第三幕 瞳
第三幕 瞳
目を覚ますと、視界がぐらついた。頭も痛い。何が起きたのか、マルクは必死に思い出そうとする。そして、群衆に襲われ、階段から落ちたところまでは記憶を取り戻した。
あれからどうなったか、と体を起こそうとすると、女の声がしてそれを制した。イェウルだ。まだ寝てて下さい、と静かな声でマルクの胸に手を当て、押す。彼からすればまるで非力な押し方であったが、争う気力も無く、ただ言われるままに再び体を横たえた。
「どうなったの」
ゆっくりとした声で尋ねると、イェウルはかいつまんで状況を説明した。何故か魚が突然現れ三人とも助かった事、今自分達は中流階級階層の寂れた居住区画に逃げ込んでいる事、放棄された人の居ない居住棟を、時間を掛けてようやく見付けて隠れている事。タウロはフードで顔を隠し、近くの寂れた市場で食料を買いに行ったらしい。
「なるべく入り組んだ居住区を探して隠れてるので、怪我が治るまで休みましょう」
マルクの体に、目立った怪我は少なかった。それこそ額の出血程度であり、すぐにも動いて問題は無いようにも見える。だがそれでもタウロとイェウルは、最低一日以上の潜伏を提案した。
問題など無いと主張するのは簡単だった。だがマルクはそれをしない。三人共、肉体以上に精神が疲弊している事は知っているのだ。誰も弱音を吐かない、もとい吐けないだけだ。口には出さないがタウロもイェウルも、マルクが倒れた事に安堵している様な口振りで会話をする。
マルクの家を逃げ出してから、既に五日が経過した。そこに至って尚、喜びの壁の手掛かりは何一つ無い。先日の男達の様な、若しくはあれ以上の危険がこの先幾度となく立ちはだかるであろう事も予感している。自然と口が重たくなった。
このまま、目的地が見付からなかったら? このまま逃避行を続け、やがて飢えか暴漢により命を落とす運命しか待っていなかったら? 自分達の行動や人生が全くの無駄だったとしたら?
先を考え、極度の不安がじわじわと精神を侵す。だが誰も、自分達がこれまでしてきた行動を後悔する言葉は口にしない。口に出来ない。言葉にした瞬間、三人の関係は一気に瓦解してしまうだろうから。
体を起こし、水をチビチビと飲みながら、帰ってきたタウロにぴったりと体を寄せて暖を取るイェウルを見た。
(後悔出来る訳、無いよな)
それはマルクの、諦観に近い素直な感想だった。
もう、まともな生活は送れないのだ。自分も親友も。そして自分はこの先、目の前の友達の様に、誰かを愛して身を寄せ合う事も無いだろう。ならば、自分は彼らの為に身を窶すしか他に生きる方法は無い。
マルクは立ち上がり、外套を羽織った。「何処へ行くんだ?」とタウロが尋ねる。
「何って。金を作ってくるんだよ。イェウルさんは顔を知られてるかも知れないけど、俺は或る意味無関係の人間だ、街に出ても誰も気に留めない。炭鉱場統合支部が近くにないか、調べてくるよ。あわよくば偽名で働いてくる」
「じゃあ僕も……」
「彼女を一人にする訳にはいかないだろ」
言うと、タウロは言葉を詰まらせる。「怪我だって大した事無い。体がなまる前に、動かしに行くだけだよ。多分、消灯の鐘が鳴る頃に帰る」
「そんなに遅いのか?」
「うん。……たっぷり、時間はあるよ」
言って、マルクはフードを目深に被り、空き家を後にした。
複雑な袋小路を抜け、徐々に人通りの回復してきた道を通る。やがて、マルク達が普段通っていた繁華街程ではないにしろ、大きめの市場に出た。
正直な話、マルクは迷っていた。宣言した通り、支部を探せばすぐに即労働力として日雇いの仕事を得る事は出来る。だが、流石にマルクやタウロの人相書きまでは出回っていないとしても、人があまりに集中する場所へ顔を出すのは危険だった。精々が、こうしてフードを被って人混みに紛れて動くのが限界の様に思える。しかし金は稼げない。
市場をふらふらと放浪し、まとまらない考えを頭の中で巡らせながら、そして彼は次第に、視線を露天の商品ではなくそれを見る客に移していた。正確には、客の持つ財布に。
自分が考えていた事に気が付いて、ハッとして足を止める。頭を振り、邪念を追い出そうとした。だが、後ろ暗い声は一層大きくなり彼の耳元で囁く。親友の為に、彼の恋人の為に、そして自分が生きる為に、汚れなければやっていけないのだぞ、と。
自制する。説き伏せる。そうして少しだけ、残した父の身を案じた。
悪戯に時は過ぎ、終わりの鐘が鳴るだろうか、という頃合いだった。商用に安く売っている配給食を買い、食べながら道を歩く。とても腹を満たす量には足りないが、無駄な金を掛ける訳にもいかなかった。
そろそろ戻ろうか、と考えている時、声を掛けられる。
「今日は、誰の助けもしないのか」
祭りの日に出会った、奇妙な装束を纏った女だった。
*
今日の早い時間、魔術工房から総督府へ経過報告が入った。また新たに魚が回遊可能範囲から一匹、今度は中流階級階層の近くへ落下したと。
そして不思議な事に、今回はその他にも複数の魚が密集して回遊していたらしい。魔術を込められた魚は各個体毎に一定距離を空ける様に予め設けられている筈だが、本来ならば有り得ない至近距離を飛んでいた個体も居ると言う。
魚の核を奪った人間、若しくは墜落させた原因がそこにあったのではないか、と睨んだシーリーンは、休憩の鐘が鳴る前までに墜落した魚を調査した。衝突の衝撃で出来た歪みや損傷の他は全く綺麗な状態で放置されていた事から、やはり一匹目の魚を解体した犯人はイシオという男で間違い無さそうだ。そう確信しつつ、シーリーンはナイフで魚の頭を覆う鉄板を、力任せに外した。
魔術師達に核と呼ばれていたものは、赤ん坊の握り拳にも満たない金属の塊だった。その金属には人工的な隙間があり、そこに一枚の板が噛ませてある。板の材質はシーリーンも今までに見た事が無く、鉄でも木片でもない。ただ、魔術師が使うらしい複雑で細かい模様が刻まれているだけだ。
こんなものが、と思ったものであるが、とにかく魔術師が探す核とは、この形状の物で間違い無いだろう。そう再確認したシーリーンは、墜落現場に一番近い区画である、この裏寂れた居住区の近くで聞き込みをしていたのだ。
ラーが彼女の肩を叩いたのはその時だ。同じく赤い鷹の装束と仮面に身を包み、威圧的にシーリーンを見下ろしている。何故ここに、と問うと、
「令嬢失踪から日がかなり空いた。動ける人間は、階層や場所を問わず探せと、総督府からの厳命が下ったんだよ」と答えた。「手紙、読まないでここに居るのか」
問われ、適当に言葉を濁して誤魔化した。
「何にせよ、非常時に備えて二人組での行動は基本だろう。俺も一緒に……」
「二人で聞いて回っても非効率的だ。あっちを回ってくれ。私は、こっちに行く」
後で落ち合おう、と言ってその場を離れようとすると、ラーがシーリーンの腕をいきなり掴んだ。痛い、とらしからぬ女々しい声を出し、彼女は振り返ってラーを見上げた。男の力は振り払えず、じれったい。一体どうしたというのだ。ラーは声を尖らせて言った。
「俺の身にもなれ! 一応心配してこうして来てやったのに!」
来てやったとはどういう事だ、と彼の真意を測りあぐねる。だが、彼はそれ以上何も言わない。シーリーンの言葉を待っているのではなく、何を言おうか考えあぐねている風だった。早くラーとの会話を打ち切ってしまいたかったので、彼女は乱暴に言い放った。
「お前の心情がどうであろうと、私は関心が無い。早く任務に取り掛かるぞ」
その言葉を聞くと途端に、腕を掴むラーの手から力が抜けた。振りほどき、シーリーンは彼の方も見ずに人混みに紛れた。
祭りの日に出会ったトン族の男を見付けたのは、それから間も無くだった。
何故声を掛けようと思ったのか、シーリーン自身にも良く分からない。ただ、男の顔を見たその瞬間、何とはなく話だけでもしてみよう、とは考えた。
「今日は、誰の助けもしないのか」
「ああ、あんたこの前の」
少し疲れた顔をして、男は配給食を齧る。「トン族には、気安く声を掛けないんじゃないのか」
「聞き込みをしているだけだ。令嬢失踪に関してのな。……身なりのいい御令嬢だ。見掛けたか」
赤い鷹としての公の任務である以上、その質問を優先した。男は、「いいや」と首を振る。否定した後で男は逆に質問してきた。「一企業の令嬢を何故探してるんだ? やっぱりあんた、警務官には見えないぜ」
「以前言っただろう。政府機関の特命に関わる事案に関してのみ、我々が動く。詮索は為にならんぞ」
「そうか」
目の前の男の事は、良く知らない。ほんの少し会話をしただけなのだから、知らなくて当然だ。だが、それでも彼に対して、シーリーンは違和感を感じる。前に会った時と比較して、何かが変わってしまった様だった。剃られていない無精髭、僅かに臭う汚れた服、ふらふらと揺れる体。
前回は多少なりとも身なりを整えていた様子だったが、今回はその時の清潔感が見られない。ただ出かけにきたにしても、何故繁華街からこうも離れた小さな市場を散策しているのだろう。
何より、その目。前の様な、見る者を射抜く様な力強さを感じなくなってしまった。それに一番強い違和感を感じる。
何かあったのか、と意図せずして訊いてしまう。何故、自分はこうもこの男を気に掛けるのだろう。そんな自分自身への疑念を余所に、男は驚いて、慌てた風に答える。「それこそ、お前の知った事じゃない」
突っぱねられる。その態度に対して特段腹を立てる気にもならず、そうだな、と淡白に答えた。すると逆に、男の方が不思議そうな顔をしたが、理由について尋ねてくる事は無かった。と、ふと思い出して、シーリーンはもう一つの案件に関して尋ねる事にした。
「そうだ。お前、落ちた魚について何か知っているか」
「……え?」
「ここいら一帯の住民にも訊いて回っていたのだが、まだ誰一人、魚の落ちるのを見たと言う奴が居ない。お前、昨日……」
言い終わらない内に男は、「知らないな」と答えた。「見てない、聞いてない」
「そうか。もし居れば、手掛かりになると思ったのだが」
その小さな独り言に、何故か男は突っかかる。
「何で令嬢と関係あると思う?」
シーリーンは首を振った。「言葉が足りなかった。それは別件で、令嬢とは関係無い」
「ん。……昨日の、魚?」
「ああ。原因は不明だが、昨日魚が側壁に激突した。それ以外無いだろ? ……何故、御令嬢と魚に関係があると思った?」
ふと気に掛かって問い返してみる。何でもない、と男は言って、被っていたフードを目深に被り直し、背を向ける。「もう行かないと。あんたも、子供の為に出来る事はこの辺りにはなさそうだから、場所を移せよ」
そう言って、屋台の前まで歩いていく。言葉の意味を一瞬だけ考えて、金持ち相手のスリの事を言っているのだと気付き、シーリーンはむきになって言った。
「み、見境い無くあんな事をしているわけでは……」
言い掛けて、淀む。金持ち、という言葉で気付いた事があった。
私は、一言も言っていない。なのに何故、この男は……
「どうして、『企業の』娘だと知っている?」
身代金目当ての誘拐であればまだしも、貧民街の男との駆け落ちなど、一般市民に公表出来る筈も無い。娘が失踪した、という事しか、男は知らない筈なのだ。そこまで考えて、思い至る。
「お前が、マルクなのか?」
動きの止まった男に、おい、と声を掛けて近付いた。肩に手を置こうとした瞬間彼は振り返り、屋台に置いてあったスープの入った器を引っ掴んでシーリーンに投げ付けた。
屋台の店主と店周辺の客が、一気に騒ぎ立てる。主人は男を捕まえようと騒ぎ、客は食い逃げに夢中になった。あっという間にごった返した大通りを、男は脇目も振らずに走り去っていく。シーリーンは舌打ちして、石畳を蹴って飛び上がる。赤い鷹の団員として極端に体重を落としている彼女の体は軽々と舞い、群衆の肩を踏み台にして人混みをどんどんと先へ進んだ。
「待て!」
叫ぶが、男は足を止めない。大通りを逸れ、脇道や細道へと次々に進み、曲がり、シーリーンを離そうとする。彼女は、路地を挟む住居棟と住居棟の壁を交互に蹴り、どんどん上へ上がった。幸いにも、屋根までそう高くない、住居棟の最高階付近の道だったのだ。
住居棟の屋根まで上がり、路地を覗き込む。二十メートル程先の道を、男、マルクが走っているのが見えた。屋上からであれば、彼が逃げるであろう道も大方予測が可能だ。
騒ぎを聞きつけたのだろう、ラーが戻ってシーリーンのすぐ隣を並走する。
「見付けたか」
シーリーンは、答えなかった。ラーは舌打ちをして、「俺は向こうから回り込む」と言い放って屋上を飛び、走った。
走り、マルクを追いながら思う。あの男は、魚の質問をした途端余所余所しくなった。核についても、何か知っているのではないだろうか?
そして、もしも男が魚の核に関しての情報を持っていたら、ラーには何と言おうか、と考える。本当にイェウルの事を知っている容疑者であるとすれば、一体自分はどうすればいいのだろうか、とも。
*
薄暗い部屋の中、外套を敷いても尚少し硬い床の上で、イェウルはタウロにその柔肌を抱きかかえられながら考えていた。
イェウルは箱入り娘だ。幼少期から、親の手によって付き合う友達は選別され、勉学で学べる事は限定された。配給食に頼らずとも高い穀物や果物を買える財政環境がありながら、食事に何を食べたいか、と母に訊かれた事も無い。読める本、許可された遊び、そして将来は誰かの立派な家へ嫁に行き家の役に立て、と父に言われて過ごしてきた。
人としての幸せが無い、と気付かされたのは、中等学舎に入学するよりも前だ。生きる上での不安をまるで必要としない環境に身を置いて生きてきても、自由を得た事は無い。初めて自由らしい自由を得たのも、高等学舎に入学してからだ。それでも、学業が終わった後に付き人を付け、一日の終わりの食事前には帰らなければならない制約付きだった。
侍女は、イェウルが幼少の頃からずっと彼女の世話をしてくれている。大企業の家の出でも、学校を出た中流家庭の階層出身の人間でもなかったが、誰よりもイェウルの身を気遣い、そして一番涙を見てきた。とても辛い事があった日は、祖母の様に優しく抱き締めて癒してくれた。
だが今彼女がそうしている様に、異性に体を委ね、その鼓動を直接感じる経験は無かった。なのに、侍女が抱き締めてくれた時と同等か、それ以上の安堵を感じる。
理由は分かっている。タウロの事を心から想っているからだ。それだけではなく、きっと他の誰でもない、自分自身が選んだ相手に身を委ねているからだろう。
だから、イェウルはこの逃避行を後悔していない。タウロとマルクには迷惑を掛けてしまっただろうが、その責任を取って二人の役に立ち、献身的にタウロの妻として生き、これからの人生を進む覚悟を決めている。誰が何と言おうと、自分の選んだ道だからこそ、後悔も無く苦難の道を進む決心が出来たのだ。
「何を笑ってるんだい」
タウロが不思議そうに訊いた。声が彼の体を震わせ、直にイェウルの体にも響く。それがとてもこそばゆく、一層の笑みを浮かべてイェウルは「何でもありません」と惚けた。
初めて会った時も、同じ事を訊かれた。外出許可が出て一年が経過して、何の変化も無くなってしまった或る日の事だ。お手洗いへ行く、と少しだけ付き人が傍を離れてそれを待っている時、人混みに押されて足元をふらつかせたタウロが、イェウルにぶつかった。
馬鹿げた話だ、と後になって侍女にも言われてしまう。だが本当に、目が合っただけで彼の虜になってしまった。炭鉱で仕事をしているのか、少し汚れた風体だったのだが、繁華街に似つかわしくないその粗野な様子も逆に彼女の目を惹いたのだ。
何より、明るい顔をしていた。
道ゆく労働者は皆、この縦穴の景色同様暗く落ち込んだ顔をしているのに対し、何故か彼の顔と、そして茶色の瞳は美しく輝いている。そんな彼を見上げているイェウルに、「何を笑ってるの」と不思議そうにタウロは訊いたのだ。
その日から毎日、放課後はタウロの姿を探した。時々会う様になり、その回数は自然と増えた。皆が寝静まった頃にお互い家を抜け出して、側壁で会うようになった。初めて手を握った日の翌日は一日中放心し、初めて抱き締め合った日は翌日の鐘が鳴るまで一睡も出来なかった。侍女にだけは全てを話し、両親に黙っていてもらった。やがて彼女も協力してくれた。日中でも二人だけで会える様に気を利かせてくれた。もしかしたら、こっそりと後をつけていたのかも知れないけれど。
幸福だった。心からの幸福だった。
なのに何故、顔も名前も知らない誰かと突然結ばれなければならなかったのだろう。
リン族としての血を受け継ぐ事が女の役目だと、父は何度も何度も繰り返した。
しかしタウロは、血も民族も人の意識に帰属する肩書きに過ぎない、とハッキリと答えを示してくれた。そうした部族という肩書きの垣根、そしてその差異を超えたならば、その先に待つどんな苦難さえも、イェウルにとっては『自由』そのものだった。
「そろそろ、マルクさんも戻るんじゃないですか」
暗に伝えたが、タウロはイェウルを抱く腕に少し力を込め、「もう少し」と言って黙り込んでしまった。溢れる笑みを彼の胸に押し付けて隠し、風邪を引きますよ、と諌めるつもりのない言葉を口にした。
僅かばかりの配給食を口に押し込んでいた時、やにわに外が騒がしくなった。だが、人が寄り集まって騒いでいる様子ではない。少人数で、小道を追いかけ回している風な足音と声が、遠くから聞こえている。住民の帰宅時間にはまだ少し早く、もしそうだとしても場違いな空気だ。
すぐにハッとしてタウロがランタンの灯りを消す。魔術燭台の明かりも届かない部屋の中は暗くなり、外から漏れる僅かな家々の明かりだけが、うっすらと足元を照らす。
「タウロさん?」
「逃げろ、早く」
その言葉だけで全てを理解した。鞄を急いで肩に掛け、ズボンに歩行補助のカラクリを装着し、タウロに手を引かれて空き家を飛び出した。
入り組んだ道を抜け、階段を上り下りし、ひたすら進んでいく。イェウルには、タウロがどう判断して道を進んでいるのか分からなかった。息を切らせながら訊けば、この中流階級階層に入り込んだ、側壁へと続く階段の入り口を遠回りで目指していると言う。
「逃げるにはまず、あの道を使うしかない」
街には追っ手が張り込んでいるだろうし、そもそもこの街に来る事自体が危険だった、とタウロは答える。「マルクとも打ち合わせ済みだ」
「どうしましょう、あの人、追われています」
「撒いてから来る。少し待って来なかったら、橋を渡った先で待っていればいい」
その言葉には一切の迷いが無い。それだけ、マルクの行動と判断を信頼しての事なのだろう。だから、イェウルもその言葉を信じる事にした。
どれだけ長い時間を駆け回っただろうか。遠くから響く騒ぎの音を聞き、距離と方角に注意して道を進み、階段の入り口を目指した。やがて喧騒は消え、居住区画に静寂が戻る。しばしその場に足を止めて様子を見ていたイェウル達だったが、ただ立ち止まっていても仕方が無い事だと決意し、階段へと向かった。
マルクは無事だろうか。捕まってしまったのだろうか。言葉に出さないが、イェウルもタウロも、ただ彼の身を案じた。
答えは、すぐに判明する。
路地を抜けて、視界がやや開けた。階段へ続く、閉鎖された門の前まで来たのだ。だが、そこで待っていたのはマルクだけではない。黒地の衣装に赤い刺繍の入った線の細い服を身に纏い、その服と似た意匠の、顔半分を隠す仮面を付けた一組の男女が、そこで待っていた。マルクは男に踏まれ、地面に突っ伏している。「済まない」と絞る様に言葉にして、彼は下唇を噛んだ。タウロは何も言わなかった。
にやついた笑顔を浮かべる男に対して、女は無表情に立っていた。彼女は一歩踏み出し、他でもないイェウルに声を掛ける。
「イェウル・フェンですね。お父様と総督府の命により……お連れ戻し致します」
何故か彼女は言い澱みながら、しかし毅然とした態度でそう告げた。その言葉が意味するのはつまり、イェウルにもう二度と自由など手に入らないという、単純明快な一つの事実だけ。彼女はすぐ隣に立つタウロの袖をギュッと掴み、震える声で尋ねた。
「……お二人は、どうなるのですか」
その言葉に対してかイェウルの仕草に対してか、女は仮面越しでも分かる程の苦悩に顔を歪ませ、やや間があってから答える。
「生死に関して、要求はされておりません」
それ以上は、答えなかった。イェウルもそれ以上何も言わなかった。ただタウロの袖を強く強く握り締め、歯を食いしばりながら大粒の涙をボロボロと零すだけだ。
二人の為に、何をする覚悟も出来ていた。自分を含め三人できっと逃げ切って、喜びの壁を見付け、幸福に暮らす未来だけを思い描いていた。こんな状況にだけはなるまいと誓って。
だが、それは叶わない。そして、自由はこれで消えてしまう。未来永劫、それを得る機会は二度と訪れない。その事実と予感が、イェウルの心臓を鷲掴みにした。タウロはどうするだろう。全員がこの場で助かる道を選ぶか、文字通り決死の覚悟で敢行した駆け落ち行為に義を通して抵抗するか。彼であれば、どちらを選んでもおかしくない。
どうにかして、三人が助かる道はないのか。溢れる涙を拭く間さえ惜しんで、イェウルは必死に思考を巡らせた。だが、思い付かない。頭が働かない。無意識にイェウルはタウロの袖から手を離し、涙で歪む視界を一歩一歩、ゆっくりと踏み出していた。
「止めろ!」
タウロとマルクが、同時に叫ぶ。私は何をしているのだろう。二人とも全く望んでいないこの選択を、自分から選ぼうとしている。二人がどれだけの犠牲を払い、危険を冒してこの逃避行を始めたのか、分からない訳が無いのに。
タウロがイェウルを引きとめようとして一歩足を前に出すと、男がナイフを構えて投げる準備をした。「止めて!」と今度はイェウルが叫んでそれを制止した。そうしてから一歩、また一歩とゆっくり進み、手を差し伸べる女を目指した。
たった数メートルの距離が、とても遠かった。
人生で初めて、心から人を憎んだ。憎んでも憎み切れず、イェウルは女の顔を睨みつける。そうでもしなければ、発狂しそうだったのだ。そして女の顔を見て、一層昂ぶった。
……何故この女は、こうも苦しそうな顔をするのだ!
「あっ」
男が何かに気付いた様に声を上げた。イェウルもタウロも、そして女も男の方を見る。ナイフを構えた男の足に、マルクがしがみついていた。「早く逃げろ!」と叫び、あわよくば男を引き摺り倒そうとしている。
男が、ナイフを逆手に持ち替える。それを見た瞬間、イェウルの体は動いていた。タウロと女がそれを止めようとし、イェウルに遅れて走り出すのも視界の端に捉える。
これがトン族か。今まで親や教師から幾度となく聞かされた、蛮族の姿か。
私達は一体、何を争っているのだろう。恋すらも、部族と血に囚われて真実のそれを選べない。自分を差別せず、ただ一人の娘として見て接してくれたこの二人は、父母よりも圧倒的に付き合いが短いにも関わらず、父母よりも圧倒的に信頼出来てしまう。
この二人の為に出来る事があれば、私は何でもする。
その覚悟は、とうに出来ていた。
*
魚を探す為に街に来た。決して、赤い鷹として、ましてや哀れな少女の婚儀を取り持つ為でもない。あわよくば、見過ごしてもいいとさえ思っていた。
イェウルの自室で見付けた日記に書かれた、彼女の過去を綴る事実。そしてそれに対する少女の悲観。自由の無い、囚われの身としての絶望。将来への不安。年頃の少女らしからぬ、苦しみに満ちた文言がびっしりと並んでいる、そんな日記だった。
言葉は、シーリーンの心を動揺させた。彼女の文字や言葉には、最早恨みつらみを書き記す気力さえも残されていないかの様だった。
そしてそんな彼女の思いの根底には、シーリーン自身が抱いているものと同じ、社会への不満、上流階級家庭特有の拘束や閉塞感、そして女として将来に対して感じる漠然とした、しかし強い不安があった。
イェウルは、もう一人の自分だった。シーリーンが活力を無くし、赤い鷹による救済の手が無かった場合に彼女がなる筈だった鬱屈した自分が、その日記に存在していたのだ。
そんなイェウルがタウロという恋人と出会ってから、日記の内容に初めて彩が生まれた。笑い、喜び、幸福を感じる彼女が居た。
あの日記の最後のページに書かれた文字の真意に、あの場に居た男達は誰も気付かなかっただろう。その文字がいかな決意の表れであるか、そして自由への喜びに溢れた文言であったか。
恋人の袖を握り締めて、恥も外聞の無くただ顔を汚して泣くイェウルの顔の、何と美しかった事だろう。
だから、足に縋り付いた男に向けて振り下ろしたナイフがイェウルの背を思い切り突き刺したその瞬間、渾身の力を込めてラーを殴った。彼は予想だにしない不意の攻撃をまともに受け、壁に頭をぶつけて昏倒した。ラーに目もくれず、そのままシーリーンは倒れこむイェウルの体を抱き止める。
タウロと男が、顔面蒼白でイェウルの元に駆け寄った。二人が叫び、力無く首を垂れるイェウルに声を掛け続けた。背中に刺さったナイフは、かろうじて心臓を外れているらしい。僅かでも視界を遮る仮面が煩わしく、シーリーンは乱暴に仮面を外し、傷を見た。刺さったナイフが、イェウルの衣服をみるみる内に赤く染め上げていった。慌てて彼女は大声で叫ぶ。
「ナイフは抜くな、傷口を押さえていろ!」
先に動いたのはマルクだった。自分の体に覆い被さろうとする形で倒れた彼女の背中に腕を回し、ナイフの刺さった患部から流れる血を押さえこもうとした。タウロは外套を脱ぎ、生地を引き裂いてそんなマルクの手の下へとあてがった。タウロは、たった今まで泣いていたイェウル以上に涙を流し、動揺している。
シーリーンは腰布に包んだ道具の中から、血止め薬の粉末と油を取り出した。そうして二人の手を一旦どかし、イェウルの衣服を一部裂く。薬を塗り込むと、気絶していたイェウルは悲鳴を上げて体を反らせ、暴れようとした。「手足を押さえて!」
指示を飛ばすと、タウロ達は急いで従った。イェウルの悲鳴は長く響き、その声はシーリーンの想像以上に彼女の精神を抉る。
薬を塗り終わり、外套の切れで患部を処置していると、やがてイェウルはぐったりとした。その様子に混乱したタウロが何度も彼女の名前を呼び、泣き叫んだ。そうしてシーリーンの胸ぐらを掴み、必死の形相で彼女を睨み、恫喝した。「殺したな!」
「息をしている、落ち着け!」
「落ち着けるか! どうしたって肺に刺さってるだろう!」
「まだ助かる! ……魔術師にさえ診せれば」
言うと、歯が割れるのではないかという程顎に力を込めて歯ぎしりし、タウロは吐き捨てた。「最初から、こうするつもりだったのか。三人共必ず連れ戻す為に、どさくさに紛れて彼女を傷つける予定だったんだろう」
「ち、違う」
必死に弁解しようとしたが、タウロの顔を見てそれ以上の弁明はしなかった。何を言っても、その怨嗟に満ちた瞳の前では信じてもらえないだろう。
マルクの方を見る。憎しみの目はしていない。だが、信頼もされていない。罵倒してやりたいであろうその気持ちを抑え込み、今はただイェウルを助ける事に頭が行っている。そんな顔だった。
言い訳はしなかった。そのままシーリーンはうつむき、「済まない」と口を開く。「それでも、民間療法じゃ救えない。魔術師に診せなければ、この人は死ぬ」
「白々しい……!」
タウロは憎しみを込めてそう言って、シーリーンを突き放す。そうして、うつ伏せに倒れるイェウルの手を両手で強く握りしめ、その場で膝をついたまま動こうとしなかった。
全て、私の責任だ。中途半端な気持ちでここまで来てしまった私自身の。
シーリーンの腕の中で徐々に、だが確実に弱っていくもう一人の自分を見て、胸が張り裂けそうになる。
この無垢な少女の為に、自分に出来る事は何か。彼女が望む事は何か。そんな答えは、とっくに分かりきっている。シーリーンは顔を上げ、男に向かって声を絞り出した。
「きっとお前達の……貴方達の安全を保証する。最大限の努力をする。この御令嬢の希望の実現に尽力する。だから、今は私に助けさせて欲しい」
「いい加減にしろ、お前なんて……」
タウロが再び反発する。対して即座にシーリーンは、自分の腰に差したナイフを抜いてタウロの手を掴み、そのナイフを握らせた。
「信じて欲しい。その為に、心臓以外の何処でも、私の体を突き刺してくれ」
ナイフを握ったタウロの手を引き、シーリーンはナイフの切っ先を自分の腹へと押し付けた。刃がめり込むかめり込まないかの、きわどい境界線。微かな痛みを感じる。
タウロは驚愕し、言葉も発さず、身じろぎもしない。ただ、目の前に居るリン族の女の不可解な行動に当惑している様だった。それでも完全に消えない憎しみの眼差しが、彼女を射抜いていた。
その視線に耐え切れず、シーリーンは目を逸らしてナイフを見下ろした。
そのナイフの刃を、マルクがしっかと握っている。
驚いてマルクを見た。完全にはシーリーンを信頼していない目付きであるが、その顔には苦渋の選択を迫られた時の沈痛な表情、諦観、そして唯一残された希望に縋る意思が見え隠れしている。
それでも、彼の目はしっかりと真っ直ぐだった。市場で出会った時の様な危うい様子は消え去って、確かにその瞳は明日を向いている。
そうだ。その強い、射抜く様な強い意志を持つ目が見たかったのだ。
だがそれは言葉に出さず、シーリーンはタウロから手を離す。そうして小さな発煙筒を取り出し、マッチで導火線に火を付けた。少し離れた所へ放り投げると、瞬く間に煙が立ち上る。離れた赤い鷹の仲間が、すぐにでも駆け付けるだろう。
ただ脱力してイェウルの手を握るタウロと、呻き声を上げて倒れたままのラーを尻目に、シーリーンはマルクの目を真っ直ぐに見て、改めて尋ねた。
「名前は?」
「マルク」
答えたその名前は確かに、捕らえたイシオの息子のものである。シーリーンは静かにその事実を伝える。
「父さんは、無事なのか」
「ああ。だが貴方達同様、イェウルさんの身柄が確保された後の身の安全は、確実に保証が出来ない」
「無理は承知だ」
「その無理を道理にする為に、私は誠心誠意努力する。より確実にする為にも、貴方の事を知っておきたい」
一呼吸置いてシーリーンは、訝しげな顔をする男、マルクに訊いた。
「約二週間前、魚の頭からカラクリを持ち出したのは、貴方か?」
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