのか?」

 言われ、今度こそシーリーンは黙った。彼女はマルクに背を向けていて、表情は分からない。今シーリーンが何を思い、何を考えているのか。

 もっと、彼女を知りたかった。

 その時、部屋の扉を開く重苦しい音がした。すかさずシーリーンが叱責した。

「誰も入るなと……」

 言い掛けて止まる。そしてすぐに姿勢を正した。その態度で、部屋に入ってきた男がシーリーンの上司である事を悟る。「失礼しました、頭領」

 頭領と呼ばれた壮年の男は、やはり黒い装束に仮面を付けている。彼は、静かな声でシーリーンに言った。厳格そうな雰囲気そのままの声調ではあるが、同時に不思議な優しさも含んだ声であった。

「大義だった」

「光栄です」

「執政官が呼んでいる。業務報告だろう」

「頭領への報告書だけで充分では?」

「裁判に必要な供述だろう。それに、ルーも来ているらしい」

 え? と珍しく声を裏返らせ、シーリーンは訊き返す。「……父上が?」

「うむ。……まあ、頑張れ」

 言われ、改めて姿勢を正してシーリーンは牢を出て行った。「さて」

 頭領と呼ばれた男は、ゆっくりと口を開いた。

「お前達、弁明はあるか?」


            *


 階段を登る間中、ずっと体が震えていた。困惑と、そして恐怖がシーリーンの体に纏わり付いて離れない。大広間に戻ってから更に上へ上へ、謁見の間に向かうその道中が、今まで以上にとても長く感じられる。謁見の間に入るのは、赤い鷹に入団した際の通過儀礼以来だった。考えればこの状況は当然の事で、他でも無いシーリーンの兄とその一家が深く関わった一件なのだ。ルー家が半ば私情を挟んだこの任務の結果を、当家が一刻も早く、そして直接話を聞きたいと思うのは無理からぬ事だ。

 謁見の間正面に辿り着く。魔術燭台の照らすまばゆい明かりが、幾何学文様の彫り込まれた扉を不気味に浮かび上がらせる。門の前に立つ二人の警備に任務報告に来た事を伝えると、警備は大声で彼女の来訪を室内に告げる。ややあって、ぎい、と扉が僅かに開かれた。中に立っている別の警備が、シーリーンに入るよう告げる。唾を飲み込み、シーリーンは部屋に入った。

 広い、石造りの壁の細部に繊細な彫刻が施された部屋だった。採掘された起床な大理石を無駄無く敷き詰めた、豪奢な部屋だ。側壁の入り組んだ小道の奥に設けられた頭領の部屋とは比べ物にならない程奥行きがあり、その最奥の壁を背にする様に、執政長官以下六名の役人と、そしてシーリーンの父が腰掛けている。

 シーリーンは部屋の中程まで来て歩を止め、屹立して言った。

「赤い鷹団員……シーリーン・ルーです。御命令通り参じました」

 ガタン、と父は椅子から勢い良く立ち上がる。シーリーンはその方向を敢えて見ないように努めて、正面に立つ執政官だけを見ていた。その彼が、薄ら笑いを浮かべて言う。

「ルーよ、言わなかったか。務めを果たしたのは、お前の娘だ」

「い、いいえ。皆目……」

「お前は女如きと馬鹿にしていたが、中々どうして、鼻が高いのではないか?」

 父は何も言い返さない。仮面越しに見た彼は苦虫を噛み潰した様な顔をし、冷たい目で自分を見ている。シーリーンには、その表情が意図する所が手に取る様に分かる。

 俺の娘の分際で、この俺に断りも無く、という所だろう。その高圧的な態度は永劫変わる事など無いのだろうと考えると、笑いさえも込み上げて来そうだった。その実、彼女の内心は怯え切った子供同然であったのだが。

「報告しろ」

 執政官が告げる。シーリーンは言われた通り、淡々と経緯を説明した。イェウルの失踪から一週間近くが経過し、一刻も早い事態の収束が望まれると判断した事。待機状態から家を出て街を散策中、マルクを発見した事。そして、逃走者一行と揉み合いになった際の顛末。

「御令嬢の命を危機に晒してしまった事、ラーだけではなく私にも大いに責任があります。依頼主様に多大なご迷惑をお掛けしました。どのような処分でもお受けして……」

「構わん」

 難しい顔をしたままで、父は言った。「生きているのだから、何も問題無い」

 しかしシーリーンは、この言葉で父を寛大だとは思わない。赦しているというよりも、どうでもいい、という無関心の占める度合いが大きい「構わない」だったとしか聞こえなかったのだ。当惑し、どういう事でしょう、と尋ねる。すると執政官が代わりに答えた。

「先程も話していたのだ。生きている体さえあれば婚礼は行えるから、取り敢えず一安心、後の事は正直どうでもいい、とな。我々総督府も同じ様に判断した」

 ……あまりの事に、口が塞がらなかった。

 押し隠していた恐怖が一気に込み上げ、小刻みに体が震えてしまう。

「意識が無くとも問題は無かったが、つい先程目を覚ましたという報告も入ってな。工房の部屋で体も動かせない状態だが婚礼には問題が無いので、そのまま明日式場に連れて行き、式を挙げようという取り決めになった。本来であれば先週の予定だったので、皆予定も押していて、忙しい」

 ははは、とさも可笑しそうに執政官達は笑った。シーリーンは、全く笑えない。体を震わせながら、涙だけは流すまいと、体の後ろで握った拳に渾身の力を込める。爪で皮膚が裂け、血が流れる感触があった。

 それでも、今にも叫び声を上げてしまいそうになる。「裁判は」と震える声で訊いた。ああ、と執政官は答える。

「勿論、婚礼の前に処刑判決を済ませる。総督府の取り仕切る婚儀だ。是非出席したい」

 花嫁の駆け落ち相手を殺したすぐ後に、その花嫁が顔も名前も知らない男と結ばれる場を祝い、両家の縁と式を取り持った自分達を礼賛する。

 吐き気が込み上げた。絶対に間違っている。そんな思いだけが頭を駆け巡った。

 救わなければ。イェウルも、タウロもマルクもイシオも、皆。このままでは、ただ自由と平等を望んだだけの彼らは全員、それぞれが最悪の結末を迎える事となる。それだけは避けなければならない。

 なのに、言葉を紡げなかった。人を記号としてしか認識していない、人の肩書きしか目に入らない目の前の男達に、まだ若いシーリーンがその理想と人道を説いた所で、彼らは一切の同情をしないだろう。

 彼らの判断基準は、利益になるかならないか。ただその一点だけなのだ。

「当然、ご息女も参加するのでしょう?」

 他の執政官が、父に訊いた。父の答えは、「いいえ」だった。「やってもらう事が、個人的にありますので」

 最早その言葉の意味する所を推測する事さえ出来ない程、シーリーンの思考力は低下していた。ただ、執政長官が父に控えるよう言って部屋から出した後掛けた声に反応するのが精一杯だった。

「赤い鷹よ。お前に任せていた別件の方は、どうなった」

「……核、ですか」

 呆然としたまま口にした。うむ、と彼は頷く。震える手で、シーリーンは懐から魚の核を取り出した。それを見て取った執政官は合図を出し、部屋の隅で控えていた付き人を動かす。付き人はシーリーンの下まで歩み寄り、丁寧に魚の核を受け取る。上ずった声で、シーリーンは訊いた。「宜しければ、この核にこだわるかご教授願いたいのですが」

 しばし、沈黙があった。更に少しだけ悩んでから、執政官は言った。

「本来であれば『赤い鷹如きが』で片付けるが……貴族の者がこうして結果を残したのであれば特別に答えてやろう。だが、代わりに通常報酬は期待するな」

 言いながら、付き人が渡した核を手に持って説明した。「これは、記録だ」

「記録、ですか」

「魔術の効果で、魚は人の居る場所を探知する事が出来る。この縦穴世界の何処に人が居るか、魔術工房で保管された世界地図の情報から人間の位置関係を瞬時に割り出す。人が密集していれば密集している程、魚はその周辺域に数を増やして群れを作るのだ。加えて相互防衛機能の魔法も付与されているので、一体の魚か異常行動を取るなどした場合、補助の為に複数の魚が駆けつける場合もある。魔術師は魚の核を定期的に回収し、回遊記録を水晶に映し出してそれを書物に書き記す。非常に重要な機密事項でな。急務として、お前一人に回収を命じた。……お前に話せるのはここまでだ、下がれ。ご苦労だった」



 一刻の猶予も無かった。手洗い場で胃の内容物を吐き戻し、シーリーンはふらつく足取りで階段を降りる。人がここまで理不尽に蹂躙され、殺される謂れなどある筈が無い。人目を気にせず、何度も転びそうになりながら地下牢を目指した。走りながら、シーリーンはイェウルの泣き顔を思い出す。タウロの憎しみの目と、そしてマルクの真っ直ぐな瞳を何度も何度も思い返した。

 既にシーリーンの脳内で、嘗ての様なトン族への憎しみは影を薄くしていた。自分も他の上流社会の人間同様、自分の都合のいい様に相手を選別していた事を思い知らされる。義賊である事を大義名分としながら、自分はトン族への肩入れを執拗に拒んでいた。義賊として大衆の味方を気取っている一方で、トン族を同列に理解しようとしなかった。

 だが人生で初めて、直接誰かの死を身近に感じて、悟る。『リン族』と『トン族』という言葉が持つ意味が幼少期の頃より刷り込まれ、感覚を麻痺させていたのだ。人が命を尊く思う倫理観に、部族的な差異は無い。自分自身が考えるのと同じ様に、彼らの中にも誰かを守ろうと強く願う者は居る。

 イェウルの純粋無垢な心と、大事な人を守りたいと願うタウロ達の意思に何の違いがあろうか。

 救わなければ。そう誓い、地下牢の扉を開けた。

 ……そこに、父が居た。シーリーンは体を硬直させて、驚愕する。「父上……」

 父親はその背後に、二人の魔術師を控えさせていた。白無垢の装束を纏った、医療魔術師だ。だが牢屋の中のマルク達を見ても、誰も怪我などしていない。何故彼が居るのか。

「父上、何故、ここに……」

「お前が来ると思ったからだ。来ないで欲しかったがな」

 また、一歩近付く。その顔は、不気味なくらいに無表情だった。「何故来た? こいつらに、上で聞いた情報でも教えようとしたのかね」

「い、いいえ! まさか……」

「ラーという青年から聞いた。お前は報告しなかったが、彼を殴ったのだと? お前はあの娘がラオの婚約相手だと知っていただろう。ルー家の方針も理解している筈だと思っていたのだが、何故怒った? 肩入れしたのだろう?」

 また一歩近付いてくる。声が出せなかった。首を横に振る事も出来ず、ただ自分を見下ろす父親を怯えた目で見る事しか出来ない。それでも精一杯の力を振り絞り、否定する。

「ち、違い、ます。わっ、私は……任務を……」

 言おうとすると、父はパッとシーリーンの仮面を剥ぎ取った。

「ならば何故、泣いている」

 頭が真っ白になる。何も考えられない。ただ両手を顔の方に持っていき、頭を守る格好をして、怯える声でただ答えた。

「ご、御免な、さい……でも父上、この人達だけは……助けて……」

 そう懇願した、次の瞬間だった。父親はシーリーンの右腕を掴み、引き倒した。石畳に顎を強打したシーリーンは、涙で滲む視界の隅に黒く光るものを見る。


 父の手で振り上げられたその手斧は、勢い良くシーリーンの右腕に落とされた。


 腕に激痛が走った。経験した事も無い痛みが、シーリーンの肉と骨を千々に引き裂き、狂わせる。

「シーリーン!」

 マルクの呼び声だけが遠くに聞こえる。混沌とした頭の中で唯一精神を落ち着かせるよすがとも成り得たかも知れないその声は、しかし自分自身の絶叫によって掻き消され、長く地下牢の石壁に響き渡る。

 切り落とされたシーリーンの手は冗談の様に軽々と宙を舞い、あっという間に彼女の手首からは鮮血が溢れ出す。苦悶の表情を浮かべて、父親の手から逃れたシーリーンは咆哮を上げながら床をのたうち廻ったが、すぐ後ろに控えていた魔術師二人が手際良く彼女の体を抑え込み、傷口に処置を施していく。立ち上がった父親は、次々と怨嗟の言葉を吐き出した。

「『私の娘』の分際で、この私の許可無しに生きるな、私に逆らうな! 赤い鷹で何をするつもりだったのだ、このろくでなしめ! お前もあの小娘と同じく、一生外に出られぬようにしてやる! 分かったか? 分かったら返事をしろ!」

 狂気に囚われた男の声は、絶え間無いシーリーンの絶叫に勝るとも劣らない。ただ名前を呼ぶだけのマルクの声よりも良く聞こえる。それが、不快で仕方が無かった。

 どれくらい、暴れていただろうか。激痛が徐々に引き始め、切られた腕を体に引き寄せて抱き締める事で気を紛らわせるだけの心の余裕が、やっと生まれた。ゼエゼエと息をするシーリーンから体を離し、魔術師の一人が父に言った。

「お連れします。担架を……」

「要らん。どれだけ時間が掛かっても、自分で帰らせる」

「しかし」

「要らん」

 言い放ち、三回目を言わせるなとばかりに扉へ向かって歩き去っていく。魔術師達もそれに続いた。そうして部屋を出る間際、吐き捨てた。「下賤な盗人の真似など、二度とさせん。不具のお前を貰う家があれば、すぐにでも送りつけてやる。思い知れ」

 扉が、閉まる。その音を切っ掛けにして、シーリーンの意識はどんどんと深い闇の底へと落ちていく。眠りたかったが、激痛がそれを妨げる。意識の覚醒と休眠が交互に押し寄せ、彼女の精神を摩耗させた。

 孤独。

 その文字が、ゆっくりと頭の中を支配していく。自室の窓から頭上を見上げ、孤独であろうとも上を目指してやろうと誓った嘗ての日々を思い起こした。

 強がりだった。孤独が怖くないなんて、大嘘だ。実際はとても冷たくて、恐ろしい。そして今、明日を掴む為の腕は無くなった。一人前の人間としての能力さえ失った自分は、蔑まれ、冷たい石牢の中で囚われ続ける一生を送るしかないのか。切断され、血の滲む布切れを巻かれた自分の右腕を見つめ、涙を流した。

 情が浅くとも、家族であれば。何処かで気持ちが通じれば。父であれば。心の何処かでぼんやり考えていたのに、それはこの腕の様に容易に断ち切られてしまった。

 絶望が、心を黒く黒く塗り潰していく。

 そんな彼女を引き止めたのは、自分の名を呼ぶ声だった。強く、真っ直ぐに彼女の名を呼ぶ声がする。まるで、あの男の瞳の様な。

 力無く体をゆっくり動かして、声のする方を掠れる目で追った。すぐ近くの鉄格子、その隙間からマルクが懸命に、シーリーンに向けて手を伸ばしていた。

 この男が、自分の名前を呼んでいる。他でもない私に、その腕を伸ばしている。

 そっと左腕を伸ばし、シーリーンはその手を掴んだ。男の手など、兄と父以外に触れた事は殆ど無かったが、マルクの手が触れている、というその事にどうしようもなく安心してしまう。

 彼の手は、赤い鷹として生きるシーリーンのそれよりもずっと大きく、重く、そして温かかった。

 捨てないで。

 独りは嫌。

 柄にもなくそんな弱音を呟いた様に思うが、意識は既に朦朧としていて、良く覚えていなかった。



 そのまま石畳の上でしばらく眠った後、途切れ途切れの言葉でマルク達に情報を伝えた。イェウルの意識は回復している事、処刑も婚礼も明日行われる事、魚の核の事。

「魔術工房に行けば、地図があるのか」

「好都合だ。あのお嬢ちゃんも、工房の治癒室で寝ているんだろう? ついでにその地図を調べてみれば、人の住んでいる場所も分かるな。喜びの壁、とか言う」

 僅かに顔に笑みを浮かべ、タウロとイシオが言った。だがシーリーンは横たわった姿勢のままで念を押す。

「でも、目的については、言葉を濁された。……逆に、人を監視する為の、魔術かもしれない……」

 長く大きな声で話すと、傷口がズキズキと痛む。痛む度に、マルクの手を握った。「それに、工房は、総督府の外……中央区の端にある。安全には……辿り着けない」

 あくまで確認をしただけだが、その事実に、より絶望感を膨らませた。更に解決しなければいけない問題はある。「第一、檻を開ける鍵が、何処にあるか分からない」

「それなら、心配するな」

 と、声を上げたのはイシオだった。他三人が呆気に取られて彼の方を見る(マルクはオリの位置的に顔を見る事は出来ないが)。

「靴底に、針金を二本隠してあるんだよ。この程度の鍵、技師たる私の敵じゃないぜ」

 言いながら、イシオは針金を二本、取り出して見せた。タウロが歓喜し、叫ぶ。

「何で今まで使わなかった!」

「逃げても、お前達を助ける世話は出来なかったからなぁ」

 更に彼はニヤリと笑って、こう付け足した。「お前達が出ていった後、私が何の手も打たなかったと思ってたのか?」

「だって、俺の言葉を信じなかった」

 マルクが震える声で言った。するとイシオは、少し照れ臭そうに答える。

「息子だものなぁ。信じてやらなくて、どうするよ」

 その言葉を聞いて、シーリーンは少しだけマルクに嫉妬した。

 そんな彼女に視線を戻して、マルクはしばらくシーリーンを見つめた。「何」と小さな声で尋ねると、マルクは一つの質問をした。

「君も、逃げないか」

 質問の意味が分からず、え? と訊き返す。苦しそうな顔をしてから、マルクは言葉を続けた。「君にも何か目標があったから、上流階級の身の上で義賊をやってたんだろう。叶えられるなら、それが一番いいと思う。……でも、惨いようだけど、君は次にあの家に帰ったら、もう何の可能性も残ってない」

 隠し事をしない、正直な言葉で真実を聞かせる。その言葉に、シーリーンは再び目の前を暗くしてしまう。「もう独りで苦しまなくてもいい。きっと、君は今まで十分に努力したんだろう。もう、逃げよう」

 それは彼なりの、シーリーンを励ます言葉だったのかも知れない。その優しい言葉はシーリーンの体に流れ込み、心を安らげてくれる。

 だが、駄目なのだ。

「それだと……貧民街の人も、子供も……何も、変わらない」

 とても素敵な申し出だとは思った。だがシーリーンが赤い鷹で力を鍛え、精神を鍛えたのは、逃げる為ではない。貧しい子供を救い、形骸化した奴隷解放宣言を質実剛健にし、格差を無くす為だ。更には今、民族間の意識是正を広げたいという理想も加えられている。赤い鷹として活動し、マルク達と関わる事でそう思えるようになった。

 逃げるだけでは、意味が無いのだ。

「おい、そいつは……」

 タウロが反論しようとしたが、マルクがそれを封殺した。

「さっきあの状況で、この子が俺達を助けようとしたのを聞いただろう。まだ疑うのか」

 タウロは何も答えなかった。二人の優しさが、シーリーンの心にこたえる。

 最後に震える声で、彼女は訊いた。

「どうして、こんな私を、助けようとしてくれるの」

「理由なんて要るの?」

 微笑みながら、馬鹿騒ぎをしていた祭りの片隅の路地裏で口にしたのと、同じ言葉を答えにした。

 消灯の鐘が鳴り、牢の窓の外から差し込む魔術燭台の明かりが消える。同時にイシオが針金を使い、牢の鍵をしばらくいじる。すると、驚く程容易く鍵は開いた。マルク達は静かに歓声を上げ、イシオの功績を讃える。

 続けてタウロの、そしてマルクの檻の鍵を開けると、イシオはそっとシーリーンを抱き起こした。もう一方の半身をマルクに支えられながら、シーリーンはおぼつかない足取りで立ち上がる。

 その時、誰も来ない筈の地下牢の扉が、重苦しい音を立てて開かれる。全員が、体を強張らせた。

「あら、あら」

 警務官の姿を予測して緊張していた場の空気は、鍵束を手にしたレイシャの間の抜けた声で破られた。


            *


 消灯の鐘が鳴る少し前、ラーは鉤爪ロープを使い側壁を登っていた。目的地は、二匹目の魚が墜落した場所。シーリーンが見付けた、中流階級階層に程近い側壁だった。

 先刻魔術工房から連絡があり、ラーとシーリーンの見付けた魚に関する任務は全て満了したらしいのだが、二匹目に関してはまだ正式報告が何もされていないらしい。肝心のシーリーンは、自分がした彼女の父親への密告が原因なのか、行方が知れないままだ。

 ラーは、シーリーンの心の変化に気付いていた。女特有の女々しい感情的理論はイェウルの姿に感化され、駆け落ち逃避行という浪漫に影響を受けている。その所為で、人を傷つけた事に過度に反応を起こした。全くもって下らない話だ。

 しかし、と思う事はラーにもある。

 これで父親の怒りを買い、彼女にすがるものが無くなれば。その時今度は、俺が彼女を攫ってしまおう。赤い鷹の大義名分など、知った話ではない。得た技術を全て活用し、盗み、この縦穴の中で彼女と二人生き延びよう。俺にはそれが出来る。

 きっと彼女は、他にすがるものの無い孤独な世界で、自分だけを見る……。そんな妄想を掻き立てて、薄笑いを浮かべながら、ラーは墜落現場へと到達した。

 そうして、まだ美しい外殻を保ったままの魚を観察する。前回の様に、略奪されたらしい箇所も見当たらない。シーリーンは、この程度の報告さえもしていないのか。

 と、一箇所だけ破壊されている箇所を見付けた。魚の頭部である。鉄板が剥がされ、床に落ちていた。

「うん?」

 再び、魚の頭にあったらしい『何か』が埋まっていた場所に、ぽっかりと空洞が空いていた。

 その時である。総督府の方で、異常を告げる早鐘が響いたのだ。


            *


 ラオの婚礼相手が見付かり保護されたという一報は、ルー家の中で即座に広まった。それに合わせてシーリーンの父が総督府に出向くから支度をしろ、とレイシャに注文をした事から、彼女はシーリーンが父親と顔を合わせてしまう事を予感したと言う。

 そして、その結果何か悪い事が起こるのではないか、という危惧もあった。

 故にレイシャは、シーリーンの父の自室から職務室の鍵を盗み、部屋から彼の管理する親鍵の束を持ってきたというのだ。事前に、ルー家からの使いだと言って総督府内部施設に入り込み、消灯時間まで手洗い場に身を隠していたのである。言いながら、レイシャは幾つかの装飾品も括られた鍵束を見せる。

「盗んだって、貴女」

 唖然とするシーリーンは、蒼ざめた顔で忠言した。「分かっているの? 侍女が、仕える家主の部屋と総督府の部屋に盗みに入るなんて……」

 だがレイシャは微笑んで答えた。「ええ。覚悟は出来ていますよ。でも、主人まで巻き込むわけには行きませんので、なるべく悟られない様にして、折を見て戻ります。……そちらの方々も、息災で。お嬢様を、宜しくお願いします」

 言いながら彼女は、マルク達に首を垂れる。マルクは、恐る恐る訊いた。

「俺達の味方をするのか」

「お嬢様が、身を任せてらっしゃるので。私如きの感情をここで持ち出すなど、侍女としてはあるまじき事です。さ、鍵をお持ちになって、早くお逃げに。私なら大丈夫ですよ、何とかやってみせますから」

 嘘だ、とマルクは思った。体の前で組んだ両手は、その震えを表に出さないよう硬く握り締められている。自分の体に寄りかかるシーリーンを見やると、彼女も沈痛な面持ちで唇を噛み、レイシャを見つめていた。今どんな言葉を掛けても、彼女が考えを改めない事を知っているのだろう。一度マルクから体を離し、残った左手でレイシャを抱き締める。そうしてから、無言で別れを告げた。

 イシオが鍵束を受け取り、マルクがシーリーンの肩を再び貸す。イシオが先導し、タウロがしんがりを歩いた。誰も、口を開かない。ただ自分達の置かれた状況を噛み締め、そしてこれからなすべき事を考え、そうしてから最低限の言葉を選ぶ。

「工房へは、この地下部から行けるのか」

 タウロが訊くと、シーリーンが答える。「直接は無理だ。だが、隣接する農園区画の倉庫へ通じる階段はある」

 薄暗い通路を、ひたすらに歩いた。人の声がすれば息を潜め、体を隠し、どうか気付かれないようにと心の底から祈る。幸いにも、警備の人間は警戒心が薄いのか、特段周囲を気にする様子も見られない。何故こうも危機感が無いのかとシーリーンに尋ねると、そもそもこの総督府に無事潜入出来る賊は居ないのだと断言した。本来、檻の鍵も牢屋の鍵も掛けられ、それを鍵無しで開錠する技術を持った人間は存在しなかったのだと。

「そもそも、総督府の最高機密に関わる部屋の鍵は、全て複製不可能な意匠だ。地下区画はそうした部屋が多くて、身を隠す場所自体がまず少ない」

 つまり、警備を少し増強するだけで侵入者は身動きが出来なくなる。政治家・官僚が勤務する一階より上の階層は言わずもがなであり、逃げるには、地下階層の壁を突き破って九百メートル下の中流階級階層屋上に叩き付けられるか、マルク達が連行されてきた上流階層正面の軌道船を使うしか道が無い。そもそも本来であれば、牢屋から抜け出したところで逃げられる望みなど殆ど無い筈なのである。

「唯一可能にするのが、この鍵って事か」

 言いながら、イシオは大事そうに鍵束を両手で掴む。「でも、複製不可能ってのはどういう事だ。粘土を使えば、鍵の複製なんて簡単だろう」

「最高機密のある部屋の鍵は、それだ」

 言いながら、シーリーンはマルクに回した肩越しに、イシオの握っている、鍵を束ねる針金と一緒に括られた装飾品を指した。

「これが鍵? 嘘だろ?」

 イシオの言葉をそのまま、マルクも口にしたかった。彼が装飾品だと思っていた、鉄でさえないその装飾品。何の凹凸も無い板の様なそれが、鍵だと言うのだから。

「一度だけ、父上がその鍵を使うのを見た事がある。間違い無い」

 その瞬間だった。カンカンカン、と早鐘が遠くから鳴り響いたのである。音は、マルク達のずっと頭上、総督府の敷地内から鳴っているようだ。途端、マルクは蒼ざめた。脱走が知られてしまったのだ。

 失血して上手く動けないシーリーンをじれったく思い、マルクは彼女を担ぎ上げた。

「お、下ろせ! 走れる!」

 赤面して文句を言う彼女を無視し、マルク達は通路を駆け抜けた。長時間逃げ回る事自体が最悪な状況を作り出してしまう。急がねばならない。

 階段を上り、時に下り、マルク達は暗い廊下をひた走った。だが、徐々に警備に出くわす回数も増えていく。その度に道を曲がり、戻り、そして追い込まれていく。

 シーリーンの言った通り、逃げ場はどんどんと無くなっていった。

「もう隠れるしかない」

「馬鹿な、すぐに見付かる!」

 言い合う。息が詰まる。イシオに至っては疲労困憊しており、シーリーンを担いだマルクよりも足が遅くなっていた。

 逃げる道の先に、警務官が押し寄せる。後方からも足音が迫る。その事実を認識した瞬間、絶望と諦観が一気に押し寄せた。しかし、

「その扉!」

 シーリーンがすぐ横の壁を指した。驚いて壁を見れば、どうやら扉らしい形にも見える四角い窪みがあった。だが取っ手も無ければ、鍵穴も無い。

「扉なもんか!」

 イシオが叫ぶと、じれったいとばかりにシーリーンはマルクの体から下り、イシオの持つ鍵束をひったくる。そして先程の板切れの一つを手に取り、壁の傍にあるでっぱりの、亀裂部分に板を滑らせた。同時に、ガコン、という重たい音がして、ひとりでに扉が横に滑り、真っ暗な部屋の入り口を作る。

 呆気に取られると同時に、しかし体は動き、四人は部屋に飛び込んだ。再び、部屋の内部にあった切れ込みに板を滑らせると、扉はやはりひとりでに閉まった。一拍遅れて、扉の前で警務官が大騒ぎする音が部屋に響く。その反響音からして、暗い部屋の中はどうやらそこそこの広さがあるらしい。

 彼らが入室したからか扉が開いたからか、魔術燭台の明かりが灯る。マルク達は急いで、近くにあったテーブルや椅子を扉に立て掛け、壁を作った。肩で息をして、少しだけ静かになった扉の外の様子にひとまず安堵する。

「ここは……?」と、タウロが呆然と呟いた。

 振り返れば、彼の目の前にはカラクリがある。それも、軌道船の運転席で魔術師が使う様な、複雑な機構をしたカラクリだ。水晶、針、大小様々な突起物や小さな杖。天井付近にはそのカラクリから伸びる、針金よりも太い管が何十本も伸びている。カラクリには、大量の埃が積もっていた。いや、良く見れば部屋全体に埃が積もっていて、空気はカビの臭いが混ざっている。相当長い間、使われていない部屋の様だ。

「父さん、分かる?」

「見た事ねえ。こんなもの……」

 イシオも、唖然として口を開けたままそのカラクリを見つめていた。タウロはシーリーンに尋ねる。「なあ、ここは何の部屋なんだ」

 だが、シーリーンも目を丸くして、カラクリを撫でて触るばかりだ。

「分からない。父が鍵を開けたのもただの動作確認の為で、機密部屋に入った事は無い。そもそも、何の目的で作られた部屋なのかも分からない……」

 それに対し、タウロが尋ねた。

「鍵はどういう仕組みなんだ。あの扉も、このカラクリと関係あるのか」

「魔術で動いているとしか聞いてない。仕組みなんて知らない。こんな……」

 呆然とした様子でカラクリに触れていたシーリーンの指に、恐らくはなんとなしに力が込められたのだろう。突起物の中の一つが彼女の手によって陥没し、カチリ、と小気味いい音を立てた。同時に、聞いた事も無い異音が部屋に響く。すると驚くべき事に、連鎖的に魔術燭台の光がカラクリの中に灯った。水晶という水晶全てが魔術燭台の光を放ち、命を吹き込まれたかの様に明滅する。

 マルク達は、口元を手で押さえて驚くシーリーンを、穴が空く程見つめる。そしてイシオが呟いた。「あんた、魔術が使えるのか?」

「違う! 私は、何も……」

 慌てて答えた彼女のすぐ近くにあった、埃で中が見えなくなっていた特大の水晶が動き、扉の様に開いた。悲鳴を上げ、シーリーンは体を引いた。その体を受け止めるマルクも、シーリーンも、皆がその動く水晶の向こうに立っていた一人の女性を注視する。

 女の服は、ぼろの様に腐っていた。それは長い経年劣化によるものだと一目で分かるものの、そんな衣服を身に纏い、全身の半分以上の肌を露出させているにも関わらず、女は羞恥心も焦燥も、それどころか何の感情の起伏も感じさせない徹底した無表情をしている。傷一つ無い体を動かし、一歩踏み出す度に、ギシイ、と錆びた鉄同士が擦れ合う軋む様な不快な音が響いた。そうして女は、マルク達の方を向き、背筋を伸ばして言った。

「ご用件は、何でしょう」

 あまりにも場違いなその言葉は、扉の外の喧騒を遥か遠くに追いやった。

「お前は、誰だ」

 マルクがようやく絞り出した言葉に、女は答えた。


「私は、中華人民共和国湖南省・通称七十四番地下シェルター、中華人民共和国臨時地下国務院施設内専属の女中アンドロイドです」



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