第二幕 父と子ら - 3

 貧民階層から中流階層へは、軌道船を使えば、本を二十ページ読む事が出来る程度の時間しか掛からない距離しかない。しかし、人の足となればそうも行かない。特に、見付からない様に上層へと登る為には長い時間を要する。使える階段は、都市の中央に突き立つ支柱を回る螺旋階段ではなく、側壁内部まで忍び込んで、打ち捨てられた区画に残る古い巨大回廊や階段を使わなければならない。三人は、まずその側面へ向かうための長い長い階段を登っている。

 労働者であるマルクやタウロであれば、階段を早く登る事に無理は無いが、充分に運動をしてこなかったイェウルに関してはそうもいかなかった。

 マルクは足を止め、後ろを歩くタウロとイェウルを見る。距離にして十メートル強の距離が開いたその先に、二人が居た。タウロはイェウルの手を握り、彼女が一歩一歩ゆっくりと登るのに合わせている。当のイェウルは息を切らせ、ずり落ちそうになる鞄を何度も肩に掛け直していた。

 単調でありながら、時として急な段差を登らざるを得ない古い階段は、やはり彼女にとっては大きな負担であるようだ。しかしマルクは何も言わず、ただ二人が足を揃えて歩くのを急かす事もせず、彼らの様子をじっと見ていた。

 常日頃からタウロの傍に居るわけではない。だがそれでもマルクは、彼が裏表も屈託も無い、真っ直ぐな人間である事を知っているし、そうだと信じて疑わない。皆、そんな彼に魅了される。マルクとて例外ではなかった。

 だがそんなタウロだからこそ、今目の前に居る彼の姿が現実離れしたものに見えて仕方が無かった。タウロはその博愛精神故に、誰か一人を特別に扱う様な、そんな男に思えなかったのである。無論、それだけ大きな愛を相手に向けているという事の証左には違い無い。タウロは他人に向ける好意を無くしてしまった訳ではないのだ。

 それでも、こうも人は変わるのか、と思ってしまう。これから、二人には想像を絶する苦難が永遠に続く未来しか待ち受けていないにも関わらず、逃避行を続けている彼らの顔には何処か微笑みさえ浮かんでいる様だ。

 それが、明かりの少ない道行きの見せる錯覚であると結論付けて、マルクは顔を階段の上へと向け直し、再び歩を進めた。

 階段をひとまず登り終え、今度は十数キロに渡る縦穴壁面の回廊を歩く。一定間隔で設けられている窓枠から外を見るが、時が時である為に光源は無く、ただ行先を示すランタンの明かりだけが、心もとなげに三人を照らす。

 なるべく先まで行きたかった。だが、「あ」という声と共にイェウルが転ぶ。すぐ隣を歩いていたタウロが慌てて抱き起こすが、彼女の疲労が限界に近付いているのは二人の目にも明らかだった。

 マルクは、「鐘が鳴るまで、ここで休もう」と提案した。それに対しイェウルは気丈にも、平気です、と自らの足で立とうとする。だが、マルクは止めた。

「駆け落ちするって一日中考えてて、ろくに休んでもいなかったんだろ。眠れてもない。大怪我をする前に、休むべきだよ」

 お前も、とタウロにも顔を向けた。そう声を掛けてやらなければ、彼女を背負ってでも夜通し歩き続けると言って聞かないだろう。二人は、何も言わずにその提案を飲んだ。

 いざランタンの火を消して休むと、イェウルは外套に身を包んで丸くなり、あっと言う間に寝息を立ててしまった。そっとタウロが彼女の頭を持ち上げて自分の足の上に乗せてやっても、まるで寝息は乱れない。

「尽くすものだね」

 少しだけ揶揄う様に言うと、「いいだろう」と自慢気に返されてしまい、マルクの方が閉口してしまった。こんなにも誰かに入れあげる様な男だとは、思わなかった。

「……本当に目指すのか。喜びの壁」

「ある。きっとある」

「噂でしかない。現実味も無い。……お前達を責めるつもりは毛頭無いけど、どうやって生きていくつもりなのか、不安で仕方が無い。あるかどうかも分からない噂だけの場所に、なんでそこまで縋れるんだ」

 言いながら、何だか父親の様な口ぶりになってしまったな、と感慨に耽る。タウロは、しかし自信ありげに答えた。「あるよ。でなきゃ五十年も噂であり続ける訳がない。きっと喜びの壁に逃げ延びた人達を見届けた人が居るから、話が語り継がれているんだ」

 暗くて、タウロの顔は見えなかった。だが、彼が目を輝かせて真っ直ぐな瞳でそれを語っている様子がありありと頭に浮かぶ。何も言えずに、マルクは「そうだね」と呟くだけで、それ以上の追求は出来なかった。

 あってくれなければ困る。あってほしい。無かったら何もかもが終わってしまう……。そんな絶望感から、人は幻想に縋ってしまうものだ。きっとタウロの確信も、似たようなただの思い込みに過ぎないのかも知れない。それでも、マルクも彼同様、どうかあってほしいと心から願う愚かな人間に過ぎなかった。

 もしも完全に存在しないと証明されてしまった時、イシオの犠牲は、全くの無駄になってしまうのだから。

「……親父さんの事、本当に御免」

 一転して暗い声でタウロは言った。

「頑固な父さんが選んだ事だよ。責任を感じる必要は無い」

「でも、原因は僕らだ」

「今まで、何も変わらなかったんだ……」

 これから先も変わらない未来しか待っていなかったよ、と言おうとして、止めた。これからタウロが進もうとしている道を閉ざしてしまいそうな気がしたのと、胸が締め付けられる様な苦しみが唐突に訪れたからだ。

 父には感謝している。だが尊敬するべき点は少なかった。そう考えていたのに、今になってイシオが、父としてマルクにしてきた数々を思い出す。マルクが働きに出るようになってからは、大きな関わりも無くなってしまったけれど、それでも胸は苦しかった。

 父親だもの、なぁ。

 心の中でそう呟いて、全てを忘れようと眠りに就いた。



 一日の始まりを告げる鐘が鳴り、各階層の通りや広場に魔術燭台の明かりが灯る。窓からそっと顔を出すと、眼下百メートル以上先に貧民街のある階層がぼんやりと見えた。ただ、マルクの住んでいた居住区は、肉眼では確認出来ない。鞄から遠眼鏡を取り出して覗いてみるが、まだ人が表通りを歩いている様子も無かった。イェウルの失踪が騒ぎになり、時計の手掛かりから家を特定されるのは、いつ頃になるだろうか。

「それは何ですか」と、目を覚ましたイェウルがマルクに訊く。遠くの物を良く見える様にする道具だと教えると、彼女は感心した様に言う。

「不思議なものをお持ちですね。繁華街の市場にだって、そんな珍しいものありませんでした。あの時計も……」

「役に立たないからね。あの時計も、無くても生活は困らないからって需要が無いくらいなんだ」

 と、イシオの作っていたもの、という事で思い出し、マルクは鞄から別のカラクリを取り出す。伸縮性のある加工した大小の針金を幾つも使った、奇妙な形をした一組みのカラクリだ。それは何ですか、と尋ねるイェウルに説明する。

「俺が仕事で使ってる。膝に付けると、足への負担が軽くなるからちょっと無茶な動きも出来るし、長時間作業出来る。タウロ」

 とタウロを呼び、カラクリを渡した。「付けてあげて」

 そして彼がイェウルにカラクリを取り付けている間、目のやり場に困り窓の外を眺め、思いを馳せる。いつまで、この逃避行は続くのか。捕まって終わるとすれば数日中だろうが、喜びの壁を見付けて終わるとすればその何十倍もの時間が掛かる。食料は? 二人の夫婦としての生活は? そして俺の生活は?

 先行きの見えない不安から目を逸らした窓の外の景色を見て、ふと気付く。

「やけに、魚が多いな……」


            *


 役職が上がり、寧ろ下っ端で使い走りをしていた頃よりも上の動向を注意する様になった。シーリーンと同様に昔は反抗的な部分も多かったが、赤い鷹の置かれている状況をより深く理解するようになってからは、表立って彼女のような行動をする事はしなくなっていた。

 正直な話をすれば、貴族の娘として生まれた彼女が跳ねっ返りとして活動をしている様を、真剣に咎めるつもりはあまり無い。注意した後に何かをしたとしても、自分の耳に入らなければ口うるさくは言わないつもりだった。

 組織の頭領としてそれはあまりにも依怙贔屓だろうか、とカジは悩む。だが、もしも娘が無事でいればこれくらいの年齢であっただろうか、と考えるとどうにも強く出る事は出来なかった。

「お前には息子が居たそうだが、見捨て置かれて、こうして檻の中で転がっている今の心境は、どうだね」

 他に人の居ない牢獄で、カジは目の前の檻の中で横たわるイシオを見下ろして言う。警務官に酷く殴られた傷は手当てされているものの、顔の腫れはまだ引いていない。イシオは鼻で笑い、言い返した。

「俺が自分の意思で残ったんだ。置いていかれたわけじゃねぇ」

「何処にそんな確証があるのだね。体良くそう仕向けられただけではないのか?」

 続けて問う。先程からずっと、こうした問答を繰り返していた。相手の感情を煽り、普段の日常とは大きく違う牢獄という環境で不安と動揺を誘う。根気よく続ける事で相手は情緒不安定になり、やがて情報を漏らす。

 総督府に命じられた後ろ暗い任務で尋問をする時、カジはいつもこうした手法で情報を引き出していた。だが、今回は少し勝手が違う。何度しつこく揺さぶろうとも、目の前に横たわる男は口を、嘲る様にイェウル達の来訪について話しただけで、それ以上の事に付いて口を割らない。息子を信じ切っている。半日も尋問を続ければ間違い無く自信をぐらつかせてしまっていたと言うのに、イシオは気丈に振る舞い、とても堂々としていた。

 娘も妻も居なくなってから、二人の話題に触れる事を一切してこなかった自分とは、まるで違う。

 貧乏に苦しんだ結果、娘を人買いに売った。それでも生活環境が大きく変わる訳ではなく、寧ろ近隣住民は居なくなった娘の噂をし、より一層世間はカジとその妻に冷たくなった。娘を失った悲しみと、理不尽な世間とに挟まれた生活苦に耐えられず、妻はカジに散々罵声を浴びせた後、低層の穴の底へと身を投げた。以来、ひたすら仕事に打ち込んで全てを忘れようとした。最早、赤い鷹こそが我が家だとさえ言えるだろう。

 カジは、自分がその家を蹂躙され、追われ、再び娘を失ったらば、と夢想する。とても、自分と歳の近そうな目の前の男の様に、平静では居られないだろう。

「私は、消えた御令嬢を見付けねばならない。黙して語らぬならそれでもいいが、簡単な道ではないぞ」

 だが、イシオは沈黙を守った。これ以上は無駄と悟ったカジは、嘆息して牢獄を出ようとする。牢の扉に手を掛けて取っ手を引く。すると丁度目の前に、シーリーンが居た。驚いて足を止め、彼女は姿勢を正して直立する。

「頭領、これからお帰りですか」

「ああ。……お前は、どうして此処に? 取り敢えず役目は終わったから、待機を命じていた筈だが」

「申し訳ありませんが、答えられません」

 と、淡々と答えた。そうか、と返事をして、「無理はするな」と声を掛けてその場を去った。シーリーンは部屋に入り、後ろ手に扉を閉める。

(私に答えられない事、か)

 跳ねっ返りではあるものの、赤い鷹への帰属意識と忠誠心自体は強いシーリーンがカジの問いに答えられないという事は、総督府から何らかの命令があったという事だ。

 珍しい事ではない。総督府の傀儡になってしまった赤い鷹の団員へは、時として個人にこうした密命を下す事があるのだ。寧ろその仕事こそ、赤い鷹の一人としての真価を問われる任務である事も多い。任務の内容は決して褒められたものではない事が殆どだが、それでも、歴史の影で動く組織としては必要な慣習であった。

 あの子にもそんな時が来たか、と感慨に耽る。カジの時は、総督府内主力派に反発する派閥幹部の暗殺だった。シーリーンには、どんな任務が与えられたのか。

 そして感慨に耽ると同時に、何だかいつの間にか自分の娘を男に掻っ攫われた様な、奇妙な居心地の悪さを感じていた。


            *


 シーリーンは、イシオの投獄されている檻の前まで近付き、片膝をついて彼の顔を観察した。イシオはイシオで、カジと同じ奇妙な格好をした仮面の女が突然、無言で自分の顔を見ている事に首をかしげた。シーリーンは、部屋に誰も居ない事を改めて確認してから、ゆっくりと仮面を外して言う。

「これからの話は、令嬢の失踪とは関係無い。別の要件で、お前に訊く事がある」

 するとイシオは、ますます訳が分からないという風に困惑した表情を浮かべた。構わず、シーリーンは訊く。「……壁に落ちた魚を解体したのは、お前だな」

 瞬間、イシオは驚愕の表情を見せた。「知ってるのか、お前さん」と初めて口も利く。

「トンが、気安くお前などと呼ぶな」

 冷たく言い放ち、先程にも増して鋭い目でイシオを睨み付け、続ける。「解体した魚の体は、どうした」

 が、イシオはそれ以上何も答えない。再び渋面をして、意地でも情報を与えるものか、といった調子でそっぽを向いた。そして彼が口にしたのは、「『お前達』にそう簡単に口を開くもんかよ。何にせよ、俺は何も知らねーなぁ」

 余りのいい加減さに腹が立つ。格子を強く拳で叩き、シーリーンは怒鳴った。

「言え! お前達下賤な民族には分かるまいが、魚の頭に、他と違う機構をしたカラクリが埋め込まれていた筈だ! それを捨てたのか、売ったのか、答えろ!」

 拷問も尋問も、その方法の心得など無いシーリーンには、力で脅し掛ける以外に方法を知らなかった。自分でも、余りにも愚直過ぎる方法だとは思っていた。

 だが搦め手でないその問い方が、先程までカジのしていた事と真逆だった事もあり、功を奏したのかも知れない。「はあ?」と、イシオが声を漏らした。

 慌てて口をつぐむイシオだったが、今度はシーリーンが呆気に取られる番であった。イシオの口にしたそのたった一言が、彼の答えだ。決してシーリーンの質問に答えようとしなかった彼が反応を示してしまったのは、つまり彼が想定した質問の内容とは全く違ったものであったからだ。

 この男は、魚の頭の中身に関して何も知らない。若しくは、核を奪ってはいないのだ。何故か? 技師である彼が工房の材料に出来ない、また売っても金にならない類のものだと判断したからだ。魔術師が作ったとされる魚に埋め込まれた核という事で、シーリーンはてっきり、魔術が込められた水晶玉の様な何かが使用されたのではないかとも考えたが、そうでもない様だ。

 シーリーンはゆっくりと立ち上がり、再び仮面を着けて牢を出ようとする。背中にイシオの罵声を受けつつも聞き流し、ただ彼女は思考を巡らせる。

 誰が取った? 任務が完遂出来なければ、私はどうなる? 家族は……母は?

 じわり、と心に忍び寄る恐怖に怯え、僅かな手掛かりさえも欲した。丁度、娘を連れ戻そうとするイェウルの両親の様に。

 次の手掛かりは、望みは。

「……息子は、マルク、と言ったか」

 令嬢を見つける事。それは、総督府の命令を遂行する事でもあるのだ。


            *


 自分は世間を知らないと、イェウルは自覚している。しかしそれでも、否、だからこそ、この社会の仕組みは間違っているのではないかという自覚を持つ事が出来た。

 両親に、彼らの求めていない言葉や意見を口にすれば頬を打たれた。学舎では、読み書きと算術、花嫁修行以外の授業に興味を持つ事・自発的に勉強する事を禁じられた。

 イェウルは裕福な家庭に生まれついたが、そこでの暮らしが幸せだと感じた事は一度も無い。

 自分の荷物が入った鞄を背負い直し、慣れない男物の服の襟を正して、イェウルはランタンに照らされた薄暗い回廊を歩き、時として長い長い急な階段を登る。学舎と家を往復するだけが運動と呼べる彼女の生活から言えば、かなりの重労働ではあった。

 しかし、辛いとは思わなかった。今まで殆ど感じる事の無かった肉体の痛みが、家に居た十八年の生活よりも充足感を与えてくれる。

 加えて、この程度の苦痛で泣き言は言えない。この過酷な現状は全て自分が引き起こしたものであり、タウロとその友人に多大なる迷惑を掛けてしまったのだから。

 それでも、マルクが貸してくれたカラクリという補助道具のお陰で、大分歩きやすくはなっていた。タウロ達の様に早く歩く事は出来ないまでも、休憩を取る回数は少なくて済んでいる筈だ。

 だが、一日、二日と壁の中の回廊や階段を歩き続ける内に、疲弊が溜まったのは事実だった。決して口には出さないが、柔らかいベッドで眠り、湯を張った風呂に入り、歯を磨き、配給食でない食料を口にしたいと思う。だが、それは叶わぬ願いだった。

 タウロはイェウルを気遣い、マルクも二人に気を払いながら道を進む。しかし、先の見えない旅路は徐々にイェウル達の気力を擦り減らしていく。それでも、タウロとマルクはイェウルに小言ひとつ言わないし、彼らも関係に亀裂が入って言い争う、という事もしない。二人共、この格差社会の縦穴世界で生きるには、優し過ぎる印象を受ける。特にタウロの献身は、却ってイェウルの心を痛め始めている。



 すっかり会話も少なくなってしまった、逃避行から二日目が終わろうとしていた頃、人に出会った。

 回廊の行く先に、捨てられたゴミが増えたのが前兆だった。ゴミは徐々に増え、やがて生活感が滲み出した。まさかタウロの言っていた喜びの壁が近いのか、と希望に顔を輝かせたが、タウロ達の顔は暗い。

「犯罪者達の逃げてきた集落だ」とマルクが教えてくれた。「貧民区の階層より下にあると聞いてたけど、ここにもあったんだ」

「貧民街の犯罪者じゃない。多分、中流階級層の凶状持ちだ。自分達は貧民まで身を落としてない、そんな奴らと同じじゃない、って気持ちが、ここに留まらせてる」

 タウロも、静かに口にする。三人の居る場所は確かに、貧民区階層よりは中流階級層に近い高さの側壁回廊だ。こんな、総督府からの支配さえ及ばない場所でも、部族間の確執は根付いているのだ。

 始めに出会ったのは、袋小路に続く通路の入り口で座り込む、ぼろの外套を身に纏った男だった。言い方は悪くなるが、総督府の庇護を受けておらず生活環境も劣悪な筈のこの遺棄居住区の中で、その男は体格に恵まれている。四肢が骨と皮ばかりという事は無く、タウロやマルクと同程度の筋肉量はある様に見えた。

 男は、イェウル達の近付く足音で顔を上げる。無精髭を生やし、やけに目をぎらつかせている。

「顔を隠して」

 タウロが耳打ちして、もともと被っていたイェウルのフードをより押し込んで、顔の半分以上を隠させる。何故ですか、と尋ねるが、「口を開くのも駄目だよ」と付け足すばかりで、答えてくれなかった。イェウルはそれに従った。

 何でもない風を装って、男の傍を通り過ぎる。何事も無く終わるかと思ったが、通り過ぎた背後で男が立ち上がり、歩き始める音が聞こえた。自分達の後をつけている、と気付いたイェウルは恐怖に足を止めて振り向き掛けたが、タウロが彼女の手を引き、それを止める。体を震わせながら、イェウルは二人に付いて歩くしかなかった。

 定期的にある、壁の中への住居へと続く、細い道の暗闇から人の気配がする。イェウル達が通り過ぎると、決まって何人かが顔を出し、或いは無言で彼女達の後を追い始めた。

 二人、三人と数は増え、薄暗がりからイェウル達の倍以上の人数が、彼女達を付け狙っている状況へと悪化する。お世辞にも、友好的な態度を取ってくれる雰囲気には見えなかった。

 そして、遂に人影はイェウル達の進行方向にも現れ、行く手を塞ぐ形を取る。止むを得ず、三人は足を止めた。体を震わせるイェウルは、タウロに庇われ、彼の後ろへと体を寄せる。群衆が、イェウル達から二メートル程の距離を取って回廊の窓側の壁へと追い込み、ただ三人を観察する。その目は、荷物が入った鞄に注がれている様に見えた。マルクがフードを外し、ゆっくりと言う。

「俺達は、上に行きたいだけです。通して貰えませんか」

 その言葉が耳に入っているのかいないのか、男達は答えない。ただ、淀んだ目をした一人の男がゆっくりと口を開くだけだ。

「金と、飯。置いていけ」

 イェウルはこの時、恥ずかしながらもその言葉に従うべきだと考えた。本当に彼らが犯罪者の集団であるとすれば、彼らの要求を拒んだ時、女を含めてたった三人しか居ない自分達が無事で済む訳は無いと。だが、マルクは毅然として断った。

「悪いけど、これから先必要になるんです。これだけは、譲れません」

 先の見えない逃避行がいつ終わるとも知れない中、資金も食事も大事なものであった。彼とタウロは、それを良く理解している。二人は、決して首を縦に振らなかった。

 だが拒絶するが早いか、群衆の陰から男が一人飛び出して、高く上げた金槌をイェウルに向けて振り下ろそうとした。恐怖で動けない彼女の肩をタウロが引き、もう片方の腕で男の腕を逸らす。マルクもその動きに反応し、鞄から鏨を取り出して振り回すと、群衆が割れて通り道が出来た。「逃げるぞ!」と彼は叫び、タウロはイェウルの手を引いて彼の後に続く。

 殺され掛けた。その事実が、全速力で逃げるイェウルの頭の中を飛び交い、恐怖が徐々に体の感覚を侵していく。ここはもう、自分が知る安全圏からは最も遠い場所なのだ。

 イェウル達は、どれだけ走り、逃げただろう。体力の限界を感じて彼女の足がもつれ始めた頃、先を走り鏨を振り回していたマルクが階段を走り降りようとした時、物陰から切り出した石の残骸を投げられる。それはマルクの頭を直撃し、彼は派手に階段を落ちた。タウロがマルクの名を叫び、イェウルの体を抱えて、続いて階段を駆け下りた。

 段差を転がり落ちたマルクは激痛に体を捩らせている。かろうじて一命はとりとめた様子だったが、これ以上の激しい運動は出来そうにない。イェウルがタウロから離れ、二人でマルクをそっと仰向けに寝かせる。額を切り、血を流していた。

 逃げる間も無く、イェウル達は回廊の窓側を背にした形で囲まれる。タウロは緊張した面持ちで、ゆっくりと鞄を肩から外し、差し出した。

「持っていって構いません。だから、もう見逃して下さい」

 慎重に、言葉を選んだ嘆願だった。この状況での、最善の選択だ。だが、その願いは男達にあっさりと拒否されてしまう。追われる最中、イェウルのフードが捲れて彼女の顔は衆目に晒されていたのである。

 慌ててタウロに体を寄せるも、遅かった。男達の目つきが変わる。それに気付いたタウロも顔色を変え、叫んだ。「止めろ!」

「邪魔だ」

 呟き、一人の男が金槌を振りかぶり、タウロ目掛けて振り下ろす。イェウルは彼に体を庇われ、視界を塞がれる。

 衝撃が襲った。だがそれは、ただイェウルの体に覆いかぶさるタウロの体から伝わるものではない。衝撃は彼女の体をも震わせ、轟音と共に何人かの男達を吹き飛ばしたのだ。

 魚だった。

 その目的も不明なまま、縦穴の中を優雅にゆっくりと飛ぶその巨体が、何故か今縦穴の外壁に頭を突っ込んで群衆を跳ね飛ばし、崩れた瓦礫の中で停止したのである。

 およそ、何が起きたか理解の及ばない話だった。だが突然の事態に混乱したのはイェウル達だけではない。「何だ、こいつら……」と男の一人が震わせた声を漏らしたのと同時に、彼らの恐怖は仲間に最大限伝播したようだ。我先にと、旧居住区へ続く暗い細道へ逃げ出していった。そしてイェウルとタウロも気付く。顔を恐怖一色に染めていた彼らが見ていたのは自分達ではなく、その後ろの光景に対してだと。二人は、同時に振り向いて窓の外を見た。

 一匹だけではなかった。たった二十メートル程の距離の内に四匹もの魚が、まるでイェウル達を監視するかの如く静かに回遊していたのだ。

「一体、何が起きたんだ」

「タウロさん、これは貴方が?」

「まさか。ここに魔術を使える人間なんて居ない」

 突如現れた、意思を持たない命の恩人。彼らにどう対処すればいいのか分からず、イェウル達はマルクを担ぎ、その場を急いで離れる事にした。彼女達が魚を使って身を守ったと勘違いした様子の男達が、考えを改めて襲ってこない内に逃げなければならない。だが、マルクの怪我では壁面の遺棄居住区に安息の場所があるとは考え難い。

「どうしましょう」

「……非常階段から、あの居住区へ避難しよう」

 マルクを担ぎながら顎でタウロが指し示したのは、中流階級階層繁華街区から、縦穴の中心を挟んだほぼ反対側の大型居住区だった。繁華街以上に密集しており、イェウル達が今居る高さから上へ二百メートルから、下へ四百メートルの居住区画を有しており、縦穴全体を見てもその区画以上の居住区域は無いと思える。「貧民街は人の住む場所じゃないって総督府の判断で、戸籍の管理もまともにやってない。中流層の中でも、あそこみたいな陰気な区画は商業施設もまともに設けられないからって、貧民街に次いでいい加減な扱いを受けてるって話だ。……使われてない家の十や二十、鐘が鳴る前に見付かるよ」


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